2014年1月29日水曜日

Sat.Jan.25,2014 青年海外協力会 新春交歓会

私の人生の大きな転機となったのは、青年海外協力隊への参加である。協力隊は来年、創設50周年を迎える。現在の派遣国は70数ヵ国で毎年千名を超す隊員を派遣している。累計では85ヵ国に4万人近い隊員の派遣実績を有し、日本の国際協力の柱の一つに発展してきた。

(各国駐日大使の皆さん)
今夜は、その協力隊OB・OGの支援する活動を続けている青年海外協力協会(外務省認可の社団法人)の新春交歓会に初めて出席してきた。交歓会には派遣先の各国駐日大使が40名ほど臨席された。私はチュニジア共和国の駐日代理大使のアテンド(接遇係)を任され、彼の側から離れず、各国大使館関係者のテーブルの近くで懇談を楽しんだ。
(チュニジア代理大使のエルーミ氏を囲んでチュニジア隊員達と一緒に記念撮影。女性の方は青少年活動という分野で活躍してきた。対象は精神障害者で言語は全てアラビア語。恐れ入る。左端の彼は空手指導。帰国してから彼らは異国での体験をどのようにして日本で活かしてきたのか今度はじっくりと聞きたい。そのためにも、チュニジア隊員OB・OG会を創設しようと私から提案した)

数名の駐日大使と名刺交換をした。その中にトンガ王国の女性大使がいらっしゃって、バレーボールの話になり、なにやらトンガに来てくれないかのような話に展開していった。
「トンガには体育館はいくつありますか?」
「大きいのが2つあります」

20年前に関係者から、トンガではヤシの木にネットを繋いで、地面にコートを描き練習をやっていると聞いたことがある。いまでもそういう環境なのであろうか?大きな選手は南洋だから、いそうもない。しかし、漁業が主な国の資源だから、私の好物の刺身は毎日食べれるだろう・・・。などと頭の中を色々な想像がぐるぐる回り始めた。

・・・300人近いパーティの混雑した喧騒の中で、40年ほど前に記憶が遡っていった。協力隊入隊のための試験日のことを思い出していた。

昭和51年1次隊、職種バレーボール。私は23歳、大学をあと1年残して協力隊に応募した。語学の試験に通り、指導実技に関しての面接官は日本バレーボール協会指導普及委員会副委員長の吉村恒雄先生であった。

合格後、先生は私に仰った。
「阿部くん(私の旧姓)、君には北アフリカのチュニジアという国に行ってもらう。協力隊は発展途上国での支援が目的であるが、この国の生活レベルは中進国であり、バレーのレベルも高い。男子ナショナルチームの指導を先方から要請されている。日本の大学男子レベルでいうと全日本ベスト8くらいかな。ついては、指導力をもう少しつけてもらうために、実業団のヤクルトに1ヶ月間、事前研修に行ってもらう」。

えっ、いきなりナショナルチーム!それもアフリカ・アラブチャンピオン常連。これは大変だ。3ヶ月の語学(フランス語)特訓、任国事情を詰め込まれて派遣された。

そして現地で辛酸を舐めた。派遣される前に聞いていたことと現地での受け入れ体制は全く違っていた。1年前に同国に派遣されていた柔道の榎本さん(大阪府警)いわく、「そんなものだよ。自分で切り開いていくしかないね。まあシュアイヤー、シュワイヤー(アラビア語で「慌てず、少しずつ、少しずつ」の意味)だね。ここは日本ではないんだから。しかし、日の丸を背負っていることを忘れずにね。彼らから見たら、我々が「日本」そのものなんだから言動には要注意」。

幸いであったのは、チュニジア人コーチに恵まれたこと。私はチュニジア協会内の派閥争いのとばっちりを受け、ナショナルチームを一時離れ、首都チュニス(人口100万)からSfax(人口50万人)という国内第2の都市に移った。その地のCSSというクラブチームを指導して国内初優勝ができた。昨年まで国内リーグベスト8クラスのチームはその年、上昇気流にあり、そこにたまたま私が合流した結果であった。今夜会った代理大使もSfax出身で、そのコーチの家族を良く知っていた。当時生まれたばかりの2人のお嬢さんたちは、その後バレーボーラーになったことも聞いた。

2時間ほどで交歓会も閉幕した。来週近々に協力協会を訪問し、200名ほどいるバレーボール隊員OB・OGを組織化する相談に乗ってもらうことを担当課長に約束して、会場の国立オリンピック記念青少年センターを後にした。

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