2009年12月30日水曜日

日立市での高校生合宿

 起床して、前日の肝いりのアンコウ鍋が効いたのか、すこぶる肌つやがよいことに気付いた。ちびっこチームも「ちびっこ軍団」に変身してきたようでアドバイスした戦術を一つ一つ身につけてゆく。実はここの「ちびっこ軍団」の部長がなかなかの人物である。遠征バスの運転手もやっていただいているが、この部長先生なくして「ちびっこちーむ」が、この合宿で「ちびっこ軍団」に変身することはなかったといってよい。松蔭大学での合宿を初めて2日目に、格下のチームとやるときに、相手に不要な点数を与えた場合、部長先生に罰を科しますよと子供たちと約束していた。そして、その時相手に4点も不要な点数を与えたので1点につき2回の腕立てを部長先生に私が命じた。あなたの指導が良くないから集中力のないこのようなゲームになったのですから、お願いします。その時、部長先生は「はい!」とばかりいやな顔をなさらずに黙々と8回の腕立てを実行し始めた。そうしたら、そこに立っていた部員も「私たちもやります!」と一斉に腕立てをやり始めた。これには、私も驚きました。そして、それ以来何かチームがまとまり始めてきたような気がしましたね。
 29日の対戦相手は日立二高と、隣県福島県から見えたベスト四レベルのチームの計三チームで練習ゲームを行い、今年の練習を打ち上げた。今の「ちびっこ軍団」が1月には「ちびっこピラニア軍団」に更に変身した時が県大会決勝で相手と5分5分の戦いができると確信している。今は、4分6分で相手チームがアドバンテージ(優位性)を持っている。春高バレー県大会決勝で、お互いに県のレベルを上げるような納得のゆく内容で人事を尽くして戦って欲しい。ライバルチームがあってこそ自分も伸びる。相手のチームは敵ではない。相手のチームはこちらのチームを伸ばしてくれるライバルだ。敵は自分たちのチームの中にある。敵は自分たちの慢心の気持ち、油断、甘えにある。敵は我にあり。

船橋市中学女子バレー親善交流大会開催

 船橋市は元々千葉県中学女子バレーが盛んな地である。「三きち」と言われた熱心な指導者がいた。「三きち」とは三人の気違いじみた熱心な指導者という意味である。その内のお一人は、大穴中学校の雨宮先生という指導者で温厚な方であった。県大会で、大穴中学は常にベスト四以上で活躍しており、優勝も数多く達成していた。23年前に、優勝した時の大穴中学の主力メンバーが体育科を創設して3年目の市立船橋高校に入学してきた。セッターは「夫婦善哉」を書いた作家の織田作之助のお孫さんで小さいが機敏なプレーが印象的であった。エースは「つん子」という168cmであったがゴムまりのようにジャンプしては強烈なスパイクを放っていた。その年、ほぼ1年生チームで県大会を優勝したことを思い出した。その時のコーチは私と現在市立船橋男子バレーの監督である石井先生であった。
 思い出話はそのあたりにして、28日に「第19回船橋市中学女子バレー親善交流大会」に戻そう。ベスト16からのゲームに先立って、私が紹介され子供たちを励ます挨拶をさせていただいた。市内からの参加チームは18校、市外からは11校の計29校。市内の6つの中学校を会場に熱戦が繰り広がれた。初めは、今は退職された「三きち」の指導者が中心に八校の指導者が始めた手作りの練習会が脈々と今の若い指導者に受け継がれている。このあたりが、いまだに女子バレーの盛んな船橋市の原点なのかもしれない。
 来年は20回記念練習会ということで、私がオリンピック選手を引き連れてくる約束をさせられてしまった。子供たちでも知っているオリンピック選手・・・それもお金をかけないで・・・これは、楽しい難題ですな。
 午後には、自宅にいったん帰り、妻の指導のもとに家事その他を行い、外泊の許可を頂いたので、高校生たちの合宿に戻ることとなった。今回外部コーチに付いているちびっこチームは、既に千葉市から北に茨城県日立市に移動していたので、追いかけるように車で家を出た。行先は県立日立二高。着いたのは夜の九時前であった。まずは、晩御飯をどうぞと案内されたお店で出されたのは高級魚であるアンコウ鍋であった。今の時期からが旬であるらしい。大変贅沢な晩御飯を頂き、学校内の宿泊所に戻り、そこでまた指導者論や教育現場のお話など深夜まで楽しい話が続いた。

2009年12月29日火曜日

そしてまた高校生の合宿に戻る

 27日は朝から千葉敬愛学園に戻り、高校生合宿に戻った。外部コーチしているそのチームは更に良くなっていた。もともと基本の指導がしっかりとなされているチームであるので、私のアドバイスはどんどん子供たちに吸収されていく。一番高い選手が172cmで平均身長が160cmのちびっこチームであるが、サーブレシーブがなかなか崩れない良く鍛えられているチームである。この中学生のようなちびっこチームが春高バレーに出場したらちょっとした話題になるであろう。明るい話題がそのチームには必要だ、と私は強く考えている。けなげに頑張る子供たちが私は大好きだ。諦めない子供たちが可愛い。頑張れ、ちびっこ達!私もできるだけのことはやる。
 

第3回JVA競技規則委員会開催

 来年度のルールブックの編集委員会が29日、大阪府立体育館の会議室にて開催された。大阪への日帰りは結構きつい。新幹線往復で5時間、合宿の疲れもありほとんど寝ていた。府立体育館では前日から全国中学選抜選手権大会(JOCカップ)から開催されていた。ゲームをあまり見る時間もなく、ルールブックの編集委員会に出席した。今回は第1回の校正が主な会議の内容である。この後、1月末に第2回の校正を行い、3月末には2人制、4人制、6人制、9人制のルールブックが完成する。
 会議の後、近くの喫茶店に同じ委員会のメンバーと入店したら、Vプレミアの監督さんと目が合い、同席してしばらく談話する機会を得た。全日本女子のこと、最近の審判員の技術のことなど有益な情報を得ることができた。やはり、全国大会にくるとバレー界の色々な人と会うことができる。

高校女子バレー部合宿開始

 全国的に24日が終業式。終業式を終えた公立高校の女子バレー部や全国私学を終えた全国からの私学の女子バレー部のチームが神奈川県厚木市にある松蔭大学(関東1部リーグ所属)に集まった。北海道、宮城県、栃木県、千葉県、神奈川県、東京都、山梨県、長崎県の新人戦2位以上の名門チームが来年の1月から始める春高バレーの予選会に向けて練習試合を展開した。例年、私も外部コーチとして特定のチームに付いて主にサーブの指導をしている。
 24日から27日昼まで松蔭大学で合宿を行い、午後から千葉県千葉市にある敬愛学園に関東のあるチームが移動するというので、近く(船橋市)に住んでいる私もそのチームの専用バスに便乗させていただき、そのまま午後からの練習にも加わった。敬愛学園には既に北海道、茨城県、東京都、滋賀県、奈良県、埼玉県、栃木県から有力チームが集まっていた。高校の指導者たちは、本当に熱心だ。指導者たちの家庭は大丈夫かなと心配になるが、ご家族の応援があってこそ指導者たちも指導に専念できているのであろうと考えることもできる。
 28日には千葉市で私がコーチをしているママさんバレーのチームの女性監督が陣中見舞いということでプリンなどを差し入れしていただき、外部コーチをしているチームの子供たちは喜んでいた。やはり、高校生も女。花より団子なんですね。プリンを見た瞬間、その日の午後からのゲームは他県1位の実力チーム全てにほとんどセットを取る寸前までの頑張りを示した。また、他県の2位以下のチームにはことごとく撃破するという豹変振りであった。願わくば、このままの勢いを保って春高バレーの県予選会まで行ってほしいものだ。

全国私学高等学校バレーボール大会

 20日から23日まで町田市の総合体育館にて第14回全国私学高等学校男女バレーボール大会が開催された。参加チームは160チーム。男子の優勝は東京都の東洋が初優勝、女子は宮城県の古川学園が優勝した。3年生がゲームに出なければいけないルールなので、年が明けての春高バレーの成績の参考にはならないが、3年生が出るとやはりレベルが高くなる。
 来年は、春高バレーが1月5日からの開催なので、この私学大会の開催と非常に近接することになり、春高バレーに代表になったチームが私学大会にも出場することは、コンディション調整や経費の絡みで非常に難しくなるのではないかと危惧した次第である。
 我が国のスポーツ界を牽引している私立学校のバレーボール部がこの全国私学大会に来年度からどのように対応していくのか気になるところである。

2009年12月15日火曜日

5ヶ月ぶりの大学院訪問

 5ヶ月ぶりに丸ノ内線の茗荷谷から歩いて2分の大学院に残してきた資料や文献を取りに行った。夕方訪れたので院生もほとんどおらず静かな校舎であった。5月に仕事のやりくりをしながら何とか論文提出をやっていた時期が懐かしく思い出された。院生室には誰もおらず、ふと教官室をみると私の指導教官であった菊先生の部屋の明かりがついていた。ノックすると「どうぞ」といういつもの声が聞こえてきた。しばらく先生と雑談をして部屋を出た。先生のお話では、今年も1月には論文提出が間に合わない院生が数名いるようだ。
 仕事を持ちながら論文を書き上げるのは確かに難しい。しかし、それを承知で入学してきた仲間たち。誰一人として弱音は吐かないが、普段論文形式の文章作成の習慣のない社会人にはきつい作業ではある。私の初めての論文も指導教官に徹底的にこきおろされた。私の初めての論文は「渡邉さん、本でも出版されるのですか?論文の形式にまったくなってないですよ」と、言われたものである。4年生大学の卒論だったら分厚いレポートのようなものでも論文として受理される大学が多いと聞く。さすがに大学院の修士論文はそれではだめだということだ。他のスポーツ系の私学の大学院では結構甘いということも耳に入っていた。しかし、ここはいやしくも国立の大学院の誇りを持っている。審査は厳しかったが、今となっては自分のために良かったと思っている。
 大学院を修了したメリットは何ですか?とよく問われる。私には今のところメリットは感じられないが、修士論文を仕上げた自信に誇りを持っている。放り投げだそうと思ったことも数度あったが、これ以上だめだという限界を繰り返していると、ある日突然パッと明かりがさしこみ急に理解が進む時がある。
あきらめなければできる、ということをこの時ほど感じたことはない。
 もう駄目だと思ってもすぐに放り投げださず、もう少し、もう少しと努力を継続することしか成功への道はない。あきらめなければきっとできる。

2009年12月14日月曜日

三郷市中学生女子バレーボール教室

 12月12日(土)は埼玉県三郷市の三郷総合体育館に行った。昨年の12月から依頼されていた教室である。対象は市内13校のうち9校の中学女子バレー部。昨年の講師は、元全日本男子監督も務めた斎藤勝先生。依頼主は三郷市を中心にママさんバレーの指導を精力的に行っているモントリオールオリンピック金メダリストである神白(旧姓飯田)高子さん。飯田さんからの依頼とあれば断る理由はない。お声をかけて頂いたことが名誉なことである。
 開講式は三郷市教育長の挨拶から始まった。中学生たちは、ほとんどが中学校に入学してからバレーを始めたという初心者であった。初心者には、リードアップゲームとしてのミニゲームをたくさんやってバレーボールのラリーを楽しんでいただこうと、まずはアップとしての基本のステッピングからスタートした。ところがこのステッピングがうまくいかない子が多すぎたので少し時間がかかってしまった。基礎的な体力が不足していることは明らかであった。ボール投げもたくさん行った。投げる動作がスパイクやサーブの動作につながるので有効なアップである。子供たちが自分たちでできる基本練習も紹介した。
 教室終了後に、珍しく飯田さんから夕食のお誘いがあった。ママさんバレーのお弟子さん3人も同席し楽しく会話が弾んだ。飯田さんが中学生バレーに危機を抱いたのも本日の教室で少しわかったような気がする。三郷市は外部コーチを認めていないということだ。教員も公務多忙。日本体育協会の指導者資格を有している地域の人材を活用すれば、教員先生方も子供たちも助かるのではないか。そんなことやらたわいのない会話まで9年ぶりかで飯田さんと夕食を共にした。金メダリストでここまで地域に密着して貢献している人はいない。いつまでもお元気でママさんと中学生を指導して欲しいものである。

2009年12月8日火曜日

今日は日米開戦の日

 悲惨な戦争は、68年前の今日、ハワイにある真珠湾攻撃で始まった。日本が先に奇襲攻撃を仕掛けたとか、奇襲攻撃を意図的に掛けさせられたとか歴史家は諸説述べているが、戦後残ったのは日米双方の多くの痛ましい犠牲者ではなかったか。開戦時は帝国主義の時代。強国がエネルギーの獲得とともに国力の拡張、敵国への防御に軍事力で対峙していた時代である。思えば、黒船の時代から日本はアメリカや欧州列強の脅威にさらされていた。
 2年前にソフトバレーの指導の関係で初めて小笠原の父島に行ったとき、ペリーの黒船が食料補給で立ち寄った記録を読んだ。激戦地の硫黄島も30キロ先に浮かんでいた。
 朝日新聞の天声人語で、そんな日米開戦に関する記事を読んでいたら、批評家の小林秀雄さん(故人)が能について述べた一節が書かれてあった。〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉。ソフトバレーについて、小林氏のくだりを借りて言うならば「『楽しいソフトバレー』がある。『ソフトバレーの楽しさ』という様なものはない」となろうか。抽象的な「楽しいソフトバレー」でおしまいにせず、ひとりひとりの「ソフトバレーの楽しさ」を追求することが愛好者を増やすことになるのではないか、と考えた次第である。
 ソフトバレーが発明されて20年が経った。そして、日本的な「部活スポーツ」を経験してきた役員が主催するからであろうか、地域の交流大会は、競技スポーツの色彩が強くなってきた。このままでは一部の上手で強い愛好者たちだけが残り、プレーそのものを楽しんでいる大部分の普通の愛好者は同じコートから去っていってしまうのではないか、という危惧感がある。ソフトバレーは競技的にも楽しめるレクリエーション・スポーツであって、競技スポーツではない、という原点に立ち返る必要がある、と私は考えている。

2009年12月6日日曜日

第15回船橋市近隣親善ソフトバレーボール交流大会開催


 本日は、3年ぶりに地元の交流大会に我がクラブの仲間と参加した。参加チームは全部で45チーム、その内、市外チームは24チームで県外は3チーム。実はこの交流大会は我が船橋大穴クラブが2回まで開催し、その後、市協会に移管したものだ。いつも県外のチームに招待されていたので、年に1回は自分たちでご招待しようということで、最初は県外のチームが半分もいた。ほとんどのチームが全国大会に行ったことのあるチームでレベル的にも結構高かった招待試合であった。県外からのチームは、前日から集合し酒宴で盛り上がり、翌日は二日酔いもなんのそのという活躍ぶりであった。あの当時、皆40歳代50歳代の働き盛りで、ソフトバレーの未来を夢を持って語りあっていた。今思えば、楽しいひと時であった。
 時とともに当時のソフトバレーの理念が薄らいでいっていると感じているのは私だけであろうか。ソフトバレーボールは競技的にも楽しめるレクリエーションである。しかし、競技的のところが、最近拡大され過ぎているのではないだろうか。初心者が定着しない、高齢者が減ってきた、という声を全国的に聞く。活動をやっていないわけではない。練習はやっているのであるが、試合には出てこない。試合に出てもすぐに負けてしまうから、つまらない。だから大会には出ない。
 ソフトバレーボールはもともと誰のためにできたのか。初心者や高齢者、そして子供たちを中心に誰でもできるというキャッチフレーズで日本協会が発明したスポーツ種目である。「誰でも、試合に出て普段の練習の成果を出して、他のチームと交流して仲間意識を醸成していくのもソフトバレーの目的の一つである」。試合のやり方を少し工夫すれば初心者でも1勝1敗のそこそこのゲームができる。全敗で、一方的なゲームでは、確かにつまらない。これからは、障害者の人も一緒にチーム入って対戦するようになってくる。対戦の組み方、表彰の工夫などまだまだ考えられることはたくさんある。
(画像は、会場の船橋市運動公園体育館での開会式での風景。準備運動に軽音楽をかけて全員で行うという伝統はまだ継続されていた。今回から、市内のスポーツ店に売店を出していただき参加者に喜んでいただけるように特価品を販売していただいた。随分売れたということをスポーツ店の店長から報告を聞いて、これも参加者満足の一つ、と私も一安心した次第である。)

2009年12月5日土曜日

埼玉県坂戸市ソフトバレーボール連盟主催研修会

 本日は、以前から講師を依頼されていた埼玉県坂戸市でのソフトバレーボール研修会に出かけた。会場は坂戸市を代表する総合体育館である。内容は「ミニリーダー研修会」というようなもので、朝9時から午後4時半までのスケジュールでルールの理解を中心にウオーミングアップ、基本練習法を学ぼうというものだ。
 地域でのこのような研修会は、通常は講師を引き受けないのであるが、会長さんのお名前が私の故郷の山形と同じ姓であったという単純な理由でお引き受けすることにした。但し、私からの条件としては、埼玉県連盟を通じて再度ご依頼くださいとお願いした。
 車で出かけたが、高速道路を平均時速100kmで2時間かかった。坂戸市連盟の特徴は女性役員が多く、明るいという印象であった。ソフトバレーボールの愛好者は6割以上が女性なのだから、役員も半分以上は女性がいたほうが女性の立場がよく理解でき運営も上手くいくに違いないというのが、単純であるが私の論理である。
 受講者は約40名。「ゲームライクな練習」というテーマで、試合が近い場合の練習のやり方というものをご紹介した。1週間前の青森県での指導者研修会との関連もあり、内容的には濃いものであった。
Warming-Up、Cooling-Downも少し詳細に説明させていただいた。
地域で愛好者のために頑張る役員さんたちには、本当に頭が下がる。会長の山形さんのような地域のリーダーが県連盟の役員にもっと増えてくれば埼玉県連盟もさらに発展するであろう。県連盟というものは地域で頑張るリーダーたちを支援することが任務の一つである。第2第3の山形さんのようなリーダーを発掘し育てていけば日本のソフトバレーはもっともっと発展する。本日はそんな希望を頂いて会場を後にした。
 明日は3年ぶりに私の地元での近隣招待試合に出場する。

2009年12月2日水曜日

青森市での指導者研修会


11月27日夜から28日、29日と先週末は、青森市民体育館で約40名の県内トップレベルの受講者と県ベスト8の男子は青森工業、女子は青森中央高校バレー部員をモデルに東北ブロック指導者研修会の講師で行ってきた。外は気温11度でしたが、体育館内は熱気で温度が上がり、研修を終了。今回は自分で出したテーマの「ディフェンス・システムの理解~ブロックとのスパイクレシーブの連携~」であったが、指導ノートを作るうえで結構苦労した。しかし、そのお蔭で私の知識はまた増えた。教えるということは学ぶということ。それにしても、夜のご招待と日中の緊迫した研修会は疲れた。
 30日の早朝に日本体育大学バレーボール部の前部長である進藤教授が心不全で亡くなられた。享年69歳であった。12月3日の本日、東京都体育館をメインに開催されている全日本大学バレーボール選手権大会に行った。丁度、日体大男子の試合であった。進藤先生は秋田県でNo.1の進学校である県立秋田高校出身である。私が山形県人だということで、同じ東北人として随分可愛がっていただいた。 ご自宅にも何度か招待され、日体大出身の当時の日本リーグ在籍の全日本選手たちと仲良くお酒を飲ませていただいたことを思い出した。豪快で繊細でお茶目な進藤先生は旅立った。ご家族も寂しくなることであろう。
合掌。 
(画像は受講者とモデルチームの青森中央高校女子バレー部そして青森工業高校男子バレー部の全員での集合写真。2日目の研修会の時に子供たちがだらけてきたので、活を入れた。「君たちは男優であり女優なのだ。演技は大袈裟に強調してやらなければ画面で映えない。もっとパフォーマンスしなさい」。そうしたら、男優や女優という言葉が効いたのか、子どもたちは最後の力を振り絞り頑張りだした)

2009年11月25日水曜日

 アジアの国際審判員生みの親、池田久造氏逝去


 現(財)日本バレーボール協会会賓であり、審判審査委員会委員長、FIVB審判委員会主事を歴任されました池田久造先生が、かねて病気療養中のところ薬石効なく11月19日(木)ご逝去されました。

 私の知っている池田先生は、いつも帽子をかぶりダンディないでたちで背筋をピント伸ばし、お話になられる紳士然とした方でした。先生との初対面は1980年モスクワで開催されたオリンピック会場でした。 そして、1982年アルゼンチンでの第10回男子バレーボール世界選手権に私が社命で単身視察に行くことになり、池田先生にご相談したところ、 FIVB競技委員長で重鎮のMr.ホルベイをご紹介され、丁重な紹介文を頂いた覚えがあります。お蔭にて、アルゼンチンでの業務活動が スムーズに行きました。

 また、先生ご著書の「バレーボールルールの変遷とその背景」(日本文化出版1985年)は、大変な労作で、先人が苦労されてルールの改・修制をおやりになっていた経緯が 詳細に記されており、私の大事な蔵書の一つとなっています。 指導者は技術、戦術に長けているだけでなく、「ルールの精神」を良く理解することでゲームが成立することを先生の著作から学ばさせていただきました。現在、私が日本ソフトバレーボール連盟で審判規則委員長の重責をかろうじて果たせているのも、先生にお目にかかった29年前モスクワでの出会いがあったからこそです。お聞きしたいことはまだまだあったので逝去の報に接し悔やまれます。
 先生、安らかにお眠りください。 合掌
(画像は先生の著作。先生は、1915年神奈川県のだ原市生まれ。1936年日本体育会体操学校高等師範科(現日本体育大学)卒業。1941年大日本排球会常任理事に就任以来、一貫してルール、審判関係の要職に携わってこられた)

2009年11月19日木曜日

ワールドグランドチャンピオン男子開幕


 開幕戦は、いきなりヨーロッパ選手権優勝のポーランド。ロシアやイタリア、フランス、ブルガリアの強豪たちを倒しての欧州代表だ。戦前の予想では、3-1でポーランドかな、と思いきや嬉しい誤算で日本が3-2での勝利。やはり、攻撃的なサーブで相手を単調な攻めにすれば身長で劣る日本にもチャンスはある。日本での試合であることを割り引いても、今回の勝利は価値ある勝利である。今夜の試合の相手は先月カイロで戦って惜敗したアフリカ代表のエジプトである。アフリカ地域のエジプト、チュニジアはナショナルチームの選手はアラブやヨーロッパにプロ選手で経験を積んでいる。実力は日本と五分五分。侮れない相手である。ちなみに、チュニジア男子は私が、かれこれ30数年前に2年間指導していた。現在のチュニジア国内の指導者は教え子の世代であろう。チュニジアも過去8年間で2度、全日本男子に勝利している。・・・ちょっと、自慢話でした。
 さて、今夜のエジプト戦にも勝利できれば男子バレー復活のきっかけになる。現状のままでは、日本に男子バレーは無くなってしまう。「バレーボールは女子のスポーツでしょ?」そう言われた昭和39年の東京オリンピックの時代に戻ってしまう。頑張って欲しい男子バレー!

2009年11月15日日曜日

目黒区で区民対象にバレークリニック開催

 目黒区体育館がバレーボールクリニックを区民対象に本日開催。会場はJR目黒駅から徒歩で12分ということであったが、駅の地図を見ても迷いそうであったので、タクシーで行った。会場に着いても体育館の入り口がわからない。本当にバレーコート1面しか取れない小さな体育館であった。講師は丸山由美さん。補助コーチは神奈川県立大和南高校バレー部の3年生4人と進行役の私。3年生の内の一人は実は、丸山さんの次女である。3人レシーブやスパイクの見本練習では、さすがに昨年のインターハイ3位、今年の新潟国体4位の実力を見せつけてくれた。大いに館内が沸いた。午前中は小学生、午後はママさんバレーの計100名。ママさんバレーの部には、70歳以上の受講者が10名もいた。目黒区のママさんの特徴であるようだ。なんと、インターハイ第2回出場の方もいらした。
 クリニックも終わり、JR目黒駅の近くのコーヒー店で菓子パンを頂きながら反省会。この日は、神奈川県新人大会でベスト8まで試合があった。店内から監督に報告の電話をして、新人戦の結果を聞いた。来年の春高バレーで決勝戦進出を目標にしている同校は順調にベスト8に進出とのことであった。
 高校生たちの進学や就職も決まってきた。あと数人はまだ決まっていない。推薦で決まるものなら早く決まってほしい。来年の2月まで入試や入社の試練は続く。毎年のこととはいえ、親子ともども気が気でない時期である。全員、希望が叶って欲しいものである。

2009年11月10日火曜日

JVA競技規則第2回編集委員会開催と・・・

 11月7日(土)は会議のダブルヘッダーであった。午前中は千駄ヶ谷にある日本協会にて、第2回競技規則編集会議に出席。2人制のビーチから6人制、9人制、4人制のソフトバレーボールの来年度の競技規則改修正を検討する会議だ。スタートでソフトバレーボールから始めて頂いた。来年度には数年振りに改正がある。ここではまだ書けないが、画期的な改正になると思う。発表になれば、なんだそんなことか、と言われるかもしれないが、愛好者にたいへん分かりやすい条文になっていると確信している。修正点は多い。現状のソフトバレーボールのルールブックには、まだまだ文章として明晰でない点が多い。6人制、9人制のベテラン編集委員に何度も推敲をお願いして、ソフトバレーボールの本質から外れないように、愛好者に分かりやすい文言と表現を目指し、あと1回の編集会議を経て、2010年版ルールブックが3月には愛好者の皆さんの手元に届く。
 午後からは、日本ソフトバレーボール連盟の来年催される20周年記念事業の部長会議に出席。千駄ヶ谷から東京駅に移動しての会議室で4時間ほど進捗状況を確認し合った。私の役割は式典部なので会場の手配、招待者の選出、案内状の発送、式典進行などが担当となっている。大変なのは記念誌の編集であろう。指導普及委員長の吉田さんが担当になっているが、長年協会や連盟で役員活動されて日本実業団連盟や愛知県ソフトバレー連盟、愛知県協会で数多くの周年事業に携わってこられた吉田さんでなければ、この任は全うできないであろう。
 会議の後、理事長の成田先生を交えて食事会に行った。成田先生も来年の春は東海大学を定年さsれる。その後は、ご本人は胸の内を明かさないが、日本協会で専務理事として専従され、ますます辣腕を振るわれるのであろう。食後、お別れした後、先生は10日から始まるワールドグランドチャンピオンに出場する全日本女子の練習会場に行かれた。そういえば、先生は男女の強化委員長であった。観客が大勢入ってくれれば良いが、いまのところ初日は完売であるが、全体のチケットの販売数は苦戦しているところである。全日本は強くないと人気は出ない。先生は不満、苦情、愚痴などの耳触りの良くないお話はめったになさらない。その分、内に溜まるもやもやが私には気にかかる。私のように、不満、苦情、愚痴をストレートにぶちまけている人間から見ると、あまり我慢されて気の病に陥らなければよいがと心配する。
  さ、本日のグラチャンは韓国とのゲームだ。安心してみていられるのは今夜だけで、残りの4試合は各大陸のチャンピオンとのゲームで勝つというより、どれだけ健闘できるかが私の厳しいようであるが正直な見方である。無様な負け方だけは見たくない。ロンドンオリンピックに繋がる戦い方をして欲しい。頑張れ日本!
  

2009年11月3日火曜日

インフルエンザと山梨県高校女子バレー新人戦と・・・


 10月24日までの1週間で、インフルエンザを理由に休校や学年・学級閉鎖などの措置をとった小中学校や高校、保育所、幼稚園などは13,964施設だったことが28日、厚生労働省のまとめで分かった。ほとんどが新型インフルエンザとみられる。11月には多くの高校バレー部も対外練習試合禁止令が学校側から出ている。有効なワクチンが早く製造されて予防接種に迅速に取り組んでほしいものだ。

 11月1日に山梨県高校女子新人戦に行ってきた。朝5時に起床し、私の住んでいる千葉県船橋市から電車を乗り継いで行った。西船橋から総武線で30分でお茶の水へ。ここからが中央線となり、15分後に新宿駅で特急に乗り換え1時間半で山梨県甲府駅に到着。10分ほど待ち合わせて、身延線というローカル線で15分で市川大門という駅員のいない無人駅に到着。さらにその駅から車で15分で、なんだかんだで3時間かけ、会場の増穂町体育館に到着。

 体育館に着くと、名門である県立増穂商業女子バレー部元監督の山村先生にばったりとお会いした。もう80歳に近い年齢であるが、お話を聞いていると現役時代と同じ矍鑠としている。先生は矢野広美さん始めオリンピック選手を2人、全日本選手1名育てている。全国激戦区の関東大会でも1度優勝している。山梨県のように全国で人口の少ない県で下から数えて3番以内に入る地域でよくも東京や神奈川、埼玉、千葉など人口密集の他県と戦ってきたものと改めて驚いてしまう。先生の教え子達がライバルとなって県の1位を戦っていることを恐る恐る聞いてみた。

 「先生の教え子たちが全国を目指して活躍されていますね」「こんな小さな県で戦っている場合じゃない。集結して戦わないと他県には勝てない。県で勝っても、全国で太刀打ちできない」なるほど、先生らしい。先生はいつでも日本一を狙っている。全国大会出場のその先を見据えている。

 9時半に、上位4チームでの決勝リーグ戦が始まった。決勝リーグに残っているのは、日本航空、増穂商業、甲府商業、帝京三。午後に入り、三・四位決定戦がフルセットにもつれ、一,二位決定戦が始まったのは4時近くになった。結果は山村先生の教え子の辻知恵さんのご主人である辻監督率いる古豪増穂商業が矢野広美新監督率いる全国常連の航空高校に2-0のストレートで勝利。

 山梨県の春高バレー県予選会は2月上旬に開催される。それまで3ヶ月間ある。この3ヶ月間という期間は、何かが変わる期間でもある。「石の上にも三年」「三三七拍子」「三三九度」「桃栗三年・・・」などと三という数字は我々の生活の中で重要な数字である。体力トレーニングの効果が出てくるのも三ヶ月目だ。インフルエンザでこの11月は対外練習試合禁止であれば、それを逆手にとって学内でみっちりトレーニングに励めば良い。大事なのは「心、技、体」の順番ではない。「心、体、技」である。ミュンヘン男子金メダル獲得の原動力は、斎藤トレーナーによる逆立ちやアクロバット・トレーニングであった。モントリオール女子金メダル獲得の影の功労は、やはりフリーウエイトによる筋力トレーニングであった。1990年代世界男子バレー界を席巻したイタリア男子の秘密兵器は、本格的なウエイトトレ―ニングであった。監督のベラスケ氏は2002年に講習会で来日した際、私にこう言った。「体ができていなくては新しい技術は獲得できない。そして、油圧式でなく一時代前のバーベルやメディシングボールなどの器具を使うことで集中力も養われたという副産物もあったんだ。つまり、集中してトレーニングしないと腰などを痛めてしまう恐れがあるから、真剣にならざるを得ないからね。しかし、やり過ぎてもいけない。人間の体は微妙だから、個人カルテを作って実施すべきだね」。

 インフルエンザを逆手にとって、ここはひとつ、ウエイトリフティング部と見間違うほどにトレーニングをやることが11月の過ごし方になろうか。子供たちは、ムキムキウーマンになるのを嫌がる子も出てくるかもしれないが「何言ってんのよ。ムキムキになる太い筋肉を作るやり方ではなく、細くしなやかで速い筋肉を作るやり方ですよ。余分な脂肪を取り去り、体脂肪率を下げて貴方達を女優のように均整のとれた美形にするための筋トレよ」。おっと、なんで女性調の話し方になるのであろうか。いずれにしろ、男はトレーニング場にシルベスタスターロンのムキムキポスターを貼り、女はアクション女優でもあるアンジェリーナ・ジョリーのポスターを貼り、目標の体形作りに励もうではないか(ああ、なんか乱れてきた・・・)。
(画像はアンジー。ご主人はご存じブラピことブラッド・ピット。父親は50歳以上の映画ファンの方なら知っているアカデミー賞作品『真夜中のカウボーイ』に主演したジョン・ボイト。一緒にく主演したのが『卒業』のダスティ・ホフマン。ジョン・ボイトは最近、私の愛読ドラマ『24』で、しぶい黒幕を好演している。さて、ビデオを借りに行こうか。本日は文化の日ですからな)

 

2009年10月26日月曜日

全国ソフトバレーボールレディース&メンズ交流大会閉幕


 昨日の25日で3日間山形県酒田市にて全国から96チームが参加し開催された全国大会が閉幕した。2名の怪我人が出たものの、大過なく皆さんプレーに交流パーティに3日間楽しんだ。初日の代表者会議と開会式は、市民会館にて行われ、開会式後はステージで黒森歌舞伎を鑑賞した。黒森地域で270年前から続いている農民歌舞伎で国の重要文化財に指定されている。その後は、映画のアカデミー賞受賞作品の「おくりびと」のメインロケ地でもある酒田市内「おくりびとバスツアー」が無料で行われた。なかなか適時を得た企画であった。
 参加チーム数であるが、レディースで12県、メンズで19県が残念ながら不参加であった。理由として、ここのところの景気の悪さ、年齢構成の難しさ、大会日数の長さ等がある。年齢構成はコート上に39歳以下1名、40歳以上が3名がいなければならない。各チームとも39歳以下のメンバーを交代要員も含め2名獲得するのに苦労していると聞く。つまり、普段練習している一般のクラブやチームでは多様な年代が必ずしもいるわけではない。そうなると、他のクラブやママさんチームからメンバーを借りてこざるを得なくなる。普段一緒に練習をやっていないメンバーと予選会のために練習をやることは、確かに世代間の交流ということでは意味のあることではあるが、気心が知れるまでは時間がかかる。そこで私からは次のように提案したい。つまり、「以上」の発想である。20歳以上が1(2)名、40歳以上が3(2)名でコート上のチームを形成すればチームを作りやすくなるのではないか、と考える。今年の理事会で提案する予定だ。
 メンズの方は、以前から言っているように、発展的解消がよろしいであろう。日常的にメンズだけで行っていない種別を全国大会として開催する意義は薄い。県大会やブロック大会にも存在しない種別が全国大会にだけあるというのも奇異である。日本連盟が20年経った今、全国大会のあり方も見直しが求められていると考えられる。生活の一部分をなしているスポーツというのが我々の理念である。いわゆる「スポーツの生活化」である。音楽や絵などの芸術と同じように生活になくてはならないスポーツとして老若男女が一緒になって楽しめるソフトバレーボールがニュースポーツのリーダー格になってきた。ここいらでソフトバレーボールの理念も再構築、仕切り直しが必要になってきているのかもしれない。このままでは、ソフトバレーボールは競技化と大衆化の2路線に分かれていくような岐路に立っている気がする。競技化と大衆化の両方の良さを持ちながら、さらに発展していく考察が求められている。
来年度は、四国愛媛県の松山市にて開催。松山市といえば、もうすぐ始めるNHKの長編ドラマ「坂の上の雲」(司馬遼太郎原作)のロケ地だ。酒田市に負けるとも劣らぬメディア活用の企画が出てくるのであろう。是非とも行ってみたいものだ。
(画像は、メインコート10コートでの交流大会風景。この他、サブコートに2コート設けて17年前に開催された山形国体のバレー会場であった酒田市国体記念体育館にて開催された。故郷の酒田はこの時期には珍しく3日間晴天であった。秋の穏やかな涼風で私達を包んでくれた故郷、そして素敵な仲間たち、ありがとうございました)

2009年10月22日木曜日

明日から全国ソフトバレーレディース&メンズ交流大会開催


 明日から、全国ソフトバレーレディース&メンズ交流大会が開催される。仕掛け人は山形県連盟副理事長であり、地元酒田市連盟会長の佐藤三幸さんと宮城県連盟理事長の三浦さん。昨年、東北ブロックでは初めての日本協会が主催、地域と県連盟が主管の全国シルバーを宮城県が開催した。今年は山形県だ。実は開催地の酒田市は、私の故郷である。高校時代まで住み暮らした土地で全国大会が開催されるというのも感慨深い。思えば、5年前から酒田市で全国大会を開催して全国の愛好者の方達に酒田市を良く知ってもらおうと佐藤さんと三浦さんを交えて会うごとに、飲むごとに話し合ってきた。

開催までこぎつけてきたのは、佐藤さんを中心に故郷のソフトバレー愛好者の方達の継続的な努力の賜物である。

 今回の大会は、身の丈全国大会のスタートになるであろう。背伸びをせずに、自分たちのできる範囲で、華美にならず、質素でも、おもてなしの心で他県からの仲間を迎え入れて2泊3日を楽しい思い出を作って頂こうというのが酒田市の交流大会である。

 明日の昼過ぎには、5月以来であるが酒田の地に到着する。どんな思い出が作れるか私も楽しみにしている。
(画像は先週の三宅島ソフトバレーからの帰路、船中から撮った太平洋に沈む夕日。あっという間に沈んでしまった。明日は日本海に沈む夕日が見られる)

2009年10月20日火曜日

今夜は久しぶりに船橋の我がクラブでソフトバレーの練習


 これから、自宅を出て船橋のソフトバレークラブ「大穴」の練習に行く。ここのところ、出張やママさんバレーの練習と重なってソフトの練習はお休みしていた。一昨日も市の交流大会があったはずであるが、結果はどうであったのであろうか。怪我さえなければ勝敗はトントンで良い。

 最近若い人たちがソフトバレーに入ってきた。そのこと自体は嬉しいことなのだが、マナーの悪さや勝利至上主義がベテランの人達の眉を顰めさせているということが私の耳にもよく入ってくるようになった。マナーが悪いのは、これはベテランの姿を見ていれば良いところを真似してそのうち良くなるであろう。試合中の悪態も連盟や主催者の講習会・研修会を繰り返していく中で解消されていくことと考えている。勝利至上主義は、このソフトバレーには似合わない。勝利主義と勝利至上主義とは違う。「至上」とは、何としても、何が何でもという強い意志がある。我々が楽しんでいるソフトバレーはレクリエーション。相手のチームは敵ではなく仲間。相手がいなくてはゲームもできない。相手に感謝の念を持って、ルールを遵守し、練習で培ったスキルを活用して、日常培ったの体力を無理なく消費しながら、負けないように戦術の工夫を凝らしゲームを楽しむことがレクリエーションスポーツである。従って、公式ゲームのときは、監督でもある私は、全員必ずゲームに出てもらう。上手な人たちだけでチームを組むこともしない。その大会に出れる人たちでチームを組み、1ヵ月前からコンビを合わせる練習を行う。

 勝っても負けても、怪我なく笑顔で相手のチームと挨拶の握手ができるのが良い。
(画像は三宅島で訪れた三宅島の焼酎「雄山一(おやまいち)」という銘柄の焼酎の醸造元のおかみさんと一緒に記念写真。各島にはなぜか地元の焼酎が作られている。私は、必ずと言ってよいほど醸造元に行って社長さんとお話してくる。おかみさんは以前は婦人部バレーのエースであったとのこと。来年の交流大会では、お店を休んででも参加してきてね、とお願いしてお店を去った)

2009年10月19日月曜日

三宅島ソフトバレーボール交流大会開催


15日(木)から三宅島に入り、翌日からの第1回島民ソフトバレーボール交流大会の準備を行い18日(日)の昨日、東京の竹芝桟橋に帰ってきた。
 三宅島と言えば、ほとんどの人は2000年の雄山の噴火で2600名の全島民が東京に避難したことを覚えていることであろう。5年前から帰島が許されても約1,000名が島に帰ってこない。三宅島はバード・アイランド(鳥の島)と言われるくらい鳥の種類が多い。日本国内にいる鳥の種類は350種類らしいが、その半分の種類が三宅島にいるとのことだ。理由は鳥の天敵の蛇がいないからだ。なぜ、三宅島には蛇がいないのかは分かってはいない。
 いずれにしろ、その三宅島を7月に東京都教育委員会の役員と一緒に訪れ、体育指導員の方達にソフトバレーの指導を行い、三宅島の教育委員会の若い職員を東京都ソフトバレー連盟主催の交流大会を視察して頂き、なんとか当日の交流大会まで持ってきた。12チームの募集に一計を案じ、元オリンピック選手たちを呼ぼうと考えた。あの「プライア」である。監督の岩本先生に相談したら2つ返事で快諾。藤田幸子、永富有紀のオリンピアンが来てくれることになり、募集のチームもすぐに埋まった。プライアの他に、東京都から1チーム呼ぼうと声をかけたところ、都連盟役員の松田さんが監督をやっている若い人たちのチームが参加してくれた。決勝戦はそこのチームと激戦になったが、心優しい松田さんはソフトバレーに慣れないオリンピアンチームに勝利を献上してくれた。
 夜の交流パーティには100名を超す島の若い人たちが集まってきた。お隣の島の八丈島からも教育委員会チームが参加してきていた。挨拶で、村長が「こんなに島の若い人たちが集まったのは久しぶりです」と感慨深げの様子であった。これがスポーツの力。ソフトバレーボールのパワーなんですね。
 伊豆諸島、小笠原諸島合わせて「東京諸島」というのであるが、島のソフトバレーボールが熱くなってきた。今後、東京都で開催される交流大会に三宅島の選抜チームが参加して「今度は一泡吹かせましょう」と昨日帰りの船でたまたま一緒になった三宅島高校の校長の佐藤先生がが豪語していたことを思い出した。三宅島の今回の交流大会には、本当にいろんな方達が参加されていた。婦人会、小学校の校長以下の教員、青年団、漁師・・・、次回再会するのが楽しみですね。
(画像は、交流パーティで。島で唯一のホテルのレストランを貸し切っての立食パーティ。三宅島って、本当に植物の宝庫で、沢山の花が乱舞していてまったく飽きることがない。来年度には島嶼交流大会第8回を三宅島で開催できる可能性が出てきた。そして、次は八丈島かな・・・)

2009年10月12日月曜日

体育の日

 昨日は、関東大学秋季リーグ戦後半戦のゲームを観戦に早稲田大学記念会堂まで行った。観戦もそうだが、大学院修了を直接ご報告したかった。体育館玄関に入る前からいやに静かであった。果たして、中に入ってみると、バドミントン部が静かに練習をやっている。あれっ、会場間違ったのかなと手帳を確認するが、間違いなくここだ。他にも応援に来たらしい人が数名「あれっ?」というような顔している。時間的には、ゲーム直前ではあるが、東海大学の成田部長に電話してみた。成田先生曰く、東京女子体育大学バレー部にインフルエンザが発生し2日前に延期になった、ということだ。むむ・・・今期は、私の日程上試合を見に来ることはできないな、と残念ではあったが記念会堂を去った。
 午後から、総武線の平井駅に向かった。江戸川区バレーボール協会の指導普及委員会役員との打ちあわせだ。1月17日(日)に開催するママさん対象のクリニックの打ち合わせに、5名の役員が同席された。会場の区立小松川小学校にて会場視察を兼ねて打ち合わせを行った。ここのクリニックは一昨年から講師を依頼され、今度で三回目だ。区内には登録チームが80チームあり、その中から各チーム2名以内で合計60名先着方式で募集する。テーマは事前に申し込み用紙に希望事項を記入して頂き、それに応える形で二つほどテーマを選定し進行する。実技で指導できない部分は、昨年から始めたのであるが、資料の形で受講者に配布する。
 今週木曜日から日曜日まで伊豆諸島の三宅島にソフトバレーの指導と村民対象の第一回交流大会開催のため渡航する。気にかかるのは、小笠原の方で台風19号が発生していることだ。木曜日中には本州を通過していることを願っている。船中6時間程度であるが、揺れないにこしたことはない。

2009年10月10日土曜日

本日は日本晴れなり


 いやあ、全国的に快晴ですね。昨日は大阪本社にて会議であった。朝5時起きで東京駅から新大阪に新幹線で移動。車中ではほとんど寝ている。そこから電車を乗継ぎ、40分かけて本社に辿り着く。昨日は、思いがけなく4時過ぎには会議が終わったので、千葉市の我がママさんチームの練習に間に合うかもと、新大阪駅に早足で急いだ。結果、千葉の新検見川駅に着いたのは8時10分。ママさんアッシーに出迎えに来ていただき、何とかあと40分の練習ができた。
 ママさんは、なかなか上達してくれない。しかし、そこのところがコーチングに磨きをかけるチャンスであると私は考えている。27年前に東京の東洋高校男子バレーが春高バレー、インターハイで準優勝、国体で初優勝を遂げたが、その当時の今は故人になったが監督の山口先生がやっていた練習は基本練習だけであった。練習はやればやるだけ基本が大事だと分かってくる。難しい複雑な練習をいい加減にやるよりも、シンプルな練習を集中して行う方が成果が上がった一例である。あれもこれもフォーメーションを試したいが、そのチームの選手の特長を生かした幹となるフォーメーションを一つしっかりと身につけるべきであろう。そのあと、枝葉を確実に付けていけばよいと考える。
 来月中旬には、秋田県で100名ほどの小学生バレー指導者を集めての講習会が開催される。講師の私へのテーマは、「体力作り」と「フォーメーション」だ。フォーメーションといっても、レセプション・フォーメーション、ディフェンス(ブロック+ディグ)・フォーメーション、アタック・フォーメーション、ブロックフォロー・フォーメーションがある。チーム戦術に繋がる大事な部分だ。私の講義や実技の進め方は基本的にグループワークで行う。これは、受講者にも主体的に絡んできてほしい、一緒に学習していきましょうという意図がある。基本、原則をまず私から講義して、各グループから応用を発表して頂く。そこには私も「なるほど」と感心する考え方と遭遇する学習の場となる。そんなこんなで、きょうは資料をまとめている。どんな質問が来ても答えられるように準備しておくのが公認講師の務めと心得ている。教えることで学んでいくのが私のスタイルだ。また、学びなくして教えることはできない。
 今月中には、小学生バレーの名指導者である東金町ビーバーズの浦野総監督に教えを請いに伺う予定だ。浦野さんの指導論には私も多くの部分で同意するところがある。今年の全国小学生バレー大会では久方ぶりに女子で優勝を成し遂げた。大会時にはゆっくりとお話を伺うことができなかったので、今度は練習にお邪魔して実際の指導ぶりを見る予定だ。
 さて、明日は関東大学女子1部リーグ戦の観戦と大学院修了の報告に会場の早稲田大学に行く。昼からは、江戸川区協会でのクリニックの打ち合わせに平井駅に向かう。
(画像は、今年の小学生バレーの試合風景。東京体育館でのゲームは子供たちや親御さんには良い思い出でなったことであろう。小学生の時には色々なスポーツを経験して欲しいが、小学生からバレーボールに取り込んでおかないと、特に男子は人口が極端に少なくなり男子バレー存続の危機になってきている。大きな課題だ)

2009年10月8日木曜日

台風18号関東を通過中


 非常に大きい台風18号が日本縦断を始めた。自然の猛威には、自衛するしかない。我が家のマンションのベランダからも植木鉢などを移動して強風に備えた。関東では、朝の通勤ラッシュ時に当たり、近くの西船橋駅も運休、間引き運転で相当混雑したようだ。

 私?私は先週の新潟国体の休日出勤の振り替え休日を取らせて頂いたおかげで自宅でTVニュースを見ている。新潟国体での深夜ラーメン食べ歩きの疲労からも回復してきた。

 明日は、大阪本社で会議、明後日はお休み。日曜日は関東大学1部女子リーグ戦に挨拶と江戸川区バレー協会と打ち合わせの予定だ。

 きょうは、バレー指導書の編集を行っている。現在はオフェンスとディフェンスのフォーメーションの理論の変遷を所有している単行本や雑誌を引っ張り出しまとめているところ。9人制のフォーメーション理論も再学習している。9人制の理論は、石野浩靖さんと森藤憲一さんから教わった。

 森藤さんは、大阪府家庭婦人連盟を創設し、理事長会長として関西のママさんバレーの礎を築かれた方である。日本協会でも指導普及委員会副委員長の要職に就いていた。韓国に9人制バレーの普及のために指導に出かけていたこともあった。葵クラブという女子9人制クラブチームを創られ、全日本総合や全日本クラブカップで多くの優勝をされていた。森藤さんとは、いつ知り合ったか忘れてしまったが、10年以上も前であることは間違いない。当時、森藤さんは9人制バレーボールの専門雑誌を発刊されていた。専門誌は京都大学法学部出身らしく理路整然とされていて、何よりも数値で根拠を示していたところは科学的であった。バレー談義で意気投合し、私の雑文も2回ほど連載され、その後その専門誌は休刊となった。それから10年以上経った。 

 昨日、会社近くの三省堂本店に行き、スポーツコーナーで森藤さんの著書を見つけた。奥付を見たら、第2刷となっていて、最近の写真もそこにあった。随分とお歳をとられたなという感じであった。2003年発刊の第1刷の頃の写真は当時の御本人より若い頃の写真であったが、中年の渋みが出てダンディな写真であった。専門誌が休刊された当時、森藤さんは本業の方で相当苦労されていたと聞いていた。1930年生まれであるから、今年で82歳であろうか。お元気であれば、またバレー談義をしたいものだ。
森藤さんが生涯をかけた9人制バレーボールは、来年の千葉国体で正式種目から消える。我が国のバレーボールを育ててきた9人制バレーの火が輝きを失いつつある。森藤さんの嘆きの声が聞こえてくる。
(画像は、昨日も書店で買い求めてしまったバレーに関する単行本を含む今年買い求めたスポーツ関連書。最近の傾向としては、写真が多くなってきたこととDVDが付いているということだ。次に欲しい本があるのだが、検体を用いてカラーで解説しているDVD付きの最新刊の解剖学の本で価格が4万円もする。私にはとても手が出ないので、せめて時々立ち読みして目に焼き付けてくることぐらいが関の山だ。しかし、実際の人間の体を解剖した生々しい画像は迫力をもって目に映る)

2009年10月4日日曜日

新潟国民体育大会3日目




 ご承知の通り、私は成年男子9人制の会場にいる。今日で、決勝進出のチームが決まった。リコー電子の宮城県と3連覇を目指す徳洲会の沖縄だ。両方の強化委員長とは顔なじみであり、色々情報を頂いた。興味深かったのは、沖縄の徳洲会という病院グループだ。全国に網羅された病院グループに選手生命引退後は配置する仕組みを作っているとのことだ。更に、6人制でも地域リーグクラスのチームを立ち上げたそうだ。ハンドボールでも実業団チームを持ち、サッカーでもプロチームを持つ沖縄の低力は見習うべきだ。

 夜になって、神奈川選抜女子少年チームの父母達から食事のお誘いがかかり、2次会のカラオケまで行った。神奈川選抜は大和南と橘の連合軍だ。県内では歯を剥いてのライベルと思いきや、合宿を重ねた結果、父母達はすっかり仲良くなったようだ。本日の準決勝の試合はフルセット5セット目、ジュースで今年2冠王の東九州龍谷にあと1点まで詰め寄った。試合後、勝った東九州龍谷の選手達が泣いた。今年のゲームで初めてセットを取られ、あと1点で負けそうになったのであるから肝を冷やしたことであろう。

 明日の最終日で、高校3年生にとっては高校時代の真剣勝負の幕は閉じる。高校生活最後の公式大会だ。これから、3年生たちは進学、就職に大わらわの状態になる。その前の、明日の3位決定戦、力を出し切ってほしい。

 2次会のカラオケでは、「思い出のサンフランシスコ」「ジュン」「与作」「FAR way」とオープニングからクロージングまで歌わせて頂き、また一人、私を演歌歌手と勘違いされたお母さんがいらしたようです。そんなかんなで、新潟県長岡の夜も今夜限りです。なお、今夜はラーメン抜きで「一人冷たいベッド♪」に「そっとお休み♪」で入ります。
(画像は9人制男子決勝戦。優勝した宮城県(リコー電子)のサーバーが強烈なジャンプスパイクサーブを実行し、コート内に着地した瞬間。ディフェンスフォーメーションは、6・2・1でブロッカーは6枚。エースアタッカーは3枚ブロックを抜くというより、指に当ててライン後方に吹っ飛ばすという豪快なスパイクが多いですね)


2009年10月2日金曜日

新潟国体開催


 長岡に昨日から来ている。長岡駅前のホテル法華クラブに泊まっているが、他にもバレーチームが長崎県女子、福岡県男子が宿泊している。夜には新潟県バレーボール協会強化委員長の桂川先生とお会いでき、数年ぶりの再会を喜んだ。
 長岡市はラーメン屋さんが多い地として全国的に有名。昨夜の二次会はラーメン屋さんまで行き、体重コントロールが難しい4日間となりそうだ。 (画像は、醤油味の長岡ラーメン。煮干しの出汁が効いていて、あっさりだが旨みが後からジワーッと出てくる)
 

2009年9月26日土曜日

転勤に伴う送別会


 私の転勤?じゃない。会社の同じ課の2名が仙台と厚木の各営業所に転勤となり、昨夜は第2回目の送別会であった。実は、私は転勤を経験したことはない。事業部を変わったことは2度あったが、勤務地を替わったことはない。仕事の内容もバレーボールの比重が高く、最近はその他の業務も重なり、今回は転勤していく彼らの仕事も引き継ぐ。定年まであと2年半の私の双肩に仕事が増えていくということは・・・、この年寄りに仕事が頂けるということで喜んでいいことだと考えている。

 昨日から、スパイクレシーブ・フォーメーションをまとめ始めているが、改めて参考書としてセリンジャー氏の著作を読んでみて、その内容の密度に感心している。スパイクレシーブ・フォーメーションは、フロア・ディフェンス・フォーメーションともいえるが、ブロックとスパイクレシーブ(ディグ)の関係性で成立している。代表的なフォーメーションに、プレーヤー・アップ(バックの一人がコート中央に上がり、主にフェイントやチップをレシーブし、他のバックプレーヤーはバックに位置する:マン・アップや6-UPとも言いスタートポジションは3・1・2型となる)とプレーヤー・バック(バックの一人がエンドラインの方に下がり、他のバック2人はコートサイドに残り位置する:マン・バックや6-バックとも言い、スタートポジションは3・3型となる)がある。我が国の中・高の女子バレーには3・1・2型が多いが、全国大会に行き速攻・コンビネーションの攻撃型のチームと対戦するとレシーブの上がる確率が下がってくる。私が外部コーチをしている今年度春高バレーやインターハイでベスト8の成績を上げている高校女子チームもその例に違わず3・1・2では限界がある。相手によっては、フォーメーションを3・3に変更する場合もあるし、同じチームとの対戦でも変更を数回やることは上位(ベスト4以上常連)入賞のためには身につけるべき必要な戦術と考える。持ち駒が豊富なそのチームであるならば、あるフォーメーションンが得意なプレーヤーをそれぞれ育成しても良いであろう。3・3型では限界でのレシーブ、スライディングやダイビングレシーブのできるプレーヤーであることが前提となる。いずれにしろ、指導者にそのことを理解していただくことが外部コーチである私の仕事である。3年前は、ブロックの重要性を理解して頂き、ベスト4に入賞できた。今度も理解して頂けるかどうかで来年の春高バレーの決勝進出がかかっている。ブロックのフォーメーションがスパイクレシーブのフォーメーションを関係づける。ブロックとスパイクレシーブが有効に関係してフロア(コート)・ディフェンスが成立する。

 今夜は、千葉県ソフトバレーボール連盟主管で、日本協会主催の「ソフトバレー・リーダー養成講習会」講師で派遣されている佐々木先生との会食がある。
(画像は久しぶりに送られてきた花屋のKさんからの画像です。高麗の巾着田に曼珠沙華を見に行き撮ってきたとのことです)

2009年9月24日木曜日

東京都ソフトバレー近隣交流大会選考会

 昨日は、世田谷区にある厚生年金スポーツセンターにて12月に開催される「近隣交流大会」の選考会を22チーム参加して行われた。参加チームの種別はフリー、レディース、シルバーの3種別であるが、シルバーの部の参加チームが3チームと少ないのが気がかりだ。都会でのスポーツ活動はチーム型よりも個人種目型という報告も最近あったが、ソフトバレーはチームといえども8人集まれば2チームできてゲームができる。50歳以上の方達にもっと広報活動していく必要がある。私の持論であるが、ソフトバレーを知っている人は1%しかいない。99%の都民に色々な手段を用いて広報していかねばならない。
 実は、昨日、伊豆諸島の三宅島から教育委員会の佐久間さんと上司の課長をこの交流大会の視察にお呼びしていた。東京都スポーツ文化事業団の牛島課長もお見えになった。三宅島は野球が盛んであったが、雄山の大噴火以来、地域住民にスポーツをする習慣が消えてしまった。そこで白羽の矢に上がったのが、同じ伊豆諸島の新島、神津島で最近盛んになってきたソフトバレーボールであったということだ。7月には先陣を切って私が講習会を行った。来月にはいよいよ第1回の三宅島ソフトバレーボール交流大会が開催される。講習会だけでは良く理解できない大会運営法を実際の大会を見て頂いて学習して頂こうと今回の視察を企画した。
担当の佐久間さんは、フリーの部の迫力あるゲームを見て、女性でも男性の力強いスパイクをいとも簡単にブロックする場面を見たり、役員の活動ぶりを間近で見たり聞いたりして随分と収穫があったようだ。10月の三宅島交流大会には、東京都から2チーム参加、計12チームが参加して開催される。この交流大会で三宅島にソフトバレーボールが地域のスポーツとして根付くかどうか実行委員会の手腕が試されている。頑張らねば。

2009年9月21日月曜日

連休3日目の過ごし方

 久し振りに午前中は近くのドトール・コーヒー店に入り、日本経済新聞を広げ隅々まで読む。女優の秋吉久美子さん(55歳)が早稲田大学大学院で公共経営研究科を修了し同級生10人を代表し総代を務めた、との記事が社会面に写真入りで出ていた。年齢が近いせいもあるが、経済新聞が秋吉さんを取り上げるのが、何とも不釣り合いで面白い。
 そういえば、私の周りでも新たに大学院に合格した人がいた。先週の岡崎でのバレークリニックを終えて、講師の一人であったゼッターランドヨーコさんと一緒の新幹線で帰った。車中で彼女から「今し方合格との連絡が家からあった」と報告があった。
 「どこの大学?」
 「鹿屋大学」
 「えっ・・・鹿児島県の・・・あんな遠いところに行くの?」
 「いいえ、サテライト(分校みたいなもんですな)で神田に今度できるの」
 「そう・・・ヨーコさんのことだから、博士課程まで行くんでしょう?」
 「はい、そうします」
大学院に進み、研究を積み重ね、大学の教員になりたいとのことらしい。そのきっかけを作ったのは、こともあろうに、この私らしい。私の悲惨な大学院生活が羨ましかったというのだ。確かに入学直後は、授業も楽しく、多少は誇らしかったのも事実であるが、修了までの1年は苦行であった。論文との格闘であった。1月に提出できなくて、再チャレンジで7月に提出できた時は解放された気分であった。
 午後からビデオ屋さんに行き、最新版の「24(Twenty four)」を借りてきて鑑賞した。主人公のジャックバウアーは決して死なない、と分かっていても、ストーリーの展開にスピードとスリルがあり、娯楽作品として良くできている。
 夜の今からは、私のバレーボール理論の改訂版作業だ。2週間前に神奈川県協会の招きで指導者講習会講師を務めた折に、受講者の方に「自分のテキスト」を作ってくださいとお願いしたが、私自身6年前からコツコツとその作業を繰り返している。自分が納得できることしか自信を持っての指導はできない。そして、プレーヤーが納得してプレーすることが上達のポイントの一つと信じている。
 明日は船橋市のソフトバレーの練習はお休みとの連絡が来たので、千葉市のママさんバレーの練習に行く予定だ。

2009年9月20日日曜日

シルバーweekの過ごし方

 昨日から始まったシルバーウイークという連休の過ごし方であるが、小笠原が延期になって、なんか拍子抜けしたみたいで、家でグタッとしている。遅い夏疲れかも知れない。こんな時は自分の体の感覚に素直に従う。
 午前中に山形県酒田市の佐藤さんから23日に全国大会のリハーサル大会を行うので、来ませんか、とお誘いの電話がきた。小笠原行きがダメになったのをこのブログから知ったらしい。行きたいのは山々であるが、私が行かなくとも地元の役員で十分対応できることではあるし、私が行くことで余計な気を遣わせることにもなるので、丁重にお断りした。
 快適になったパソコン環境で、溜まっていたバレーボール・スキル・ノート(reception編)の改訂作業を行って、これまた溜まっていた新聞の切り抜きを2週間分やって、午後を迎えようとしている。

2009年9月19日土曜日

小笠原ソフトバレーボール交流大会は延期に


 既に5日前に小笠原村教育委員会の方から、今回の交流大会は延期にしました、との連絡があった。台風14号が本日島の北東を通り過ぎるようだ。本州には影響はほとんどないようだ。大変残念だが、海は相当時化(しけ)るので船でしか行けない昨年に続く小笠原行きは断念せざるを得ない。延期ということは、年度内に実施予定ということで、来年の3月の第2週を予定しているようだ。しかし、この時は今回の内地からの参加者のように40名という人数は集まらないであろう。今回の連休は、本当に内地の人には、島を訪問したがっている人たちには、またとないチャンスであった。このような連休は、次回は2015年にあるということだ。

 連休中の予定が、台風とともに吹っ飛んで行ってしまったので、私もこの5日間をどう過ごすか戸惑っている。昨日は休む予定であった千葉市のママさんバレーに行った。ママたちと一緒に来ている小学生低学年の子供たちが、「バレーを教えて」と、珍しく自分たちから近づいてきた。こちらも真面目に教えると、5分で見違えるほどパスができるようになった。他にも中学年の女の子が2名、親御さんと来ていて練習を見学していた。ママさんバレーやソフトバレーがバレーの人口拡大のポイント。親や大人たちが楽しそうに、時には真剣に、激しく練習している光景を見れば子供たちが興味を示してくれる。家庭婦人連盟、ソフトバレー連盟と連携してバレーボール人口の底上げを図っていきたい。

 さて、午前中は通信回線のブロードバンド(高速大容量)回線をADSLから光ファイバーに変更する簡単な工事をやってもらった。プロバイダーもこの際変えた。従って自宅のパソコンメールアドレスも変更した。明日は、溜まった書籍や書類の整理をやりましょうかね。
(画像は、本日の台風14号の位置。丁度小笠原の父島の上にいる。小笠原の人達に大きな被害がないように祈るだけ)

2009年9月9日水曜日

ソフトバレーボールと写真家土門拳の関係


今年の全国ソフトバレーボールレディース&メンズ交流大会は、山形県酒田市にて開催される。実は、酒田は私の生まれ育ったところである。交流大会には、私が大会副委員長として日本ソフトバレーボール連盟から派遣される。地元開催地責任者の佐藤三幸さん始め、故郷の仲間たちと再会できる喜びと全国から来酒する仲間たちとの再開との二重の喜びを感じている次第である。
 ふるさと酒田の出身で私が畏敬の念を抱いている大先輩がいる。大先輩と言わせて頂くのは、その方が私と同じ高校の出身者だからである。その方とは、写真家の土門拳氏のことである。たまたまではあるが、三日前の9月6日の日本経済新聞日曜欄の連載「美の美」(見開き2P)に氏の紹介と業績が載っていたのを読んだ。
 タイトルは『鬼が愛した美ー土門拳㊤』(文責 富田律之)「鬼と呼ばれた写真家、土門拳が誕生して、今年で100年。強烈な個性で戦後のリアリズム写真を牽引した一人の男が生涯を通じて愛した寺や仏像の写真には、一切の妥協を排した揺るぎない美意識が刻まれている」「単なる記録でなく、文字通り真実を写し撮るため、被写体のどこに美が隠されているのか、それをどのように表現するのか追求した」
 指導者の端くれである私には大先輩からのエールが聞こえてきた。「渡邉君、おっと、旧姓の阿部君の方が良かったかな。君も僕の後輩ならば、選手に隠されている長所を見出し、プレーで表現させるように導いてあげることではないかな。芸術は美を追求するが、スポーツの指導者は選手の長所を見出し磨いてあげることではないかな」
 市内には土門拳記念館が建っている。最近建てられたもので、私もまだ訪れたことがない。今回の帰郷をきっかけに大先輩の作品とじっくりと向き合ってみるのも良いかも知れない。


(画像は中宮寺の弥勒菩薩像)

2009年9月6日日曜日

茨城県筑西市ママさんバレークリニック

 本日は弊社の仕事で、筑西市へ行ってきた。筑西市って聞いたことありますか。ほとんどの方が知らないでしょうね。筑西市は「筑波山の西にある市」という意味の市ですが、以前の名前を下館市という。町村合併で名前が変わったんですね。お隣が結城紬で有名な結城市です。
 そんな福島県に近い筑西市に講師の面々の岩本先生や永富さんが朝日の上がる前に列車に乗り2時間半以上の時間を費やして現地に着いた。82名の受講者のママさん達は素直そのもので、岩本先生も思わず力が入り時間延長の指導ぶりであった。講習会中にに岩本先生を訪ねて来客がある。お隣の結城市のバレー協会の会長や副会長がお土産を持参して現れる。どこで岩本先生の参上を知ったのかあのような人たちが良く現れる。私もおすそ分けでお土産を頂く。(ありがたきかな・・・)昼過ぎにはⅤリーグで活躍して今はイタリアのチームにプロで行っているS君のお父さんもお土産持参で駆けつけてきた。まったく、岩本先生はどれだけの人に恩恵を施しているのであろうか、私には皆目見当がつかない。
 クリニックも怪我人がなく無事終わり(私のウオーミングアップ指導がが良かったのか・・・そうに違いない)、講師もや役員も三々五々別れた。私は東京に帰る社員の運転する社用車に同乗し、会社の話題を話しながら2時間半かけて着いた。今回のクリニックは成功だと私は思っている。教育委員会のU先生、協会のN部長、後援のスポーツ店の社長、皆の仕事がうまく連携し合っている。私も打ち合わせに2回ほど通った。アンケートを受講者全員に取ったが、来年も是非とも開催してくださいという声が圧倒的であった。来年また今回の受講者の方々の成長した姿にお会いするために開催できるよう運ぶのが私の仕事になる。そのためには、費用対効果として、地元のスポーツ店の売上を上げなくてはいけない。しかし、そんなことぐらい今日来たママさんバレーの愛好者にとっては、難しいことではないようだ。商品を売る方も買う方もお互いに感謝して売買して頂き、その結果、また岩本先生のクリニックを受講できれば幸せというもの。私の心配は瑣末な危惧と言うべきものであるようだ。来年度もこの時期に開催しようかなと考えている。

2009年9月5日土曜日

第2回関東U-14クラブチャンピオン男子バレーボール大会

 標題の大会が、本日千葉県市川市の塩浜体育館にて開催された。この大会は、JVAが男子バレーボーラーの裾野拡大のために4年前から各都道府県大会を始め、今年は千葉県が関東大会開催県と相成ったわけである。U-14というのは14歳以下という意味であるが、単独の中学校チームではだめという規定がある。いわゆる、地域スポーツクラブのチームで、ゲームの時は、コート上には必ず小学生が1名以上入っていなければならないというルールがある。千葉県大会での参加チームはここ4年間で4チームから6チームであった。大会に参加するには以上の規定を守らねばならない。しかし、普段から日常的に小学生を入れたり、複数の中学チームで練習しているクラブチームは少ない。多少時期尚早という意見もある。そのような意見がある中で2年後には全国大会を開催する意向であるというのがJVAの見解。別の見方もある。つまり、ヤングバレーボール大会に集約されて行くのではないかという見方もある。


 男子バレーボーラー拡大作戦として私見がある。ママさんバレーやソフトバレーボールについてくる子供たちがいる。その子供たちを小学生バレーチームとして育てていくことである。中学生になってから他競技からバレーに子供たちを引っ張ってくることは難しい環境に我が国はある。お父さんお母さんたちがやっているバレーボールに子供たちが興味を示すのは自然である。ママさんバレーボーラーたちが小学生チームを創設する動きが最近高まっている。本日伺った市川市塩浜体育館で普段練習をやっているママさん達も3年前に小学生チームを立ち上げ、その子供たちがスコアラーでお手伝いしていた。自分たちが楽しむだけでなく、子供たちにもバレーボールの魅力を知ってもらいたいというママさんバレーが僅かではあるが増えつつある。ソフトバレーボールの愛好者も子供たちのソフトバレーチーム、そして小学生バレーチームの立ち上げに尽力してくれるともっと地域が賑わってくると考えるのだが、いかがであろうか。
(画像は、関東大会で熱戦を繰り広げる各県代表チームの試合の模様)


2009年8月31日月曜日

日本バレーボール協会公認講師研修会に出席

 昨日と本日は、毎年1回開催のJVA指導普及委員会主催の公認講師、並びに今年のコーチ、上級コーチ講習会を受講中の方達、更には新規に公認講師になられた方達を対象にした講習会に出席するために港区の明治学院大学に行ってきた。
 品川駅でタクシーを待っていたら、偶然同じ会場に行こうとしている富山県にあるV1チームの黒部アクアの監督である浜田勝彦さんにお会いしてそのままタクシーに同乗させて頂いた。この方は日本鋼管で活躍しメキシコオリンピックの候補でもあった天才選手である。6人制の後は神奈川県の平塚クラブで9人制男子のプレーヤーで活躍し日本一は20回以上であろう。40歳まで現役であったのには驚く。その後、神奈川交通9人制女子では監督として日本一を10回以上成し遂げといる。9人制のスキルを6人制に取り入れて面白いバレーを展開する。
 会場に着くと、中村四郎先生をはじめ名将と言われた日本の指導者たちが80歳を筆頭に大勢いらっしゃた。50歳代後半の私なんかまだまだ足元にも及ばぬ先輩たちに挨拶に回るだけでも結構時間がかかった。先輩たちは、今の全日本の監督たちの指導に関して忌憚のない意見・提案を言う。ありがたいことだ。日本のバレーを心配しているからこその意見である。全ての先輩たちとゆっくりと話しもできないまま、大和南の飯塚先生そして川越高校の伊藤先生と一緒に講習会終了後に遅い昼食を取った。60過ぎのお二人の名指導者から伺うお話は含蓄があり、いつ聞いても成程と感心する。まだまだ学ぶべきことは多い、といつも痛感する。 

(財)日体協公認バレーボール指導員講習会閉講

 4日間の講習会が昨日終了した。50名の受講者は皆熱心に真面目に受講していた。日替わりで見えられる一流の講師の方達が口をそろえてそのように言っていた。企画運営をするこちら側もお世辞でもうれしい。受講者の中にいるモントリオールの金メダリストのお二人には最終日には金と銀のメダルを持参して頂き、閉講式の後は、受講者が競ってお二人との記念写真を撮っていた。
 この後は、全体の精算と県体協と日本バレーボール協会への報告がある。これがまた膨大な数の報告書がある。私と一緒にやって頂いている事務局のHさんがいなければ、とても私一人ではやっていけない。ありがたし。
 

2009年8月25日火曜日

日本体育協会公認指導者養成講習会開催

 我が千葉県にても標記の講習会を2年振りに開催、本日からスタートした。講師で行くだけでも結構疲れるものだが、今回は自分で企画して運営して講師活動もやってというもので、第1日が終了してぐったり。そのあと、我がソフトバレークラブの練習に行き、4セットやって疲労困憊であった。明日も9時から講習だ。受講者にモントリオールオリンピック金メダリストのキャプテンの飯田高子さんと世界の大砲と言われた白井貴子さんがいる。二人とも180cm前後あり受講者の中では目立つ。講義が始まる前に二人を紹介すると平均年齢43歳の受講者の間から「オー」という驚きと尊敬の入り混じった声が発せられた。学ぶことを継続する二人に私も拍手した。実技の合間に白井さんは膝と腰に巻いたサポーターを外しながら肩で息をしていた。「天才白井」と言われた白井が50代半ばを過ぎて頑張っている姿が何ともまぶしかった。
 同じモントリオールのメンバーで矢野広美さんがいる。彼女は現在、山梨県の新進高校チームの航空高校女子バレー部の監督にこの春から就任し、春高バレーもインターハイも県大会で実力上位のチームを破って全国大会に出場している。心配は、矢野さんがあまりに責任感が強すぎるので途中で倒れやしないかということである。金メダリストの人たちと言うのは、我々凡人が考えているよりも集中力が高い。そして責任感が人一番強い。その分、生き方が真面目すぎて不器用だ。
 さて、明日は講習会2日目。明日は2人の金メダリストに多大な影響を与えた指導者について思い出を語っていただくことで「指導者論」を学習するカリキュラムを作っている。このカリキュラムの他にも、第3日には国際バレーボール連盟の現役インストラクターを招聘している。全国の講習会の中でも恐らくこの千葉県の講習会がレベル的にも話題的にも最高位に入るものであると自負できるのではなかろうか。
 千葉県のバレーボールのこれからの発展は今回の受講者に委ねらている。明日も講師であるこちらは真剣勝負だ。

2009年8月23日日曜日

福島県にてソフトバレーリーダー養成講習会開催

 昨日から本日まで福島市にてリーダー養成講習会を開催してきた。受講者は120名。6年前にも講習会開催で福島県には行った。その時は日本ソフトバレー連盟初代審判規則委員長であった志村先生(現山梨県バレー協会名誉会長)とご一緒であった。あの時に先生から「渡邉君、審判関係はもう君に任せるよ」と免許皆伝のようなことを言われた記憶がある。しかし、6年後の今になってもルールに関してすべて頭に入っているとは言い難い。本日も受講者から質問があり、正確な数値を忘れてしまった私は、「皆さん、そのことはルールブックに書いてありますよ。探し当てた方は大きな声で言ってください」などと、とっさにごまかしてしまった。受講者には「大会の前には必ずルールブックに最低1ページは目を通すように」と言っている私ではあるが、そんな私自身が講習会の前にはしっかり目を通しておかなくてはいけない。反省!である。
 夜10時に自宅に着き、TVでワールドグランプリのゲームを食事をとりながら観た。ブラジルは若手を試しながらゲームを進めている余裕がある。全日本女子も大型になってきた。しかし、セッターのブロックの低さは大きなマイナスだ。このままでは世界でベスト8は保ててもメダルは取れない。170cm~180cmのセッターを育成することがメダルを取るために必要条件と考える。ネット際の高い位置でセットできることはレシーバーにとって負担を軽くする。速攻も高い位置から仕掛けることができ、ブロッカーの位置もよく見ることができ、攻撃も早くなる。そして、ブロックが高くなる。ブロックは最初の守備である。
サーブで崩して相手の攻撃を1枚減らし、2枚から3枚のブロックで相手の攻撃を防ぐことは世界のスタンダードである。その上で多彩で変幻な攻撃を駆使するのが日本のバレーボールではないかと私は考えている。現在中学生で170cm台の運動能力のあるアタッカーを高校ではセッターにする。そんなことを考えている。

2009年8月14日金曜日

第29回全日本バレーボール小学生大会


 8月11日から開幕している小学生の全国大会の会場の一つである東京都体育館に行ってきた。夏休みということもあり、家族の応援も多い。インターハイと比べて親御さんの年齢も40歳前後と若い。役員室に行き、総務委員長の山下さんと久し振りにお会いし、連盟30周年事業の打ち合わせをした。会長の山崎先生とも2年ぶりかで再会できた。来年度は冠スポンサーを付けて開催するということや会場を現在の6会場からコート4面使える4つの大きな体育館を使用して開催する旨もお聞きできた。JVAからも役員が視察に見えていた。一貫指導の委員長の古澤先生とはこういうところでしかお会いしない。思えば、30数年前、古澤先生は東大で助手をされていたかたわら「東大ジュニア」という小学生バレーのチームを指導されていた。その後、鹿屋大学にて教授、バレー部の部長と活躍され昨年退任されている。

 11月には、秋田県で今度は小学生指導者ばかり70名ほどの受講者の前で講師を務める。全国大会を見て最近の小学生バレーの動向を調査するのも講師の務めと思っている。コート上の選手はほとんど6年生。サーブはオーバーハンドのフローターサーブがほとんど。中学年以下がサイドハンドのサーブをゲンコツで打っている。2段トスはオーバーハンドでは飛ばないのでアンダーハンドでやっている。
 会場内で、女子の部で3年ぶり14回目の出場を成し遂げた東京都代表の金町ビーバーズ総監督の浦野さんとお会いし言葉を交わした。このチームの出身者は中学でも高校でも全国大会レベルのチームで活躍している。小学生のルールはフリーポジションであるが、浦野さんは他のチームのようにポジションを固定せず、一人の子供がいろいろなポジションを経験できるように練習している。チーム作りにとって効率は良くないが、このあたりの考え方が中学生以降になって本人に良い意味で跳ね返ってくる。フリーポジションということは、一つのポジションだけやっていればよいということになる。しかし、これでは小学生のうちはよいが中学生になるとローテーション制になり複数のポジションをこなす必要が出てくる。将来の全日本の選手はセッターもできるアタッカー、レシーブもできるアタッカーが理想である。その意味では浦野さんのように神経系統が発達する小学生の時から色々なポジションを経験させることは必要なことと考える。過去に日本一を男女で4回達成しているが、最近は全国に出ることも難しいようだ。しかし、中学・高校・大学で活躍している子供の数はビーバーズ卒業生が実は一番多い。昨年春高バレー男子で日本一を2年連続達成した東京の東亜学園の主力もビーバーズ卒業生であった。

 例え全国大会に行けない小学生チームであっても、その子が進学先の中学、高校で全国大会に出場した場合、小学生の指導者を表彰したりする制度があってもよい。そして、ポイントを与え、一定のポイント数が溜まれば、小・中学や高校の全国大会にその県からの補助金にて大会の視察・応援ができる制度があって良いのではないか。更には、指導者の評価は全国大会に出場できたかどうかだけでなく、中学との連携度やバレー部員数が多いということなども評価項目にするべきではないであろうか。小学生の指導はバレーの楽しみを教え、スポーツのフェアネス(公正・公平)を教え、協調性を教え、努力の意義を教えることで、中学以降で本格的に活躍できる下地を作る期間なのではないかと考える。
(画像は冷房の利いた東京都体育館にて激戦の模様を撮影)

2009年8月7日金曜日

秋田県に移動


 今夜は秋田市にいる。明日から2日間、日本体育協会公認指導員養成講習会の講師を務める。羽田から15時に飛び立って、秋田空港に着きリムジンバスで20分で市内に着いた。秋田県バレーボール協会では昨年上級指導員の講習会を4日間やらせて頂いた。今年もお声がかかったとはどういう風の吹き回しか。まあ、お声がかかったことに感謝したい。
 夕方になって、県協会の理事長と小学生連盟の会長が宿泊のホテルに迎えに来ていただいて、歓迎会が始まった。歓迎会といっても私を入れて3名。行ったところが、地元の人しか行かないような一杯飲み屋。しかし、日本酒は味わいが柔らかく旨い。さすが「高清水」。実は理事長とは既に20年ぐらいの付き合いのある仲間なんです。話は多岐におよび、JVAからインターハイ、小学生連盟、酒が進むにつけ孫の話になり、地元の話になる。
 明日は30数名の受講者がいるとのこと。これからの秋田県バレー界を支える人材だ。明日から2日間、真剣勝負だ。
(画像は秋田空港にあった秋田を象徴するナマハゲ)

2009年8月4日火曜日

インターハイ女子3日目


 インフルエンザ感染の疑いのあるチームがまた出た。佐賀県代表の鹿島実業だ。鹿実は試合前に棄権した。これでバレー会場だけで4校が棄権、なぎなた会場でも感染者が発生したとニュースで報じられた。インフルエンザは寒くなるこれからが本番。今月末には国体関東ブロック予選会が千葉県で開催される。そこでも感染者が出た場合の対策が必要になるであろう。
 インターハイ会場の奈良県含む近畿地方は、3日にやっと梅雨明け宣言が出た。例年より15日遅い宣言だ。車のない私は、会場から会場に移動する手段は電車とバスと徒歩。お陰で、電車の乗継が上手になった。商店街などを歩いてみて、奈良の道路が狭いということも実感できた。ずいぶん日にも焼けてきた。本日の最高気温は37度であった。昨年開催地の埼玉県川越市も暑かった・・・。
 さて、成績のほうであるが、関係の1チームは2試合勝利し、明日ベスト16から4決めに挑む。今回の大会優勝候補筆頭は春高バレーでも優勝した大分県の東九州龍谷。追うのは宮城県の古川学園。しかし、実力通りにいかないのが高校生のバレーボール。あと2日間、私も勝負を観戦しながら学習したい。おっと観戦(かんせん)しても感染(かんせん)しないように、手洗いやうがいも励行しよう。
(画像は、準決勝戦。優勝した東九州龍谷と文京学院大高校の1セット目。東九州龍谷の強さは群を抜いていた。国体でも優勝候補筆頭だ)

2009年8月3日月曜日

インターハイ女子予選リーグ戦


 無念な出来事が起こった。インフルエンザの猛威がインターハイの会場まで襲ってきた。予選リーグで2チームが無念の棄権を強いられた。埼玉代表の細田学園と岡山県代表の就実高校だ。この2チームは、他校への感染拡大の防止のために自主的に判断したものだ。
 明日からの試合においてさらに棄権のチームが出るとも限らない。なるべくならば、全てのチームが全力を発揮できる環境の下に闘ってほしいのだが、不測の事態でやむをえない。
 私の関係する2チームは全て予選リーグを無難に突破し、先ほどまでそのチームの一つと父母会を終えて宿舎のホテルに着いたところ。組み合わせを見て・・・明日も勝ちつ越せるかどうかわからない組み合わせに入った、と思える。しかし、できる限りのことをやるだけだ。相手のチームも嫌な相手と思っていることであろう。
(画像は愛読者のKさんから送られてきた「琉球アサガオ」の花です。野菜やお花のためにも、夏らしくもっと日照時間が欲しいですね)

2009年8月2日日曜日

奈良市に到着

 昨日は、朝から千葉県バレーボール協会主催事業で私のところの指導普及委員会主管で「第4回千葉県U-14大会兼第2回関東大会予選会」のために東金市アリーナに向った。大会挨拶で県協会を代表して挨拶させていただいた。参加選手は、14歳以下の男子。コート上には小学生が必ず1名いなければいけない。単独の中学校チームでは出場できないルールである。この大会はJVAが男子バレーの普及策として4年前からスタートしている。いわゆる地域スポーツチーム主体の大会を奨励しているのだが、まだまだチーム数は少ない。私のところの指導普及委員は来年度から小学生連盟と中体連を連携させて普及のために充実させていく計画を持っている。
 昼からは、我がママさんチームの昨年から始めた合宿のために銚子市の近くにある旭市総合体育館に向った。旭市内のママさんチームとの合同練習を行い、夜は昨年も泊まった1軒屋を借り切っての自炊生活で宴会となった。選手の子供たちやパパも参加して、私は0時で就寝したが一部の若手は明け方まで酒盛りしていたようだ。ああ・・・そんなパワーをコート上で発揮してくれれば・・・と将来への期待を抱いて、本日は皆で近くの九十九里浜でサーファーの波乗りを見ながら海辺の散策とスイカ割りを楽しんだ。今年は、いつも練習のときヤンママ達の子供たちの面倒を見てくれる34歳の独身男性貴族である通称ケンちゃんも参加して賑やかであった。
 一度、自宅に帰り、奈良インターハイ視察の準備をして、新幹線で京都へ行き、そこから在来線で終点のJR奈良駅に着いたのが先ほどの10:10であった。食事はコンビニでの焼きうどんと缶ビールを買い、運良く取れた駅前のワシントンホテルに投宿した次第である。
 昨日終了のインターハイ男子は、私の娘の出身校である東洋高校、春高バレー準優勝のチームにフルセットで惜敗してしまった。女子のほうは明日から予選リーグがスタートする。関係しているチームが最終日まで残れるように応援していく。

2009年7月29日水曜日

修了式を終えて

 今夕、大学院の修了式を終え、後輩たちが企画してくれたお祝いの会兼懇親会にて指導教官はじめ既に修了した方達や現役の社会人学生約50名と楽しく懇談した。通常3月修了というのが我が国の習慣であるが、留学生の受け入れや、逆に留学する際に海外は9月入学の通常なので、7月修了というのも設けたと専攻長から本日聞いた。この7月に修了したのは5名。本来は3月に終了するはずであったのが、色々な理由で1学期分修了を伸ばした5名である。特にスポーツ・マネジメント専攻の私と3人は、正月3日目から1週間校舎に通い、または泊まり込みで論文を仕上げた戦友である。
 改めて、社会人が論文を完成させる苦痛を味わったこの3年と4カ月であった。自分の考えを口で言うのと文章にするのとでは違う。文章にすることで真の力が付く。そう言ってくれたのは、指導教官の菊幸一教授。菊先生は文部科学省の審議委員も務めている。日本のスポーツ社会学を今後リードされていく先生だ。先生を囲む勉強会をゼミOB・OGで作ることを私が勝手に今夜決めた。先生は困った顔をされたいたが快諾してくれた。私の今後の役目は、アカデミックな研究者と現場の役員や指導者をつなげていく役目なのではないかなと今夜感じ入った次第である。
 入学に際して推薦していただいた筑波大学名誉教授の杤堀伸治先生と東海大学教授の成田明彦先生にさっそくご報告に伺う予定だ。お二人の推薦がなければ、当時の私の学力では、通常の入学試験で、はたして合格できていたかどうか、怪しいところであった。しかし、修了(大学院は卒業とは言わない)する方が数倍難関であったことは確かである。
 あきらめないで良かった。なかなかできないと感じている時、実は99%できている。そこで多くの人は諦めてしまう。私の場合は、そのようなときに仲間がいた。家族もやりぬくことを勧めてくれた。家族も毎週1回のソフトバレーの練習もママさんバレーの指導も高校生の指導も1年間は中止させて頂き、迷惑を掛けてきた。さあ、これから恩返しだ。

2009年7月28日火曜日

鼻キュンで想いだしたこと

 涙が出そうになる時、鼻の上が「キュン」と痛くなる。今月の日本経済新聞「私の履歴書」の書き手は、俳優であり歌手でもある加山雄三さんである。言わずと知れた、あの「若大将」である。その若大将が綴った今朝の文面に、50歳前半でなくなった母(女優で体操家の小桜葉子)への心境が語られてあった。
 加山さんが若くして借金を背負うことになり、返済のためにがむしゃらに働いていた時期に『次女の絵美子が生れ、二男二女のにぎやかな家族になった。おふくろに見せたかった。「母よ 長い闇の道 黙って歩いた 妻と幼な児に囲まれた 僕が見えますか」――当時の心境は、岩谷時子さん作詞の「母よ」にずばり描かれている』。
 ここまで読み終えて、朝の通勤電車の椅子の上で、鼻の上の目頭が「キュン」と痛くなった。私は、二女を授かった。長女は大学を出て2年目、慣れない広告関係の仕事で帰宅はいつも深夜だ。次女は大学3年生で、硬式野球部のマネージャーとアルバイトで忙しい。
 私は、小学5年生の頃から高校生まで父と二人きりの生活をしていた。住むところはアパートや間借り、社宅などの仮の住まいで、組合専従活動の父はいつも帰宅が遅く、夜の食事はほとんど私一人で近くの定食屋さんでツケで食べていた。高校を卒業し、東京で浪人生活を始めて1か月目に、父は海で事故にあい他界した。加山さんの文を読んでいて、その父に孫たちを見せたかったな、と共感した次第である。親孝行したい時に親はなし・・・本当にそうだな、と感傷気味の私ではある。
 さて、今夜は我がソフトバレーチームの練習に行く。ここのところ、ジャンプスパイクサーブの練習とサーブレシーブをセットにして練習している。練習後のクーリングダウンは最近ペアのストレッチングを導入している。指導するには指導者も少しは実技を行っているのが良い。選手の気持ちがわかるからね。その意味でも、普段硬いバレーを指導している先生たちが時にはソフトバレーのゲームをプレーヤーとして楽しむことをもっと広めたい。 

2009年7月26日日曜日

敗者から学ぶこと


 2年毎に開催される水泳の世界選手権がローマで開催されている。シンクロが開催された1973年の世界選手権13大会と五輪7大会を通じて日本がメダルなしに終わったのは初めてということだ。チームの平均年齢が19.9歳。北京五輪代表が全員引退し、指導者も一新されたとのこと。私もTVで演技を見たが、日本の演技にはトップの国々にある「華」がなかった。採点は、技術点と芸術点の合計でなされるが、技術の正確性や力強さも感じられず、特に艶やかさがが感じられなかった。一言で言うと「子供っぽい」のである。ロシアも若返っていたが、ロシアは国内での熾烈な競争でレベルを保っているという話だ。
 今回の日本チームは、「若さのパワー」で勝負に出たのであろうが、裏目に出たようだ。私がチームを作るとしたら、「ベテラン・中堅・若手」の三層構造にする。そしてベテランには、プールの中だけでなく、プール外での過ごし方、例えば、ものの見方、メディアとの接し方、世界観、人生観を身をもって示して欲しい。コーチ陣にも経験あるコーチを加えたい。
 世界で戦うのは、「プールの中」だけでなく、「プールの外」でも経験を積まなければならない。私達のバレーボールも然り。「体育館の中」で天才でも、「体育館の外」でも天才という訳にはいかない。神様は、人間をパーフェクトな存在として造らなかった。スポーツを取り囲んでいるのは「体育館外」という社会である。社会人としての確かな歩みの中で、トップアスリートとしての能力を磨いていってほしい。そのためにも多くの経験を持つベテランが身近にいる必要がある。身近のベテランを必要としないならば、世界のトップに教えを請う必要がある。
 世界のレベルが上がったから、日本がメダル常連国から滑り落ちたのか、日本のレベルが落ちたから世界がメダルを獲得するようになったのか、外部者の私には良くわからない。判っているのは、日本のお家芸がまた一つ減ったということだ。バレーボール、男子レスリング、柔道・・・。シンクロの敗因分析はこれから詳細にされるであろう。肝心なのは、対策である。対策実行のための財源は、期間は、指導陣は、選手選考のあり方は、強化内容・方法は・・・強化本部の腕の見せ所であろう。
 三日後の水曜日は大学院修了式。木曜日は、私が外部コーチをしているチームのインターハイ(全国高校総体)女子出発直前合同練習日。週末は、我がママさんチームの1泊2日の合宿がある。皆で一軒家を貸し切り、掃除・買出し・調理・食事を子供たちやパパも加わり、生活を共にする。練習試合も行う。2日目の夜から、私は新幹線でインターハイ会場の奈良市に向かう。8月6日までの滞在である。
7日の夕方からは秋田に行き、日本体育協会公認指導員養成講習会で講師を務める。なんと一日7時間を2日間、私一人でやりなさいという。それも受講者は100名という。酒処の秋田県バレー協会は私を秋田名酒で釣ろうとしているのであるが、そうは問屋が・・・卸しちゃうのである。まあ・・・釣られる私も私である。
(画像は愛読者のKさんから送られてきた鯛釣り草。面白い名前の花ですね)

2009年7月25日土曜日

関東高校私学バレーボール大会とインフルエンザ

 東京都町田市にて22日から24日まで開催されている標記の大会に行ってみた。昨日は最終日であった。男女ベスト8が激戦を繰り広げていた。但し、インターハイ代表チームは男子が来週から、女子がさ来週から奈良県で始まることもあり、この大会は調整期間と捉えられていて、真剣味がいま一つ足りない。準決勝に進出するある男子チームの監督と話す機会があった。次の試合は、2軍を出します、ということだ。理由を聞くと、前日のゲームで他のチームにインフルエンザ患者が出たとのことだ。そのチームと対戦した勝者チームと本日対戦するので、明日から奈良に移動するチーム側としてみれば、リスク管理で、自チームの1軍の選手を直接対戦させたくない、ということらしい。2軍を出しても、そのあと1軍と合流するのだから感染するとしたら同じことのように私には思えるのであるが、そのチームは実際2軍を出して、敗退しすぐさま体育館を後にした。
 大会関係者にインフルエンザのことを確認したところ、確かに患者が発生したとのことだ。本部はすぐさま出場160チームの学校あてにFAXで事実を連絡し、保健所にも連絡、来週の水曜日からスタートするインターハイの主催者である全国高校体育連盟バレーボール専門部にも連絡をしている。
 幸いにも、前日の患者は新型インフルエンザではないようだ。10代の若い世代は免疫も少なく、重篤になりやすい。奈良インターハイが無事に閉幕してくれることを祈るばかりである。

2009年7月20日月曜日

熊本県八代市にてリーダー養成講習会


 昨日から八代市に来ている。八代は「やしろ」でなく「やつしろ」と読む。県内第2の人口の市である。「やしろ」と読んでしまうのは、歌手の八代亜紀の影響かもしれない。確かに歌手の八代亜紀さんは、当地の出身で、昨夜県連盟の役員15名ほどで二次会のお店に行った近くに彼女がデビューしたお店のネオンが煌々と照っていた。
 熊本県ではここ八代市がソフトバレーのメッカとして非常に盛んな土地であると、理事長の立石さんが自慢げに話していた。市総合体育館にはコートが16面もあり、多いときで参加チーム数が200にもなるということである。熊本市では「ミニバレー」という昔ながらの地域スポーツが盛んでソフトバレーの普及はこれからという。立石さんという理事長は、コメディアンの高田純二に似ていて語り口が早い、おまけに熊本弁が入り混じるから、半分ぐらいの理解しかできない。私が昨夜覚えた熊本弁は、食事のときの「うまか~」という方言である。おいしい、という意味である。
 講習会の受講者は全員まじめそのもの。私が時々発する「親父ギャグ」にもなかなか反応しない。講習会には、サプライズで日本連盟会長の西山先生が飛び入りで参加した。広島から新幹線を乗り継いで2時間半で着くとのことだ。2年後には鹿児島まで新幹線がつながり、新大阪まで4時間ほどで行くそうだ。
 じつは、今、熊本空港にいるのであるが、7時定刻の羽田行きのフライトが1時間遅れだ。お詫びの食事券をANAから頂いたが、売店では食事もほとんど売り切れていて、お土産を買うしかない。明日の出社は疲れを引きづったままかな、と落ち込んだまま空港のコイン・インターネットでこのブログを打ち込んでいる。
(画像は講習会後に熊本県ソフト連盟役員と一緒の念写真。 会長を中心に立石理事長が理事役員の協力をうまくまとめている)

 

2009年7月18日土曜日

三宅島ソフトバレー事始め


7月11日から13日まで三宅島にソフトバレーの講習会で行ってきた。その一部を報告する。
 7月11日(土)夕方から両国のホテルにて東洋高校さいかち会(父母の会OB.OG)の定期総会があり、司会を務め、軽い夕食をとり、総会後の懇親会中に抜け出し、三宅島に行くために竹芝桟橋に着いたのは9:30。東京都スポーツ文化事業団の牛島課長、志村さんのお二人に出迎えて頂き10:20発の「さるびあ丸」に一緒に乗船した。まずは、夜食を兼ねて1等船室の和室にてビールで乾杯。同行の志村さんという一般行政職の方は初めての島行きということで多少興奮気味。
 7月12日(日)早朝の5時に三宅島の三池港に着く。今夜宿泊するホテルからの迎えのワゴンに乗り込み、島の反対側にある15km先の阿古という土地に向かった。三宅島は、平成12年に雄山(おやま:775m)が噴火し全島民が避難したことは記憶に新しい。現在でももともと3,500名いた島民の600名ほどがまだ帰島していない。火山ガスに含まれる人体に有害な二酸化硫黄が風に乗って民家まで流れてくる土地がまだあるからだ。途中通り過ぎた集落は確かにゴーストタウンと化していた。三宅島の雄山は昭和期に入ってから15年、37年、58年と噴火をほぼ20年周期で繰り返している。
 民宿を大きくしたような漁港脇のホテルに着いて、少し仮眠をした。7時にシャワーを浴び、朝食を頂き、会場である旧阿古小学校体育館に向かった。当日の出席者は、予定では20~30名であったが、東京都議選投開票日と重なったため、受講者の半分が投開票所のお手伝いの方に回ってしまい、半分の15名の体育指導員が集まった。主催者の三宅島教育委員会の教育課長、課長補佐と名刺交換を行い、早速3時間の講習を始めた。
 本来は、午後はゲームを行う予定であったが、これも選挙のためつぶれてしまった。午後の時間を活用して島内1週の研修とした。ガイドは今年、島教育委員会に就職したばかりの佐久間さんが多忙な中務めてくれた。旧石器時代の化石も出土している三宅島であるが、何といっても自然が素晴らしい。島内1周が35kmの都道を軽快に中古車が走る。島内では新車を目にすることはない。四方を海に囲まれているため塩害と噴火口から流れ出る二酸化硫黄が車体の腐食を促進するので島の車はほとんど中古車です、と佐久間さんは説明してくれた。約2,000年前に火山爆発でできた火口湖「大路池」に案内された。車がやっと通れるような細い道をジャングルのような森林の中を走っていく。周辺には昔ながらの照葉樹林がそのまま残っており、珍しい鳥や植物を間近で観察できた。
 予定では、夕食は受講者の方達とのバーベキューであったが、これも選挙のためキャンセルとなった。実は、このバーベキューで三宅島の体育指導員の方達と親交を結び、ソフトバレー普及の弾みをつけようと考えていただけに、正直残念無念であった。しょうがないので、3人でホテルの食堂にて明日葉(アシタバ)のてんぷらと刺身の盛り合わせで夕食とあいなった。
 TVの選挙速報では、7つある一人区(いちにんく)の議席をめぐって自民と民主が激しく争っているのが報じられていた。結果は自民の大敗で、唯一議席を守ったのは三宅島など伊豆諸島・小笠原諸島の「島嶼部」といわれる選挙区である。当選議員は川島さんという都議会議長も務めたこともある7期目を目指すベテラン議員の方である。島しょ部では、政党名よりも人物で選んでいる選挙民が多いのであろう。
(画像は大路池にて。祖父母の住んでいた三宅島に単身戻り行政職員としてスタートした佐久間さんと一緒に記念写真。彼が今後の三宅島ソフトバレー伝道人になってくれることを期待している)

2009年7月9日木曜日

久しぶりに大学院へ

 指導教官から連絡が入り、来週の水曜日に、ゼミで私の論文を発表しなさい、と指示がきた。今週末は三宅島に行くので、事前準備をするのは今夜しかないと、懐かしの大学院にやってきて、正にただ今、情報室にて配布資料を作っている。ついでに、大学のパソコンからこのブログを書いている。
 本日は、昼にインターハイ出場を決めた東洋高校に行き、監督とランチを食べながらミーティング。そのあと、練習に顔を出した。先月の関東大会で27年ぶりに優勝した高校生たちの表情には自信が満ちあふれ余裕さえ感じられた。
 さて、明日は出社が早いので、そろそろ退出しようかな。

2009年7月7日火曜日

7月7日の今日は七夕


 あいにく今夜は雲が多く、天の川は見えない。「七夕には、願い事を短冊に書き、笹竹に結びつけて七夕飾りをする。この行事は、江戸時代には手習い(習字)が上手になるようにとの願いから寺小屋などで盛んに行われ、その後、学校などでもがくもんや技芸の上達を願う行事として広まっていった(飯倉春武編著「日本人のしきたり」、青春出版社)」ということだが、私の願い事は、家族と友人たちの健康である。健康であれば人生何とかなる、と考えている。
 今週末に伊豆諸島の三宅島をソフトバレーボールの審判講習会で初めて訪れる。三宅島では満天の星が間近に見れるであろう。星に願いをかけると、叶う率が高いのではと自分で勝手に思っているが、三宅島の夜空の流れ星たちにお願いしてこよう。
 ブログを読んでいただいている貴方のためにもお願いしてきます。
(画像はアブチロンという花です。原産地は中南米。別名、ウキツリボク(浮釣木)とも言います。Kさんの大好きなお花ということです)

2009年7月6日月曜日

A市でのソフトバレー交流大会に出場して


 昨日はA市でのサマー大会に出場した。11チーム参加の混合の部はフリーの部しかなく、20代から30代の参加者がメーンになっている。私のチームのような50歳60歳がメンバーにいるようなチームは他に1チーム見受けるほど。毎年参加しているが、40歳以上の部とかに年代を区分していけば中高年齢者も増加していくと思うのであるが、過去に1,2回40歳以上の部を設けても参加チームが2チームしかいないとか理由をあげ、またフリーの部だけに戻している。
 ソフトバレーボールが対象にしている年代は、まず中高年齢者ではなかったのか。40歳を過ぎたあたりから、硬いボールではバレーボールを楽しめない、何とか中年以降でも初心者でも楽しめるバレーボールを開発してくれないか、という愛好者の要望に応えて「ソフトバレーボール」が誕生したのが1988年、今から21年前である。フリーの部はソフトバレー草分けの時代にはチームを作りやすい方策であり、中高年チームと若者チームとも優劣の差はなかった。しかし、次第に若い人たちは中高年を凌駕していった。その兆しのところで交流大会運営に当たる人たちは年代を区分して同じような体力同士でゲームを楽しませる工夫が必要であった。望ましい方向に各種の工夫(インセンティブ)を用いて導いていくのが市や県の連盟の任務の一つであると私は考える。1クラブが主催する招待交流試合は、そのクラブの独自の考えで運営するのは構わない。しかし、登録料を頂き、市や県のスポーツ行政の後援を頂いて運営する連盟主催の交流大会の運営には生涯スポーツの理念が反映されていなくてはならない。
 A市でのゲームも予選グループ戦、順位別ゲームも終えて帰路に着こうとして、表彰のあり方に疑問を持った。表彰は1位グループの3位まで、ということだ。これでは中高部活の競技スポーツの延長ではないか。私達はNo.1でなくオンリィ1を評価してきたはず。1位グループの1位、2位グループの1位・・・審判活動のベストレフェリーチーム、ベストマナーチームなどを評価して新しいスポーツ文化を作ってきたはずだ。それがこの地域では、まだ従来の価値観で運営されている。年々混合チーム数が減少しているというのもうなずける。誕生して20年以上経っていても競技スポーツの考えを引きずっている現実を目の当たりに見て、私は正直がっかりした。
 帰る直前に、責任者に私の意見を述べさせていただいた。しかし、その責任者は「市協会の上の方がこのままで良いというので・・・」と、自分の力ではどうしようもないとあきらめ顔で言う。
 日本の至る所で上のような現実があると思います。そのようなとき、どうするか?市や県の連盟の総会があるはずです。その場で愛好者たちは自分たちの意見を、要望を発言すべきです。見解の相違があれば、その相違を論理的に展開し相互理解に努めます。どちらが正しいかでなくお互いに理解するといことが大事です。その上で連盟サイドが愛好者の意見に理解を示さないのであれば、残念ながらその連盟を去るしかないでしょうね。そして、新たな組織を立ち上げ、自分たちで愛好者のためのソフトバレーの理念を満たした組織運営、大会運営をやっていけばよろしいと思います。
 さて、このような発言は過激でしょうか。私は当たり前のことと思います。愛好者はもっと発言したほうが良い。そして発言には必ずその根拠、理由を付け加える。そのことが論理的な発言となる。数ヶ月前に、ある県で理事長が不祥事の責任を取って辞任した。私は、その責任はその理事長だけにあるのではなく、今までその理事長の暴走を見逃していた、見て見ぬふりをしていた理事にも責任はあると思う。企業にもそのような不祥事はよくある。原因はリーダーが「裸の王様」状態になっていることに多くの要因がある。ワンマン体質が年月とともに大きな権力となり、リーダーも勘違い、部下は進言しても却下されそのうち何も言わなくなる。悪い情報は次第にリーダーの元に届かず、どうもこうもしようがない最悪の状態になってからリーダーは実態を知ることとなる。リーダーも組織を皆から預かっている組織を自分の所有物と勘違いしてくる。そして、そこに内部告発があり・・・。
 このようなことを書いていくと、暗くなるのでこの辺りで止めよう。
いずれにしろ、他にも事例はたくさんあるが、私がそこから引き出した法則は、リーダーは10年以上その地位に留まってはいけない、ということ。清らかな水も流れが鈍ってくると腐ってくる。
(画像はクレマチスという花。いつものKさんが送ってくれました。花屋さんみたいと言ったら、本職の花屋さんでした。日本語では6枚の花弁のものが「鉄線」といい、8枚のものが「風車」と言うとのことです)

2009年7月4日土曜日

目標を達成する秘訣

 多くの人は、目標を達成する直前で断念してしまう。あともう一週間、もう一日、もう1時間辛抱すればできないこともできるようになり、解からないもやもやしていることも霧が晴れるように見えてくるようになる。相手のチームに負けるということは、相手が自分たちより強いことではなく、相手が自分たちより多くの努力をしたということだ。自分たちの能力が不足しているのではない。努力が不足しているのだ。
一番つらい時が、一番達成に近い時。負けるな!

小学生とママさんのダブルヘッダー

 昨日は、月1回の船橋市内の小学生クラブの指導を行い、夜はママさんバレーの指導のダブルヘッダー指導であった。小学生のチームは創設されてまだ1年にも満たない。公式試合も未経験。昨日の練習メニューは、バレーの基本動作に通じるキャッチボールのやり方、遠くに飛ばすオーバーハンド・パスの秘訣、アンダーハンドでの前方のレシーブのやり方、ラストボールの返し方、スパイクでの上半身の使い方、と盛り沢山の内容になってしまったが、この練習を週1回ママさんコーチにやってもらうわけだ。今回で2回目のコーチングであったが、集合の時も大きな声で「ハイ!」と返事があり、駆け足で集まってこれるようになった。次回からはゲームライクに、つまりゲームの要素を取り入れて基本技を練習していきたい。

 小学生の練習の後は、お隣の千葉市に電車で移動してママさんバレーの指導。練習前に、「より厳しくやりますが覚悟ありますか?」と問うたら、最近の試合で負け続けているママさん達もこのままではいけないと自覚してきているようで「お願いします」の言葉が返ってきた。私の言う「厳しさ」とは肉体的に厳しいというのでなく「メリハリの利いた練習態度」のことを言っている。とにかく、だらだらやる練習には我慢できない。移動の際は小走りで、動作の前には大きな声を出して、自分で限界を作らないで、仲間を励ます前に自分自身をまず励まして・・・などと高校生の指導とあまり変わらないことをポンポン言っている自分に気が付く。講習会では優しく笑顔で指導する講師が人気がある。しかし、自分が責任を持っているチームでは、コート上(オン・コート)では「厳しく」、練習の後(オフ・コート)は「優しく」を私の場合は、指導理念としている。昨日の小学生の練習の後、クラブのゼネラルマネージャーが安く分けていただいたバナナを子供達やお手伝いコーチのお母さんたちに「おやつ」として与えていたことも「優しさ」の中に入るであろう。練習後に「きょうは頑張ったね」などと一人ひとりに声をかけてあげるのも「優しさ」の指導で大事なことと考えている。 

2009年7月2日木曜日

7月、1年の後半スタートです。


 私の会社業務の仕事の山も昨日越えることができました。なんて、書いていると、あんたの仕事の山は毎月あるんじゃないか、と言われそうですが、今回で本当に大きな山を越えた感じです。昨夜は早く寝着いたつもりが、夜明け方うつらうつらとして、昨日の仕事の反省点が浮かんできて、枕元のノートに書き留める作業をして、やっと熟睡できました。しかし、定年まであと2年半の身体は正直者で、今日の午前中の会議のときに一瞬ですが寝入ってしまったようです。同席者は優しい人ばかりで、そんな私をそっとしておいたようです。確かに、定年まであとわずかというこんな私にでも、最近はいろいろな困難な仕事が回ってくるのですが、何とかやってのけているので同僚たちは「さすがベテラン」という畏敬の念というよりは、「怪しい人物」という恐れがあるのでしょうね。

 さて、先週末は大阪の心斎橋にてソフトバレーボール・マスターリーダーの新規と更新の講習会が開催されました。一泊2日の講習会で一番役に立ったのは、渡邉さんとの二次会です、などと言われるのは喜んでいいのか、では昼の私の講義はどうであったのか?嬉し悲しの心境です。

 全国から集まっていただいた約100名のマスターリーダーはほとんど全員県連盟の役員に就任している。この方達が日本の明日のソフトバレーを担うことを考えると、日本の将来のソフトバレーボールお願いしますよ、という気持ちになる。受講者の中には7月私が講師で伺う熊本県の理事長もおり、19名参加の二次会まで付きあって頂いた。更には3次会まで突入し、北海道それに山口県の役員と11時までソフトバレーボールを語り合った。

 千葉県で開催する日本体育協会公認指導者養成講習会の受講者を今週月曜曜日に締め切った。県協会の理事会で相当宣伝し、更に各連盟の委員長・理事長に郵送で数回受講のメリットを述べながら募集をかけたものの、頼みの県協会のホームページは故障でアップされず、当初の申し込みは鈍く、最終20名行くかどうか危ぶまれたが、一昨日の担当の報告では丁度50名に達したとのことであった。最近聞いたことであるが、知り合いたちが口コミで複数の仲間に声を掛けてくれたとのことである。仲間はありがたし。
 県外からも4名ほど申し込みをされている。内容は、単なる資格取得のための講習会にはしたくはない。一流の講師陣を呼んでいるので、必ずや講習会後は目から鱗状態になるであろうことお約束する。オブザーバーでも参加したいという人も、どうぞ見るのは自由です。

(画像はいつも自由人のKさんから送られてきた「日光の霧降の滝」です。小学生のボランティアをされていて、時々はハイキングに引率していくそうです。Kさんが、滝つぼに落ちて小学生に介護されないように気をつけてほしいものですね)

2009年6月24日水曜日

アキレス腱周囲炎?


 ここ1ヵ月前から、右足のアキレス腱が突っ張る。指で軽くつまむと痛い。左足のアキレス腱を部分断裂したのが、今から6年前。左足を長年カバーしてきた右足のアキレス腱が悲鳴を上げ始めたのかもしれない。朝、起きがけにトイレに行く時も右足の下腿三頭筋の腓腹筋とひらめ筋が突っ張っている。筋肉に弾力性がなくなってくると、骨に付着している腱にストレスが行き断裂することがある。そんなことなんで、先週の軽井沢町でのソフトバレーも2日間で18セットという、私には楽しいというよりは恐怖のゲームでした。毎試合ごとに入念なアップとダウンをして筋肉を硬直させないようにしていました。

 昨日は早朝から新幹線に乗り、大阪本社でストレスの溜る仕事をこなして日帰りで帰宅したのは、10時でした。今日の勤務は少しボーっつとしていてあまり仕事もはかどらなかったなあ。そんな訳で、本日は退勤後、まっすぐご帰宅で風呂を沸かし、ゆったりと入浴しようと思っている。

 千葉県バレーボール協会が主幹で開催する日本体育協会公認スポーツ指導員養成講習会への受講者応募は一昨日で36名になった。受講者の中には、私がお誘いしたモントリオールオリンピックの金メダリストが2人いらっしゃる。旧姓で言うと、白井貴子さんと飯田高子さんのダブル「たか子」だ。お二人とも現役の指導者である。「いまさら受講するなんて・・・」と渋る二人に私が言った言葉が火をつけたのかも知れない。

「学習を継続しないのであれば、指導者を辞める時ですね」。この言葉が、両人にグサッと刺さったのかも知れない。お二人には講習会の中で講師もお願いする。特に座学の方で体験談をお話していただこうと考えている。本来はオリンピック選手であれば、専門科目は免除になるのであるが、お二人は是非とも最新の理論を知りたいので出席する、と意欲的である。その意欲に応えて、講師陣も世界的な講師から名講師まで既に獲得している。おっと、岩本先生が抜けていた。明日連絡しなくては・・・。
(画像は、いつもの愛読者のKさんが送ってくれた、マザー牧場に咲いていたマリーゴールド)
 

2009年6月22日月曜日

ブログのお蔭? インターハイ出場決定!


 関東地区でインターハイの都県大会決勝が先週の土曜日から始まった。東京都の大会は関東大会で怪我をした全日本ユースのセッターでアタッカーの選手がやはり復調叶わず、実力ではNo.1の共栄学園が無念の4位で奈良インターハイの代表権を獲得できなかった。このことは、全国予選が開始される2週間前の関東大会での戦い方が影響しているということだ。共栄学園のように怪我でなくとも、関東大会にチームの調子のピークを持ってくると、2週間後の大事なゲームで調子が出ない事態も出てくる。また、関東大会で思いがけず良い結果を出し、調子に乗ってその後の2週間の練習も行け行けムードでやってしまうのも本番でピークに持って行けない事態になる。大事な試合の前1週間は、短い時間で集中した中身の濃い実践的でゲームの基本に忠実な練習が大事。
 本日の昼ごろ、インターハイ代表になったある県の監督さんからメールが入ってきた。ここのブログをいつも愛読していて、先日のサーブに対するブログの記事に同感し、サーブの練習を徹底的にやったら勝てないと思っていた相手に勝ってしまいインターハイ代表になってしまいました、という内容であった。いやあ、これは嬉しい報告ですね。実は、昨日までの軽井沢でのソフトバレー交流大会では私自身もセット平均2点はサービスポイントを獲得した。先週からジャンプフローターに変え、スピードを増すように体重移動をうまく利用している。その監督さんのメールを読んでいると、決勝戦の前の日の試合では全員がサービスポイントを挙げたということだ。決勝戦でもサーブが威力を発揮し、相手のエースを封じることができた、ということだ。
 さあ、今週末はここも激戦の東京都の男子が始まる。どんなドラマが展開されるのであろうか。
(画像は愛読者のKさんが送ってくれたサルビアの花)

2009年6月21日日曜日

第6回軽井沢ソフトバレーボール交流大会

 先ほど1泊2日の軽井沢ソフトバレー交流大会から帰ってきた。新幹線で東京駅から軽井沢駅まで1時間。本当に近くなった。町の町議会議員複数から梅雨時の有閑期にペンションに宿泊してくれるお客さんはいないものか、と相談を受け、ではソフトバレーでしたら屋根のある体育館でできますのでいかがでしょうかと安請け合いをして今回が6年目となった。魅力の一つは、元全日本選手たちで結成されたチーム「プライア」との対戦である。今回の元選手は、神戸ユニバシアードで金メダルを取った旧姓横田さんのみで、元全日本監督の岩本先生と私に世田谷区で活躍されているレディースの4人が加わって「プライア」チームで奮闘した。
 来年は、やはり丸山由美さんの出番が期待されている。他に男子の2m級のオリンピック選手も参戦させようと今から「プライア」の陣容を考えている。
 ソフトバレーの地域での普及を岩本先生の協力を得て、ここ7年ほどやっているが、元全日本監督でこれだけソフトバレーボールのために全国を駆け回っている人も珍しい。先生はいつも次のように仰っている。「私が全日本の監督の時にファンの方々から大きな声援を頂いたのだから今御返しをさせていただいているのです。当たり前のことです」。しかし、その当たり前の事が出来ていないのが、多くの元全日本関係者たち。岩本先生は謝礼金の額にはこだわらない。予算の範囲で講師を引き受けますという、まさに平成のスポーツ版赤髭である。
 島嶼のバレーに関しては、7月に三宅島のソフトバレーボールの審判講習会を依頼されている。伊豆諸島と小笠原諸島がソフトバレーによって交流の輪が広がりつつある。島々は、四方を海に囲まれていると良く言われる。私は、島々は海で世界につながっていると開放的に考えている。
 今し方、埼玉県の坂戸市連盟の方から審判講習会講師の依頼が来た。私の都合で12月第1週の土曜日の開催と決まりそうだ。電話をくれた連盟の役員の方の出身地が伊豆大島ということが話の流れの中で判明し、しばし島の話になって、この7月に三宅島、9月に小笠原諸島の父島でソフトバレーの交流大会が開催する旨を話したら驚いていた。
 70歳までは普及のために頑張ってみようと考えている。その後は参加者の側で楽しませてもらおう。

2009年6月13日土曜日

ママさんバレーの恩人


 昨夕は、船橋の小学生バレーの練習を終え、黒っぽいスーツに着替えて、千葉市のママさんバレーチームの”サンライズ”創始者の一人である故藤井さんのお通夜に伺った。
 祭壇にある遺影の藤井さんに1年振りにお会いした。優しい微笑みであった。お焼香の後、棺の中の藤井さんと最後のお別れをした。穏やかなお顔であった。サンライズ初期の頃の御苦労話や初めて関東大会に行った時の自慢話をもっと聞いておけばよかった。軽い後悔の念が浮かんだ。
 お清めの席に案内されて、チームのメンバーやメンバーのご主人達と合流した。地域の仲間で作っているママさんバレーは、お互いの家族と共に子供たちの成長を見もまりながら、バレーボールを絆に生活をしている。私達は、藤井さんの遺志を引き継ぎ、これからも地域の中でママさんバレーを家族の理解と応援とメンバー相互の助けあいの気持ちを持って継続していく。
 藤井さん安からかにお眠りください。まだまだ早い、人生の幕切れでしたが、本当にお疲れ様でした。
藤井さん、貴女のお蔭でサンライズもあの頃のように朝日が昇りつつあります。これからも末長く私達を見守って下さい。行ってらっしゃい。合掌。
(画像は愛読者のKさんから送られてきた八重の紫陽花。華やかですね)

2009年6月12日金曜日

6月12日の金曜日は・・・

 本日は慰休を頂きました。その分、昨夜は遅くまで仕事を片づけていました。
 これから、船橋市総合体育館に行き、8月に開催の日本体育協会公認指導員養成講習会開催のために予約していた件を確認するための正式な申請書を作ります。今のところ受講生は16名程度。50名になれば良いかな、と考えています。4時からは今年結成したバレーボール型地域スポーツクラブの小学生チームの指導。毎週、私は行けないので、ママさんバレーのお母さんたちに指導法を教え、1ヵ月分のプログラムを作るのがアドバイザーである私の任務。夕方からは千葉市のママさんチームのコーチの曜日であるが、お通夜に行く。チームの創始者である60歳代の女性が闘病の末、昨日早朝お亡くなりになった。チームは30数年前に創設されたと聞いている。千葉県家庭婦人連盟でも最古参のチームである。亡くなった方と5年前に私も県家庭婦人連盟30周年記念のパーティでお会いしているはずだ。60歳代の若さでお亡くなりになるとは、ご本人もさぞやご無念のことと思う。今夜はチーム全員でお通夜に行く。

2009年6月8日月曜日

心は関東大会からインターハイ予選会へ


 昨日まで開催の関東大会女子高校の部は国学院栃木の2回目の優勝で閉幕しました。八王子実践に2-0のスコアでした。各チームは今週末から21日、28日にかけて地区大会から予選会に出場する。
 関東での激戦区と言えば、男女とも東京都だ。男女とも6~7チームが全国優勝を狙っている東京都のような激戦区はない。その戦いは中学校からすでに始まっている。特に女子は中・高一貫体制を敷いている。中学校の成績が高校の成績に反映されているというデータが中・高一貫指導体制の優位さを物語っている。
 東京以外の激戦区で今回、私が注目しているのは、ある県の女子の決定戦である。現名門校に復活をかけた高校が挑む。春高バレーは現名門校が辛勝で出場。その後の県春季大会では古豪チームが優勝。両チームのスタッフにも異色の存在がベンチに座っている。当日の試合のとき、私は軽井沢町でソフトバレーボールの交流大会を運営している。両チームの激戦の模様をつぶさに観戦したいのであるが、軽井沢の方は、昨年から予定の入っている業務なので変更できない。
 もし、私がどちらからのチームからアドバイスを求められたら、次のように応えたい。これからの2週間で上達できるスキルは、個人技に近いサーブである。そして、サーブレシーブ。ネット型のスポーツでこの2つのスキルが勝敗を大きく左右する。主審のホイッスルが鳴って最初のプレーはサーブでありサーブレシーブである。トスやスパイク、ブロックは2番目、3番目のプレーである。勝てないチームほど3番目のプレーであるスパイクの練習に時間を費やす。良いトスがあればスパイクは決まりやすい。しかし、良いレシーブがなければ良いトスはできない。従ってサーブレシーブに女子バレーは時間を費やす。そして、そのサーブレシーブを崩すためにサーブに時間を費やす。サーブは最初の「攻撃」である。
 今年の春高男子バレー優勝校の都城工業高校はジャンプスパイクサーブを4人で行った。普通のオーバーハンドのフローターサーブは今やオーバーハンドのレシーブで簡単に上げられてしまう。女子バレーであってもジャンプスパイクサーバーはチームに2人は欲しい。バックアタックラインから自分でトスしてスパイクを打てるプレーヤーであれば、やらせる価値はある。できないプレーヤーにはフローターでも両足や片足でジャンさせ、高さを作り、幅跳びさせることで重心移動を使ったスピードサーブを実行させる。相手のリベロやコート真ん中にサーブを打つということは、相手のチームにどうぞナイスレシーブをして、得意のパターンで私達のチームに攻めて、気持ち良く点数を取ってください、といわんばかりの、ダジャレじゃないが「サービス(奉仕)」の精神に満ち溢れていると皮肉に言わざるを得ない。狙いどころは人と人の間、次に人とラインの間。全日本女子のレベルでも、相手チームのプレーヤーの真正面にサーブを打っている人が結構いる。スパイクで言うと、相手の高いブロッカーに真正面からボールを真下にたたきつけて、相手チームのリズムを益々良くしているアタッカーと同じだ。
 おっと、技術論になると長くなるので、このくらいでキーボードの指を休めるが、いずれにしろ、残り2週間でサーブは登録メンバーだけで一人3,000回やるべきだ。ジャンプスパイクサーバーはこの1/3で良い。トスだけ正確に2回上げて、3回目は実際にジャンプして打つこと。アタックラインをエンドラインに見たてて自分でトスをして打つ。次にまた3m下がって打つ、実際のエンドラインを踏まないように打つ。エンドラインを踏まないように打つのは簡単である。エンドライン上にヒットポイントを持ってくれば絶対踏むことはない。朝の練習に、午後の練習に、短い距離からのネットインサーブを、エンドライン際から、相手コート側の壁に当てるようなサーブを、味方コート最大限後方から相手コートの真ん中に落ちるサーブを、伸びるサーブと落ちるサーブの打ち分けを、スパイクを数本打ってからのサーブを、10本連続サーブを・・・反復と集中と工夫がサーブを短期間で上達させる。つまらないサーブの練習をどれだけ集中して歯を食いしばってできるか。
 どちらのチームにバレーボールの神様は味方するのであろうか。名門久喜高校を率いて日本一になった今は亡き名将の稲山先生の言葉を思い出した。あれは、全国春の高校バレーに数年振りで復活した秋田県立由利高校の選手に言った言葉だ。「バレーボールの神様は努力する人間に味方する」。
運は努力した人に付くということか・・・。
(画像は読者のKさんから送って頂いた紫陽花の花。梅雨の鬱陶しさを癒してくれますね。しかし、「鬱陶しい」という漢字は鬱陶しいねえ)

2009年6月7日日曜日

関東高校バレーボール大会結果


 一昨日の開会式から始まった関東高校バレー大会。男子は茨城県ひたちなか市で、女子は所沢市と川越市で開催された。同じ日の開催なので、どちらに行こうか迷ったが、女子の会場に行った。先週、厚木で行われた練習会に参加したチームは全て出場している。インターハイ予選会につながっていない関東大会なので、各チームの監督さん達は結構リラックスしている。この関東大会の1週間後にインターハイ予選会を控えているので、全国大会常連の各チームの監督は関東大会で優勝することよりも怪我人を出さないように苦慮されている。また、ライバルチームに全容を見せないように戦術に手を加えているチームもある。言い方は悪いが、「公式の練習試合」と言った感がある。必ずしも真剣勝負とは言えない。関東大会の優勝チームがインターハイ出場権を獲得できるようなシステムになれば、内容も見ごたえのあるものになる、と私は考えるのであるが、いかがであろうか。
 さて、結果のほうであるが、私がアドバイザー(週に1回、監督と昼食をしているだけであるが・・・)になっているチームの一つで東京第3代表の東洋高校が、なんと優勝してしまった。27年振り3回目である。今年の春高バレーでも、優勝した都城工業高校にフルセット、勝利にあともう一息まで迫った実力はフロック(まぐれ)ではなかった。しかし、関東大会で優勝しても激戦区東京都の二代表を勝ち取る保証はない。これは女子もそうだ。今頃は決勝戦を国学院栃木と八王子実践が戦っていると思うが、ベスト8には東京都から他に共栄学園と文京学院が入った。
 来週から、関東各都県にて奈良インターハイ代表権獲得に向けて熾烈な戦いが始まる。多くのドラマが生まれると思う。東京都のあるチームは、今日のゲームで中心選手が捻挫をして退場した。単なる捻挫であればよいが、甚大な外傷であれば出場はできない。怪我予防への管理は監督がいつも頭を悩ましているところではあるが、あのチームの監督は頭を抱えているに違いない。同情はするが、勝負の世界には怪我が付き物と考え、予防と対処を日頃から備えておかなくてはならない。今回、現場を目の当たりに見ていて、RICE処置に手間取っていたのが気になった。あの場面では、チームトレーナーが駆け付ける場面であったが、トレーナーがいなかったのであろう。チームの生徒マネージャーが対処していたが、冷却スプレーも氷もなかなか到着せず、全日本ユースのメンバーでもある彼女の足首はみるみる腫れ上がり内出血が進行しているのが2階席からでも確認できた。彼女はそのあとすぐ近くの救急病院にいたとのことであるが、大事に至らないことを祈る。
(画像は読者のKさんが送ってくれたドクダミの花。ドクダミの葉は、私が時折水虫の治療に使うが、可憐な花を咲かせるんですね。読者のKさんもこの花のような可憐な方なんでしょうね、きっと)

2009年5月31日日曜日

久し振りの高校女子バレー合宿に帯同


 神奈川県厚木市にある松蔭大学に関東各県の強豪チームが集まって、1泊2日間の合宿のお世話になった。栃木、埼玉、東京、千葉、神奈川から全国常連チームが6チーム集まり、更に関東一部リーグ所属の松蔭大学が胸を貸す1セット回しの練習試合が行われた。私は、その中の今年春高に出たチームのベンチに入りサーブを中心にアドバイスさせていただいた。2日間という短い期間であったが、子供たちは積極的に私のコーチングを吸収し、本日の午後のゲームは高校全チームからセットを奪った。大学生にもあと2点で25点と言うところまでリードして逆転されたが良い内容のゲームであった。午後からチームが良くなったのは、そのチームの新監督の檄が効いたからだ。監督という仕事は、自分の身を削る作業だ。例えて言うと、「鶴の恩返し」という劇があるが、その中で鶴が自分の羽を使って織物を織るシーンがある。監督業というのは、まさにその鶴そのものである。合宿の最中は気が張っているから疲れは感じないが、子供たちをバスで学校まで連れ帰り、自宅に着いてから急に疲労を感じる。しかしそのような苦労の連続も、公式ゲームでそれなりの結果を出せば苦労も疲労も吹っ飛ぶ。
 「練習は嘘をつかない」と言ったのは元全日本女子バレー監督の岩本先生であった。スポーツの世界、特に学生スポーツの世界は、まさにその通りであると思う。実社会では「努力は嘘をつくときもある」のであるが、学生スポーツにはほとんど当てはまらない。
 人間の心は不思議である。弱いのも人間、強いのも人間。優しいのも人間、残酷なのも人間。人はその葛藤の中で生きていくのが運命なのであろう。おっと、今夜は柄にもなく哲学的になってしまった。昨夜、私の部屋に忍び込んできたある高校のスタッフの影響かもしれない。しかし、ベテラン監督たちと平成元年の春高バレーの決勝の話をしている私は、若い監督たちにどう思われているんでしょうね。まあ「変なオヤジ」なんでしょうね。
 来週末は、関東大会だ。関東大会後に関東各県ではインターハイ予選会が開催される。また、多くのドラマが生まれる。「強いチームが勝つわけではない。勝ったチームが強いのだ」。これは私の言葉である。そして、勝っても、負けても、基本は一流の高校生であってほしい。大事なことは、「一番より一流であること」である。
(画像は読者のKさんから送られてきた戦場ヶ原の新緑風景であるが、戦場ヶ原って日光にあるのかな?)

2009年5月28日木曜日

なんか忙しいぞ・・・


 何かを片づけても、次の何かのやらなければならない事が気になり、休みを取れない。ここ2週間は、帰宅も遅く、風呂に入らない夜もあった。今朝は、出がけに自宅のドアに中指を挟んでしまい、内出血してしまった。どうも睡眠不足で集中力が足りない。
 という訳で、今夜は書きたい事が沢山あったのだが、ここいらで止めて床に入る。一つだけ報告しよう。研究論文のテーマに関連していることだが、予てから小田急の岩本先生と働きかけていた伊豆諸島の三宅島でソフトバレーボールの交流大会が開催される運びとなった。まず、7月に審判講習会で私が6時間かけて船で渡る。そして10月に他の島々に働きかけて交流大会が開催される。行政が動き、そのあと地域住民が自主的に運営していく。そのパイプ役を務めるのが、岩本先生と私達ソフトバレー仲間だ。地元にソフトバレー夢中人間を養成するのが私達の役目。
 明日は、夕方に東洋高校の後援会総会がある。私は議長を行う。議長を困らせるような質問の手が上がらないように祈って、そろそろ布団に入り佐伯泰英さんの時代物小説を読みながら眠りにトロトロと落ちていこう。
(画像は本日の朝日新聞夕刊に載ったわが故郷の映画館「港座」。実は、映画「送りびと」のロケ地として酒田はすっかり有名になってしまい、観光客が多く訪れるようになった。そこで6年前に閉館していた古い映画館が再開されたというわけだ。ここの映画館は日本映画専門で、高校生当時の私はもっぱら洋画の映画館に行っていた。映画館の復活だけでなく、6年前にインターハイに出場した酒田中央高校のようにバレー部のほうも復活を望みたい。)

2009年5月23日土曜日

本日はこれから千葉県バレー協会理事会


 大学院修了に関する提出書類は20日にて98%終了した。この後は、専攻事務室に論文を電子的に保存しておくためにPDF化にして提出することのみである。入学して3年間と少しになるが、改めて感じたことであるが、授業でも論文作成、提出でもIT(情報)スキルがないと学生生活を送れないということである。企業においても最低限のIT技能(ワード、エクセル、パワーポイント、メール操作)がないと社員として働くことができない。IT技能は年齢に関係なく習得できる。要は必要に迫られるか否かである。
必要であれば、習得せざるを得ない。そして、習得しようというパワーがあるかどうかであるが、習得するには仲間との学習が効果ある。グループで学習することが習得のスピードを確実に上げていく。
 今夕は、大学院1期生から5期生まで集まり「OB,OG会」の発足を行う。4期生の私達が言いだしっぺであるが、私は千葉県バレー協会の理事会があり、時間が重なっているので残念ながら行けない。5期生までで、スポーツ・健康関係の修了者が凡そ60名ほどいる。この人間たちがネットワーク化されつながっていくと大きなパワーになるものと確信する。
 明日は、東京都ソフトバレー連盟主催の全国大会選考会が武蔵野市で開催される。課題が達成されていない。昨年度の総会で出席者から50歳以上の部の充実をお願いされており、今年度は50歳以上の方たちのために交流大会数を増加させた。しかし、明日開催されるシルバーの部への申込みがゼロと競技委員長から聞いている。原因を探り、今後の対策を速やかに打つことが必要だ。
 朝から顔を出して開催を手伝い、夕方には船橋市に戻り、この3月に立ち上げた(財)日本バレーボール協会認定「バレーボール型地域スポーツクラブ」の理事会にアドバイザーとして出席する。
(画像は神奈川県立大和南高校女子バレー部。6年前に生徒たちと一緒にデザインしたユニフォーム。当時は派手派手なデザインであったが、最近は派手なおかげで、チーム名を覚えられるようになってきた。派手なデザインのイメージとは違って、チームカラーはいたっておとなしく地味。この画像が一昨日の産経スポーツ新聞に大きく載った。春高が平成11年から1月5日からの開催に決まった記事と一緒に載ったのだ。)

2009年5月20日水曜日

本日は慰労休暇を取りました


 1年に40日ある慰労休暇ですが、普段取っていないので、本日は大学院修了に向けて最後の関門の「論文抄録」作成と提出のために取りました。昼近くまで自宅で新聞の切り抜きなど行い、昼過ぎには茗荷谷の東京キャンパスに着きました。さっそく、学会発表で台湾出張後の指導教官にお会いし、今夜8時に「論文抄録」に目を通していただくことになりました。その後、9時までに専攻事務所に提出して、これで全て終了です。昨年、4年制大学の娘の卒業論文を手伝ったことがあるが、大学院の修了論文がこれほど大変であったとは思いもしなかった。論文提出直前に提出を断念して休学してしまう先輩や同輩・後輩を目の前で数人見てきたが、確かに入学するよりも、学習するよりも、研究した結果を論文という形式に当てはめて形にするのは並大抵ではない。同じ社会人でも理系の研究をやっている方には慣れていることでも、私のような現場型の「企業内報告書」に慣れている社会人にはつらい作業ではある。「報告書と論文は違いますよ」私は何べんとなく指導教官から注意された。「自分の仕事を客観的に論述してください」、「根拠は?独自性は?論理性は?仮説と検証は?」、「論文での表現は『~と思う』でなく、『~と考える』ですよ」、「『私が~』でなく『筆者が~』と書かなくてはいけません。渡邉さんは本を書いているつもりですか」、「できなかったこと、失敗したことも立派な成果ですよ」などとも繰り返し言われた。我々社会人の仕事は、成果をあげるのが仕事。結果で判断される。失敗しても、それは成果と言われるのは新入社員の内。
 しかし、科学的に問い詰めていく「研究」というスタイルは理解できたと手前みそだが感じている。さて、ウオーミングアップはこれくらいにして、そろそろ「論文抄録(論文を8ページぐらいにまとめる長い概要のようなもの)」あと1ページでの完成に向けてパソコンに向かおう。
(画像は、読者のAさんから頂きました。彼女のお母さまから昨年頂いた紫陽花(あじさい)が彼女の自宅のベランダで今年も見事に咲き始めたとのことです。お母様の温かで強い思いやりが根を張り、花を咲かせたのでしょうね)
 

2009年5月17日日曜日

4日連続の登校


 地下鉄丸ノ内線から歩いて2分の東京キャンパスに本日も疲労色の濃い身体を引きずってやってきた。ここに来ると本当に静かで落ち着き集中できる。もともとは東京教育大学の跡地であって、一部残した教室を改造して、放送大学と一緒に大学院が活用している。
 きょうの午後に、修正した論文の製本を行い、明後日提出する準備を済ませた。今は、20日締め切りの論文抄録の作成に取り掛かっている。
 インターネットのニュース速報を読むと、新型インフルエンザが国内でも発病したということで、大阪の学校が休校になったり、鉄道会社がマスク着用を乗客にも呼び掛けたり、企業も対策を色々と練っているようだ。マスクは良く売れているようだ。私も対策として、手洗い、ウガイを励行しているが、体が衰弱して抵抗力がない時が危ないというので、中年期後半の私としては今夜は早く就寝しよう。

(画像は読者のKさんから送られてきたもの。この人の画面構成力は素晴らしいですね。花の名前がわからない・・・)

2009年5月16日土曜日

本日は口述試験でした


 3日連続で大学院に来ている。昨日の2日間は、勤務終了後、東京キャンパスに来て19:00から23:00までかかり、口頭試験(口頭試問)に備えて情報処理室にて準備をしていた。15分の発表の後、15分の質問が主査と副査の先生方からある。論文提出の時も大変であったが、第2関門のこの口述試験も結構しんどかった。
 口述試験を終え、指導教官から同じゼミの社会人学生と一緒に昼食に誘われ、「まずは、ご苦労様でした」とビールをグラス1杯ごちそうになった。ほろ甘辛く、なんとも言えない美味しさであった。3年前、大学院に入学して平均年齢39歳の社会人学生たちと一緒の学習は楽しかった。学習は、今まで知らなかったことを知識として蓄えること。しかし、研究となると根拠となるデーターを作り、自分の頭で考えて、言葉を紡いで行く作業がある。仮説を検証する作業もある。仕事中心の生活の中で「考える」ことは易しくない。
 7月の終了に向けて提出しなければならないものがまだある。20日までに修正論文、正誤表、抄録その後、学位論文データを6月5日までに提出して、7月29日(水)の修了式に臨める条件が満たされるというわけである。
 いずれにしろ、大きな山場2つを乗り越えたことで、ちょっと虚脱状態である。

(画像は読者のKさんから送られてきたもの。路傍にも色々な花が咲いているものですね。花の名前がわからない・・・)

2009年5月11日月曜日

大型連休も終わり・・・


 今年の連休は、例年の長野県での中学強化合宿もなく、松蔭大学での高校生の合宿もなく、割と休みもあり、連休後半は生まれ故郷の酒田市にも家族6人で行きけたし充実した連休であった。なんといっても父親の三十三回忌を済ませたのが良かった。本来の三十三回忌は7年前に済ませておくべきで
あったのが仕事のせいにして今まで伸ばしてしまったことは草葉の父親にお詫びするしだいである。やはり、ご先祖様にきちんと孝養を尽くすことは気持ちの良いことである。
 今日の東京は昨日についで夏日であった。社内はクーラーを入れなければ仕事もできないほどの暑さであった。
 昨日は、久々にソフトバレーの招待試合に出かけたのであるが、熱中症で1名倒れてしまい救急車で運送された。わがチームの女性陣3名の平均年齢は64歳であるが、割と体内水分があるのか、私の日ごろの水分補給指導が行き届いているのか、誰一人として倒れず5試合12セットを戦い抜いた。結果は1勝4敗であるが、フリーの部で上々の結果である。
 明日は、今年の春高バレーで久々にベスト8に入賞した東洋高校男子バレー部の監督と定例の昼食打ち合わせを行う。その後、夕方は、我がソフトバレークラブの「船橋大穴クラブ」の総会に総監督として出席する。課題は、部員募集です。できれば若い部員を誘ってきて欲しい。我がクラブは平均年齢の高さでは全国どこのクラブにも負けない自信はあるが、もう少し平均年齢を下げたいものである。
(画像は勤務先がある千代田区神田界隈で行われた日本三大祭りの一つ「神田祭」の提灯。東京都の中心千代田区に住居を構えている数少ない家々の玄関先に飾られている。読者のKさんから)

2009年5月6日水曜日

生まれ故郷の酒田市に


昨日、7時に船橋の自宅を家族6人で出発し、父の7年遅れの三十三回忌の法要のため故郷の山形県酒田市に4年ぶりに訪れた。高速道路休日1,000円を活用して東北自動車道路を経由して7時間半、ようやく酒田市に入った。
 酒田では市ソフトバレー連盟会長の佐藤さんと理事長の西海さんが出迎えてくれた。休日にもかかわらずわれわれ家族のためにあちこち名所旧所を回ってくれた。東北地方最大の豪商であった本間家別邸で現在では美術館になっている本間美術館も訪れた。西海さんの高校の同級生(私にとっては同じ高校の1年先輩ということになる)が館長さんということもあり、めったにないことではあるが、学芸員でもある館長に直々に館内を解説していただいた。
 父の三十三回忌の法要も無事執り行い、1600年前からある父の墓がある宮之浦という古い村に向かった。酒田市は、市が形成されて今年で400年を迎える。市内のあちこちに「酒田祭り」のポスターがそのことを祝っていた。私の村は実は1600年前から存在していた半農半漁を営んでいた部落であった。このことを本日読経を終えた住職から聞いたばかりである。18歳で酒田を出て、自分の田舎をまったく知らないということを思い知らされた。
 人口12万人のわが故郷の酒田市はこれからどのように変貌していくのだろうか。6年前には酒田中央高校女子バレー部が30数年ぶりにインターハイに出場するお手伝いはできたが、これからもバレーボールに限られるとは思うが、できるところは協力していきたい。今年開催される「全国レディース&メンズ」では日本ソフト連盟から役員で派遣される。大会の成功のために、佐藤会長、西海理事長たちのやりやすいように支援していくのが私の恩返しのひとつかもしれない。
(画像は江戸時代に東北一の豪商であった本間家別邸(現在は本間美術館)庭園にて家族六人揃っての記念撮影。館長さんに直々に館内を案内していただいた。)

2009年5月4日月曜日

菖蒲湯


今夜は一日早いのであるが、我が家は菖蒲湯(しょうぶゆ)である。明日から田舎の山形県酒田市に移動するので、年中行事の菖蒲湯は我が家でとあいなったわけである。本来の菖蒲湯は明日5月5日端午の節句の日に、ショウブの根や葉を入れて沸かす風呂のことである。入浴することで、邪気を払うとされる。

 明日から我が家族6人で酒田を目指して車で7時間かけて移動する。明後日の6日は、私の父親の法事を執り行い、7日は仙台の松島に行く予定だ。7日のうちに船橋の自宅に帰り、8日から出社。夜は東洋高等学校の後援会理事会。10日は久しぶりにソフトバレーの招待試合がある。

(画像は我が家の菖蒲湯。いつかは、檜の風呂で菖蒲湯を楽しみたいですな。)

2009年5月2日土曜日

5月に入りました


 花粉症歴10数年というベテランの私だが、ここにきて随分と花粉症が楽になってきた。花がまだムズムズする時があるが、夜明け前に鼻水が流れてきたり鼻腔が詰まったりて目が覚めるということはない。高齢者には花粉症患者はいないということなので、私も変な自信を持って花粉症を自慢している次第である。

 昨日は、我がママさんバレーの練習日であった。さ来週から全国大会の千葉市予選会が始まるので、昨夜は練習試合であった。課題はたくさんあるが、ゲームに直結する技術であるサーブとサーブレシーブそしてブロックを中心課題にこの3か月間練習してきた。まだまだ県代表になる力は持ってないものの、目標は県でベスト8以上と設定する。昨夜の練習試合では2段トスの不正確さが目立った。9人制ではブロックのワンタッチは1本と数えられる。2本目はトスにしなければいけない。そして3本目をスパイクで相手にアタックするか、チャンスボールで相手に返すかでチームの優劣は決まってくる。5月からの課題は①パス力の強化、②2段トスとそのトスをどう打つかのスパイクとの連携、③相手チームに対応した戦術の展開、ということになろうか。

 本日は久しぶりに仕事も指導もなく、家に閉じこもっていた。別に、新型ウイルスのために閉じこもっていたわけではなく、時には家でボケっとしていたい。こんな日はビデオ屋さんに行って『LOST』の第4シリーズものを借りてくる。『LOST』は地図にない洋上の謎の島に旅客機が墜落して正体不明の先住民と争うミステリーものである。

 明日は大学院に行き、さ来週の口頭試問試験に備える。PPT(パワーポイント)で説明文を作り15分説明し、教授連から15分間質問を受ける。これをクリアすれば修了に大きく近づく。

 5日から7日まで田舎の山形県酒田市に家族6人で行ってくる。田舎に帰るのは3年振りだ。私の父親の33回忌の法要を4年遅れで行ってくる。4年も遅れて、草葉の陰の親父には申し訳なく思っている。親父も生きていれば今年で85歳。孫たちの成長ぶりを見せたかった。

(画像は読者のKさんから。ご自宅の近くで散歩して目についたとのこと。藤の花です。)

2009年4月26日日曜日

南紀白浜にて小学生指導


 昨日からここ和歌山県南紀白浜の上富田町に来ている。昨日羽田空港から南紀白浜空港に1時間少しで到着するところ、あいにくの天候で雲が立ち込め着陸できず、1時間も空港上空で待機ということになった。空港に到着して出迎えてくれたのは、上富田町で5年前に立ち上げた総合型地域スポーツクラブの理事長の中山さん。まずはクラブハウスに向かった。クラブハウスは駅に待合室を改造して作られている。駅名が面白い。「朝来」と書いて「あっそ」と読む。クラブハウスに入るとGMのおばちゃんと事務局長のコムギさんが笑顔で出迎えてくれた。実は、私は、ここのクラブのアドバイザーで今回で4回目の小学生バレーの指導になる。今回は他の種目の講師も交えて座談会をやろうと企画提案していたのであるが、クラブハウスにはすでに地元和歌山放送のリポーターの方が私を待ち構えていた。まずは質問攻めで「和歌山と聞くと何を思い出しますか?」ときたので「そりゃ美味しい梅干しですね」と答えると、「はい、そういうお答の方には後日梅干しを放送局から進呈します」ときたのでラッキーであった。地元の良いところは誉めておくに限る・・・。
 他のバスケット、バドミントンの講も到着し、早速座談会になった。バドミントンの講師は女性の方で元世界チャンピオン。バスケットは大学の準教授で日本協会の強化委員。種目が違うとまた面白い考え方があるものだと改めて感心した次第である。
 その後、子供たちが待っている小学校に行き少女チーム2チームと中学生たちの指導に入った。少女チームの1チームは最近の大会で和歌山県大会で準優勝するところまでレベルが上がってきた。OGが多数進学する地元の熊野高校も県大会で準優勝するところまで来ている。会場になった最近改築されたばかりの真新しい体育館の設計はなんと理事長の設計だと聞いた。理事長の本職は1級建築士であったのだ。夜の練習も終わり、クラブのスタッフと講師の総勢16名が小料理屋に入り懇親会となった。当日は南紀白浜といえど肌寒かったので半袖しか持っていかなかった私はお酒は熱燗をいただいた。
 今朝は10時から150名の小学生たちがいろいろなスポーツを体験する「チャレンジデー」が始まった。バレーボールは午前午後の二部制で小学生バレーチームが2チームに体験初心者が集まってきた。小学生低学年の初心者に指導することは難しいが、こちらも勉強になる。声を出し、リズムを作って練習をやることに注意しながら指導を行っていった。
 今は、近くにある朝日ゴルフクラブという大きくて豪華な会員制ゴルフクラブのクラブハウス内のお風呂に入り、館内の無料インターネットでこのブログを打っているところ。この後は、コーヒーをいただき空港に送っていただいて羽田に20時30分に着く。
 明日からはまた仕事だ。がんばろう。
(画像は、クラブハウスが入っている小さな無人駅「あっそ駅」関東の人であったら茨城県の「潮来(いたこ)」と間違えて読んでしまうでしょうね・・・)

2009年4月25日土曜日

小学生チームの指導をスタート


 船橋市内のJR津田沼駅に近い田喜野井小学校の子供たち37名の女子と4名の男子の小学生バレーチームの指導を昨日からスタートした。毎週金曜日が練習日であるが、私の出番は月1回程度で、コーチ役のお母さんたちの集団指導体制のアドバイザーだ。
 昨日は、個々の基本練習だけでなく、チームプレーと絡めた練習のやり方を示唆した。ネットとコートの大きさを意識し仲間との共同作業で、まずは相手コートから来るボールを3回で返球する習慣を身につけることがゲームにつながる練習と考えている。まずゲーム感覚を身につける。次にボールコントロールの個々の練習をする。その次にまたゲームに戻り個々の技術のチェックをする。10年前までの練習というのは、あまりに個々の技術の練習にかける時間が長すぎた。従って、今の子供たちは飽きてしまう。まずは今のレベルでできるゲームを行って楽しさを覚えさせる。例えば、ボールはつかんでもよい。ハンドボール・バレー・ゲームでも良いではないか。次に1本目だけつかんで良いルールにしてゲームを行う。工夫すればいくらでもできる。やはり楽しいのはゲームであり、攻撃の華であるスパイクであり、ボールコントロールである。そして時にはビデオで世界のプレーを見させたり、高校生トッププレーヤーの実際のプレーを間近で見させ、高校生に指導してもらう。船橋市には市立船橋高校女子バレー部という今年の春高バレーで久方ぶりに3位に入賞したチームがある。(実は、私は15年前に2年間ほどコーチしていた。)シーズンオフ時には市船バレー部の生徒たちに小学生たちを指導して貰う企画を練っている。
 コーチの模範プレーというのがあるが、一般論を知らずにそのコーチ特有の技術論を教えてしまう場合がある。例えばスパイク・ジャンプ時の逆足踏切であったり、サーブ指導で40歳代以上のママさんバレープレーヤーがよく行う(子供達には難しい)サイドハンドサーブ(ラウンドハウスサーブ)を最初に教えてしまったりすることがある。昔、安全サーブというアンダーハンドのサーブがあったがあれも実は子供達には難しい。「安全」どころか失敗する確率が高く「危険」サーブと言える。なぜ難しいか?ボールと腕の接触点を注視することでネットが目に入らないので失敗する可能性が意外に高いことだ。それに相手コートに入っても相手のチャンスになるだけで、サーブの役割である「初めの攻撃」にならない。
 スパイクにもいろいろなステップがある、スイングがある。だけど今の時期はこのステップとスイングを覚えて、そのあと自分に合ったフォームを身につけていこう、という発達段階にあった指導が大事だ。
 また、長々と書いてしまった。これから羽田に行き和歌山県白浜に近い上富田町に行く。町が総合型スポーツクラブを立ち上げて今年で5年目。私はこのクラブのアドバイザーとして任命されており、毎年この時期に訪れて小学生2チームを指導している。今夕は私からの実行委員会への提案で、他の種目のアドバイザー(日本を代表する指導者)と一緒に指導者フォーラムを初めて開催する。テーマは「上富田町総合地域スポーツクラブの方向性を語る」になるのか、地元FM局も実況放送してくれるという。やはり、私は「ラジオ向きのいい声」をしているからなのか・・・。
 さて、それでは行ってきます。
(画像は、東京都文京区にある 根津神社のツツジ。愛読者のKさんが送ってくれました。昨日散歩の途中で撮影したとのことです。今がつつじ祭り開催中で、境内にある約2000坪のつつじ苑には、約50種3000株のツツジが咲き競い、甘酒茶屋、植木市、露天が並び、土日祭日には野点、箏曲、和太鼓、奉納演芸等、各種行事が執り行われている。)

2009年4月21日火曜日

9人制女子バレーの名指導者といえば・・・


 私にとっては、石野さんしかいません。本日は仕事で北越谷まで行く用事があったので、昨日からお会いする約束をしていた。しばらくぶりに会う石野さんはお元気そうだった。私の9人制バレーの指導はこの方から教えていただいた。私が現在6人制や4人制のソフトバレーで、それなりに指導においてうまくいっているのは、9人制のスキルを応用しているという点が大きい。リバウンドでのブロックの利用の仕方、ネットプレーの活用、オーバーハンドでの強打レシーブのスキルそして一番教えていただいたのは、選手との交流。石野さんは、実業団チームの監督として国体などで日本一を何度も獲得している。お付き合いいただいて20年は経っている。石野さんの選手との接し方は、当時の6人制トップチームの監督さんとは全く違うものであった。練習はとにかく厳しい。練習後は演歌好きの単なるおやじになる。人情味の厚い人でバレー界で6人制トップチームにも人脈が多い。

 今日も延々と2時間ファミレスでコーヒー3杯お代わりしながらのお話になった。今年で65歳になったかな。まだまだバレーの指導に燃えている。「俺には理論がない思いつきの指導だ」なんて言っているが、その指導にはしっかりとした根拠がある。実は石野さんと一緒に開発したスキルがある。日本バレー界で数年間タッチ攻撃が反則になった時期があった。当時のイトーヨーカドーの小田選手がクイックからのタッチプレーで一世を風靡したのだが、「あのような逃げの攻撃では世界は制覇できない。子供たちが真似したらいかん」ということで一時反則扱いとなった。そこで、私が「じゃあ、全力スイングでチップすればヒットしているのだから反則にはならない」と言ったことに対して、石野さんが全力スイングタッチ攻撃を開発したのであった。初めのうちは打っても打っても上方にクルクルと上がっていくだけでかえって相手にとってチャンスボールになってしまう。何とか形になったのは1年後だ。その年、平成元年度の春高バレーの女子優勝は東京の順心女子高であった。そこから入社してきたキャプテンの子がたちまちそのプレーをマスターして、相手レシーバーの前にストンと落ちるスパイクを強打と併用して駆使し相手レシーバーを悩ませた。なにせ、アタッカーが全力スイングしているのに、強打でもなくフェイントでもなくピッという感じであっという間に床にボールが落ちるのだからレシーバー泣かせである。

 コツは、手の形にある。おっと、これ以上は企業秘密ですから・・・本日はここまで。我がママさんチームにもそろそろこの秘伝を伝授しようかなと思っているところだ。弱いチームは色々工夫しないとね。
(画像は愛読者Kさんから送られてきたもの。「しゃが」という名の一日花。朝に咲いて夕べに散る。「射千」とか「著峩」とも書く)

2009年4月18日土曜日

修士論文提出しました。

 昨日、修士論文を教務課に提出しました。1月の時は提出時間に2時間遅れたため「不受理」扱いとなってしまい、再度このためだけに1学期分の授業料(約18万円)を支払い、今回は何としても論文を提出しようと背水の陣の気持ちで取り組んできた。昨日は休日出勤の振り替え休日を会社から頂き、朝から大学の情報処理室に他の仲間3名と励まし合いながら最後の7章の「成果と結果」をパソコンで打っては修正の繰り返しを行った。論文4部を印刷・製本し、必要書類に記入し、担当教員の印を頂いて教務室に持参し、全て終了したのが規定の時間19時の15分前であった。余裕を持ってことに対処することの大事さを今回ほど痛く感じたことはない。初めてのことに対処するときはなおさらだ。ギリギリは良くない。「時は金なり」の金言を今回は骨身にしみて感じた。お金がない人は、時間の余裕を持たねばならない。
 論文を提出するまでの昨年10月からこの4月までの6か月程は、正直なところ論文の重圧で苦しかった。社会人生活が長ければ長いほど、論文スタイルでの文章の構築は難しい。レポートや報告書は業務で慣れているが、論文の文章構成は独特のスタイルがあり、内容が良くともスタイルの約束事を守らねば不出来と評価される。ここのところが、社会人ベテランの私には戸惑った。4日前にはこんなことがあった。情報処理室で一緒に論文作成していた5期生で修了を目指していた30歳代の女性が、突然論文提出を断念し、来年の1月提出に切り替えると言い出し、学校を出て行った。彼女も悩んでいた一人である。毎日通学してくる一般学生と違い、我々社会人学生は給料を頂いている会社の業務が第一である。毎日、論文のことだけやっているわけにはいかない。
 まあ、しかしそんな訳で、何とか多くの方の励ましで論文を提出することができた。次は論文審査。そして論文審査が通れば、今度は1ヶ月後の口頭試問。そして発表会がある。まだまだ油断はできない。
学習は継続していなければいけない。
 さて、これから関東大学女子バレーボール春季リーグ戦に行く。夕方は初めていくクラブであるが、都内でソフトバレーの練習をやりに行く。明日は久しぶりの完全休養日だ。
ああ、修論という肩の荷が下りた・・・。体が軽くなった感じだ。これで明後日からの仕事に集中できる。

2009年4月17日金曜日

東京都ソフトバレーボール連盟総会

 昨夜は東京都ソフトバレーボール連盟の総会であった。昨日は朝から新幹線で大阪に行き会議をこなし夜の7:45分には総会会場の千駄ヶ谷の体育館会議室に着いた。閉会の前に、恒例の私からの挨拶があり、少しお話をさせていただいた。「大阪の電車に乗っていましたら、中吊り広告のキャッチ・コピー(宣伝文句)に目が行きました。そこにはある出版社の文庫版「竜馬が行く」(司馬遼太郎著)のコピーが載っていました。『・・・あなたが愛したこの国は何処に行くのでしょうか・・・(松たか子)』松たか子さんというのは女優さんだと思います。確かに私たち庶民にはこの国が何処に行くのか判らない。しかし、ソフトバレーボールに関しては何処に行こうとしているのか判る。なぜなら、私たちがその当事者だからです。この国の総理大臣は私たちが直接選んだわけではない。しかし、ソフトバレーに関しては東京都連盟が変われば確実に日本のソフトバレーボールが変わる」。・・・そんなことを制限時間5分間を超えてお話させていただいた。
 今年は、愛好者の方々にソフトバレーボールの理念を今一度思い起こして頂き、「生涯スポーツ」の意味を講習会等で噛み砕いて説明していきたい。

2009年4月12日日曜日

今週末の出来事


 今週末も色々ありました。昨日の土曜日は、午前中から東京体育館の会議室にて、日本ソフトバレーボール連盟の企画会議(常任理事会のようなもの)、午後からは全国大会の実行委員会で開催3県の県連盟役員、協賛社の名鉄観光さんの地域支社担当者が一堂に揃い打ち合わせを行った。全国大会での私の担当は、山形県酒田市にて開催の「全国レディース&メンズ交流大会」の大会副委員長である。酒田は私の生まれ故郷で役員も大半は高校の先輩や後輩が占めている。今から田舎での交流大会を楽しみにしている。
 実行委員会が終わってから、同じ体育館にてVプレミアリーグの女子決勝戦が行われているので一寸覗いてみた。観客は満杯近く入っていて9,000名位はいた。しかし内容が良くない。東レが決して強いわけではないのに、わずか1時間でゲームは終了した。日本一を決める試合がミスで点数が入り合うのは褒められたものではない。戦術も単純。この調子ではロンドンオリンピックに果たしてアジア代表で行けるかどうかも怪しい。日本での最終予選会という切り札を使わなくとも、堂々と中国と韓国を撃破してアジア代表にすんなりとなってほしいものだ。
 その後、大学院に行き、指導教官から懇切丁寧に論文の指導を頂き、家路に就くために学校を出たのは既に深夜の11時であった。
 今日は、船橋市ソフトバレーボール春季大会であった。我がクラブからは2チーム出して優勝はしたが、ここ5年ほどでレディースの部が盛んになり混合の部は13チームしかない。レディースは40チームほどある。ソフトバレーのチーム基本構成は混合とし、男女仲よく助け合って生涯スポーツを楽しもうというのが理念。混合の部を育てる工夫が欲しい。
 ソフトのゲームが終了したのが3時であったので、車で一時間のところにある千葉市で行われている家庭婦人バレーボール千葉市民大会に移動した。我がチームはコート決勝まで残っていて、結果はフルセットの惜敗であった。現状の実力は千葉市約100チームの中でベスト12まで上昇してきたが、目標は県大会ベスト8以上。まだまだ満足するわけにはいかない。
(画像は読者のKさんから送られてきた小石川植物園のタンポポ)

2009年4月7日火曜日

入学式日和


 本日も地下鉄丸の内線の茗荷谷駅を下車して、と思ったら、論文の概念図を考えていて終点の池袋まで乗り過ごしてしまった。Uターンして茗荷谷駅を下車すると丁度入学式を終えたらしい集団とすれ違った。胸に愛らしい小さなリボンをつけた中学生たちや着飾った親御さんたちが晴れやかな表情で駅に向かってくる。希望と不安に皆胸いっぱいなんだろうな。
 論文作成の前に、ルールのことで質問のあったある県の審判長に当てての回答文を作成してFAXで返信した。さて、これからが論文のラスト・スパートである。
(画像は読者のAさんから送られてきた千鳥が淵の見事な桜)

2009年4月6日月曜日

花見についての一考


 昨日から明後日まで、振り替え休日を取って茗荷谷駅近くの大学院に修論作成のために通っている。校門の前に見事な桜並木がある。桜の花見の習慣ははいつ頃から始まったのか、調べてみた。確かな文献は見つからないが、江戸時代前の9世紀に嵯峨天皇が花見をしたという記録が「日本後紀」という書物にある。江戸時代になって、八代将軍の徳川吉宗が町づくりの一貫で今の東京の隅田川沿いなどで桜の木の植樹を行った。そこに町人たちが集まって飲食を楽しんだ様子が浮世絵版画の錦絵に残っている。私の愛読書の一つである「居眠り磐音江戸草紙」(佐伯著)のシリーズの中にも当時の庶民が花見に興じる姿が生き生きと描かれている。

 世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし

 これは平安時代の『古今和歌集』で名歌とされている在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)の一首である。意味は、「世の中に桜などなければ、春の人の心はのどかだろうものを、なまじ桜があるばかりに、咲くまではいつ咲くか、咲いたらいつまで保つか心休まる暇も無い」と否定の形で桜の美しさを讃えている。

 さて、準備運動もできたので、いよいよ修論の最後の大事な部分である「考察」に取り掛かる。前回は、「目的」との論理的関係性が弱いと指導教官に指摘された箇所である。

(画像は先ほど校門に入る前に携帯で撮ったもの。明日は多くの中学校で満開の桜の下、入学式が行われる)