2008年12月13日土曜日

小笠原村の父島・母島バレー行脚

 12月6日(土)から11日(木)まで、東京都小笠原村に行ってきた。ここのブログで数回に分けて報告したい。

■12月6日(土)
朝9時に竹芝桟橋で今回の小笠原村バレー行脚のお話を持ってきていただいた岩本洋先生と落ち合った。2年前に訪問した時もやはり岩本先生からであった。その時は小笠原村に関してほとんど知識もないまま、通常のバレー講習会のつもりで同行した。今回は大学院の修論作成の聞き取り調査の目的もあり、事前に小笠原の知識を学習しての訪問となった。
 朝10:00に竹芝桟橋を出港した小笠原丸は1,000km離れた小笠原村(緯度は沖縄とほぼ同じ)の父島の二見港を目指して25時間30分の船旅に出た。船室は1等船室で2段ベッドのある4人部屋。さっそく、岩本先生と互いの近況報告と今回の小笠原行きの趣旨を伺った。招聘があったのは小笠原村教育委員会からで、父島と母島における村民へのバレーボール指導で3日間を夕方は小中生への指導、夜は一般と指導者に講習会というスケジュール。
 岩本先生に早速、修論のテーマでもある島嶼ソフトバレーボール(島々を巡ってのソフトバレーボール交流大会)の歴史を改めて聞いた。ソフトバレーボールを岩本先生に紹介したのは私なのであるが、先生はそのソフトバレーボールで島嶼(とうしょ:島々の意味)を巡り開催することで共感を持ち、そこに内地(島以外の陸地:島の人たちの言い方)からのチームもオープン参加していただき、スポーツ・ツーリズム(スポーツと観光を合体させた概念)として経済的効果も出せないかと考えたわけである。
 先生とのお話は3時間にもわたったが、時間はたっぷりとある。遅い昼食を先生持参のカップ麺を頂き、船酔い止めを念のために飲んで、ベッドにごろりと横になって小笠原村に関しての書籍を改めて読み始めた。
 欧米系住民が定住し始めたのは1830年で、日本はこの頃は幕末である。1876年(明治9年)に日本政府は「小笠原開拓」を決議し、小笠原は正式に日本領土として国内外に認められた。その後、太平洋戦争勃発、強制疎開、敗戦、アメリカ占領そして日本返還と小笠原の人たちは多くの困窮を強いる生活を余儀なくされた。今年がアメリカから日本返還40周年。戦後23年間にわたり米軍に占領され英語教育を受け、返還後は一転して日本語教育となった。戦後生まれの若者達の日本語学習(特に読み書き)は並大抵ではなかったであろうと推測される。
 伊豆七島の八丈島沖を過ぎると、携帯の電波も通じなくなる。小笠原丸が夜の太平洋上を滑るように推進する。掻き分けられた波は濃緑色の海水と白い飛沫を見せている。明日の11時30分には父島に着く。 
(画像は竹芝桟橋の横幕。行こう小笠原へ、小笠原返還40週記念の文字が読み取れる。)  

0 件のコメント: