2009年7月29日水曜日

修了式を終えて

 今夕、大学院の修了式を終え、後輩たちが企画してくれたお祝いの会兼懇親会にて指導教官はじめ既に修了した方達や現役の社会人学生約50名と楽しく懇談した。通常3月修了というのが我が国の習慣であるが、留学生の受け入れや、逆に留学する際に海外は9月入学の通常なので、7月修了というのも設けたと専攻長から本日聞いた。この7月に修了したのは5名。本来は3月に終了するはずであったのが、色々な理由で1学期分修了を伸ばした5名である。特にスポーツ・マネジメント専攻の私と3人は、正月3日目から1週間校舎に通い、または泊まり込みで論文を仕上げた戦友である。
 改めて、社会人が論文を完成させる苦痛を味わったこの3年と4カ月であった。自分の考えを口で言うのと文章にするのとでは違う。文章にすることで真の力が付く。そう言ってくれたのは、指導教官の菊幸一教授。菊先生は文部科学省の審議委員も務めている。日本のスポーツ社会学を今後リードされていく先生だ。先生を囲む勉強会をゼミOB・OGで作ることを私が勝手に今夜決めた。先生は困った顔をされたいたが快諾してくれた。私の今後の役目は、アカデミックな研究者と現場の役員や指導者をつなげていく役目なのではないかなと今夜感じ入った次第である。
 入学に際して推薦していただいた筑波大学名誉教授の杤堀伸治先生と東海大学教授の成田明彦先生にさっそくご報告に伺う予定だ。お二人の推薦がなければ、当時の私の学力では、通常の入学試験で、はたして合格できていたかどうか、怪しいところであった。しかし、修了(大学院は卒業とは言わない)する方が数倍難関であったことは確かである。
 あきらめないで良かった。なかなかできないと感じている時、実は99%できている。そこで多くの人は諦めてしまう。私の場合は、そのようなときに仲間がいた。家族もやりぬくことを勧めてくれた。家族も毎週1回のソフトバレーの練習もママさんバレーの指導も高校生の指導も1年間は中止させて頂き、迷惑を掛けてきた。さあ、これから恩返しだ。

2009年7月28日火曜日

鼻キュンで想いだしたこと

 涙が出そうになる時、鼻の上が「キュン」と痛くなる。今月の日本経済新聞「私の履歴書」の書き手は、俳優であり歌手でもある加山雄三さんである。言わずと知れた、あの「若大将」である。その若大将が綴った今朝の文面に、50歳前半でなくなった母(女優で体操家の小桜葉子)への心境が語られてあった。
 加山さんが若くして借金を背負うことになり、返済のためにがむしゃらに働いていた時期に『次女の絵美子が生れ、二男二女のにぎやかな家族になった。おふくろに見せたかった。「母よ 長い闇の道 黙って歩いた 妻と幼な児に囲まれた 僕が見えますか」――当時の心境は、岩谷時子さん作詞の「母よ」にずばり描かれている』。
 ここまで読み終えて、朝の通勤電車の椅子の上で、鼻の上の目頭が「キュン」と痛くなった。私は、二女を授かった。長女は大学を出て2年目、慣れない広告関係の仕事で帰宅はいつも深夜だ。次女は大学3年生で、硬式野球部のマネージャーとアルバイトで忙しい。
 私は、小学5年生の頃から高校生まで父と二人きりの生活をしていた。住むところはアパートや間借り、社宅などの仮の住まいで、組合専従活動の父はいつも帰宅が遅く、夜の食事はほとんど私一人で近くの定食屋さんでツケで食べていた。高校を卒業し、東京で浪人生活を始めて1か月目に、父は海で事故にあい他界した。加山さんの文を読んでいて、その父に孫たちを見せたかったな、と共感した次第である。親孝行したい時に親はなし・・・本当にそうだな、と感傷気味の私ではある。
 さて、今夜は我がソフトバレーチームの練習に行く。ここのところ、ジャンプスパイクサーブの練習とサーブレシーブをセットにして練習している。練習後のクーリングダウンは最近ペアのストレッチングを導入している。指導するには指導者も少しは実技を行っているのが良い。選手の気持ちがわかるからね。その意味でも、普段硬いバレーを指導している先生たちが時にはソフトバレーのゲームをプレーヤーとして楽しむことをもっと広めたい。 

2009年7月26日日曜日

敗者から学ぶこと


 2年毎に開催される水泳の世界選手権がローマで開催されている。シンクロが開催された1973年の世界選手権13大会と五輪7大会を通じて日本がメダルなしに終わったのは初めてということだ。チームの平均年齢が19.9歳。北京五輪代表が全員引退し、指導者も一新されたとのこと。私もTVで演技を見たが、日本の演技にはトップの国々にある「華」がなかった。採点は、技術点と芸術点の合計でなされるが、技術の正確性や力強さも感じられず、特に艶やかさがが感じられなかった。一言で言うと「子供っぽい」のである。ロシアも若返っていたが、ロシアは国内での熾烈な競争でレベルを保っているという話だ。
 今回の日本チームは、「若さのパワー」で勝負に出たのであろうが、裏目に出たようだ。私がチームを作るとしたら、「ベテラン・中堅・若手」の三層構造にする。そしてベテランには、プールの中だけでなく、プール外での過ごし方、例えば、ものの見方、メディアとの接し方、世界観、人生観を身をもって示して欲しい。コーチ陣にも経験あるコーチを加えたい。
 世界で戦うのは、「プールの中」だけでなく、「プールの外」でも経験を積まなければならない。私達のバレーボールも然り。「体育館の中」で天才でも、「体育館の外」でも天才という訳にはいかない。神様は、人間をパーフェクトな存在として造らなかった。スポーツを取り囲んでいるのは「体育館外」という社会である。社会人としての確かな歩みの中で、トップアスリートとしての能力を磨いていってほしい。そのためにも多くの経験を持つベテランが身近にいる必要がある。身近のベテランを必要としないならば、世界のトップに教えを請う必要がある。
 世界のレベルが上がったから、日本がメダル常連国から滑り落ちたのか、日本のレベルが落ちたから世界がメダルを獲得するようになったのか、外部者の私には良くわからない。判っているのは、日本のお家芸がまた一つ減ったということだ。バレーボール、男子レスリング、柔道・・・。シンクロの敗因分析はこれから詳細にされるであろう。肝心なのは、対策である。対策実行のための財源は、期間は、指導陣は、選手選考のあり方は、強化内容・方法は・・・強化本部の腕の見せ所であろう。
 三日後の水曜日は大学院修了式。木曜日は、私が外部コーチをしているチームのインターハイ(全国高校総体)女子出発直前合同練習日。週末は、我がママさんチームの1泊2日の合宿がある。皆で一軒家を貸し切り、掃除・買出し・調理・食事を子供たちやパパも加わり、生活を共にする。練習試合も行う。2日目の夜から、私は新幹線でインターハイ会場の奈良市に向かう。8月6日までの滞在である。
7日の夕方からは秋田に行き、日本体育協会公認指導員養成講習会で講師を務める。なんと一日7時間を2日間、私一人でやりなさいという。それも受講者は100名という。酒処の秋田県バレー協会は私を秋田名酒で釣ろうとしているのであるが、そうは問屋が・・・卸しちゃうのである。まあ・・・釣られる私も私である。
(画像は愛読者のKさんから送られてきた鯛釣り草。面白い名前の花ですね)

2009年7月25日土曜日

関東高校私学バレーボール大会とインフルエンザ

 東京都町田市にて22日から24日まで開催されている標記の大会に行ってみた。昨日は最終日であった。男女ベスト8が激戦を繰り広げていた。但し、インターハイ代表チームは男子が来週から、女子がさ来週から奈良県で始まることもあり、この大会は調整期間と捉えられていて、真剣味がいま一つ足りない。準決勝に進出するある男子チームの監督と話す機会があった。次の試合は、2軍を出します、ということだ。理由を聞くと、前日のゲームで他のチームにインフルエンザ患者が出たとのことだ。そのチームと対戦した勝者チームと本日対戦するので、明日から奈良に移動するチーム側としてみれば、リスク管理で、自チームの1軍の選手を直接対戦させたくない、ということらしい。2軍を出しても、そのあと1軍と合流するのだから感染するとしたら同じことのように私には思えるのであるが、そのチームは実際2軍を出して、敗退しすぐさま体育館を後にした。
 大会関係者にインフルエンザのことを確認したところ、確かに患者が発生したとのことだ。本部はすぐさま出場160チームの学校あてにFAXで事実を連絡し、保健所にも連絡、来週の水曜日からスタートするインターハイの主催者である全国高校体育連盟バレーボール専門部にも連絡をしている。
 幸いにも、前日の患者は新型インフルエンザではないようだ。10代の若い世代は免疫も少なく、重篤になりやすい。奈良インターハイが無事に閉幕してくれることを祈るばかりである。

2009年7月20日月曜日

熊本県八代市にてリーダー養成講習会


 昨日から八代市に来ている。八代は「やしろ」でなく「やつしろ」と読む。県内第2の人口の市である。「やしろ」と読んでしまうのは、歌手の八代亜紀の影響かもしれない。確かに歌手の八代亜紀さんは、当地の出身で、昨夜県連盟の役員15名ほどで二次会のお店に行った近くに彼女がデビューしたお店のネオンが煌々と照っていた。
 熊本県ではここ八代市がソフトバレーのメッカとして非常に盛んな土地であると、理事長の立石さんが自慢げに話していた。市総合体育館にはコートが16面もあり、多いときで参加チーム数が200にもなるということである。熊本市では「ミニバレー」という昔ながらの地域スポーツが盛んでソフトバレーの普及はこれからという。立石さんという理事長は、コメディアンの高田純二に似ていて語り口が早い、おまけに熊本弁が入り混じるから、半分ぐらいの理解しかできない。私が昨夜覚えた熊本弁は、食事のときの「うまか~」という方言である。おいしい、という意味である。
 講習会の受講者は全員まじめそのもの。私が時々発する「親父ギャグ」にもなかなか反応しない。講習会には、サプライズで日本連盟会長の西山先生が飛び入りで参加した。広島から新幹線を乗り継いで2時間半で着くとのことだ。2年後には鹿児島まで新幹線がつながり、新大阪まで4時間ほどで行くそうだ。
 じつは、今、熊本空港にいるのであるが、7時定刻の羽田行きのフライトが1時間遅れだ。お詫びの食事券をANAから頂いたが、売店では食事もほとんど売り切れていて、お土産を買うしかない。明日の出社は疲れを引きづったままかな、と落ち込んだまま空港のコイン・インターネットでこのブログを打ち込んでいる。
(画像は講習会後に熊本県ソフト連盟役員と一緒の念写真。 会長を中心に立石理事長が理事役員の協力をうまくまとめている)

 

2009年7月18日土曜日

三宅島ソフトバレー事始め


7月11日から13日まで三宅島にソフトバレーの講習会で行ってきた。その一部を報告する。
 7月11日(土)夕方から両国のホテルにて東洋高校さいかち会(父母の会OB.OG)の定期総会があり、司会を務め、軽い夕食をとり、総会後の懇親会中に抜け出し、三宅島に行くために竹芝桟橋に着いたのは9:30。東京都スポーツ文化事業団の牛島課長、志村さんのお二人に出迎えて頂き10:20発の「さるびあ丸」に一緒に乗船した。まずは、夜食を兼ねて1等船室の和室にてビールで乾杯。同行の志村さんという一般行政職の方は初めての島行きということで多少興奮気味。
 7月12日(日)早朝の5時に三宅島の三池港に着く。今夜宿泊するホテルからの迎えのワゴンに乗り込み、島の反対側にある15km先の阿古という土地に向かった。三宅島は、平成12年に雄山(おやま:775m)が噴火し全島民が避難したことは記憶に新しい。現在でももともと3,500名いた島民の600名ほどがまだ帰島していない。火山ガスに含まれる人体に有害な二酸化硫黄が風に乗って民家まで流れてくる土地がまだあるからだ。途中通り過ぎた集落は確かにゴーストタウンと化していた。三宅島の雄山は昭和期に入ってから15年、37年、58年と噴火をほぼ20年周期で繰り返している。
 民宿を大きくしたような漁港脇のホテルに着いて、少し仮眠をした。7時にシャワーを浴び、朝食を頂き、会場である旧阿古小学校体育館に向かった。当日の出席者は、予定では20~30名であったが、東京都議選投開票日と重なったため、受講者の半分が投開票所のお手伝いの方に回ってしまい、半分の15名の体育指導員が集まった。主催者の三宅島教育委員会の教育課長、課長補佐と名刺交換を行い、早速3時間の講習を始めた。
 本来は、午後はゲームを行う予定であったが、これも選挙のためつぶれてしまった。午後の時間を活用して島内1週の研修とした。ガイドは今年、島教育委員会に就職したばかりの佐久間さんが多忙な中務めてくれた。旧石器時代の化石も出土している三宅島であるが、何といっても自然が素晴らしい。島内1周が35kmの都道を軽快に中古車が走る。島内では新車を目にすることはない。四方を海に囲まれているため塩害と噴火口から流れ出る二酸化硫黄が車体の腐食を促進するので島の車はほとんど中古車です、と佐久間さんは説明してくれた。約2,000年前に火山爆発でできた火口湖「大路池」に案内された。車がやっと通れるような細い道をジャングルのような森林の中を走っていく。周辺には昔ながらの照葉樹林がそのまま残っており、珍しい鳥や植物を間近で観察できた。
 予定では、夕食は受講者の方達とのバーベキューであったが、これも選挙のためキャンセルとなった。実は、このバーベキューで三宅島の体育指導員の方達と親交を結び、ソフトバレー普及の弾みをつけようと考えていただけに、正直残念無念であった。しょうがないので、3人でホテルの食堂にて明日葉(アシタバ)のてんぷらと刺身の盛り合わせで夕食とあいなった。
 TVの選挙速報では、7つある一人区(いちにんく)の議席をめぐって自民と民主が激しく争っているのが報じられていた。結果は自民の大敗で、唯一議席を守ったのは三宅島など伊豆諸島・小笠原諸島の「島嶼部」といわれる選挙区である。当選議員は川島さんという都議会議長も務めたこともある7期目を目指すベテラン議員の方である。島しょ部では、政党名よりも人物で選んでいる選挙民が多いのであろう。
(画像は大路池にて。祖父母の住んでいた三宅島に単身戻り行政職員としてスタートした佐久間さんと一緒に記念写真。彼が今後の三宅島ソフトバレー伝道人になってくれることを期待している)

2009年7月9日木曜日

久しぶりに大学院へ

 指導教官から連絡が入り、来週の水曜日に、ゼミで私の論文を発表しなさい、と指示がきた。今週末は三宅島に行くので、事前準備をするのは今夜しかないと、懐かしの大学院にやってきて、正にただ今、情報室にて配布資料を作っている。ついでに、大学のパソコンからこのブログを書いている。
 本日は、昼にインターハイ出場を決めた東洋高校に行き、監督とランチを食べながらミーティング。そのあと、練習に顔を出した。先月の関東大会で27年ぶりに優勝した高校生たちの表情には自信が満ちあふれ余裕さえ感じられた。
 さて、明日は出社が早いので、そろそろ退出しようかな。

2009年7月7日火曜日

7月7日の今日は七夕


 あいにく今夜は雲が多く、天の川は見えない。「七夕には、願い事を短冊に書き、笹竹に結びつけて七夕飾りをする。この行事は、江戸時代には手習い(習字)が上手になるようにとの願いから寺小屋などで盛んに行われ、その後、学校などでもがくもんや技芸の上達を願う行事として広まっていった(飯倉春武編著「日本人のしきたり」、青春出版社)」ということだが、私の願い事は、家族と友人たちの健康である。健康であれば人生何とかなる、と考えている。
 今週末に伊豆諸島の三宅島をソフトバレーボールの審判講習会で初めて訪れる。三宅島では満天の星が間近に見れるであろう。星に願いをかけると、叶う率が高いのではと自分で勝手に思っているが、三宅島の夜空の流れ星たちにお願いしてこよう。
 ブログを読んでいただいている貴方のためにもお願いしてきます。
(画像はアブチロンという花です。原産地は中南米。別名、ウキツリボク(浮釣木)とも言います。Kさんの大好きなお花ということです)

2009年7月6日月曜日

A市でのソフトバレー交流大会に出場して


 昨日はA市でのサマー大会に出場した。11チーム参加の混合の部はフリーの部しかなく、20代から30代の参加者がメーンになっている。私のチームのような50歳60歳がメンバーにいるようなチームは他に1チーム見受けるほど。毎年参加しているが、40歳以上の部とかに年代を区分していけば中高年齢者も増加していくと思うのであるが、過去に1,2回40歳以上の部を設けても参加チームが2チームしかいないとか理由をあげ、またフリーの部だけに戻している。
 ソフトバレーボールが対象にしている年代は、まず中高年齢者ではなかったのか。40歳を過ぎたあたりから、硬いボールではバレーボールを楽しめない、何とか中年以降でも初心者でも楽しめるバレーボールを開発してくれないか、という愛好者の要望に応えて「ソフトバレーボール」が誕生したのが1988年、今から21年前である。フリーの部はソフトバレー草分けの時代にはチームを作りやすい方策であり、中高年チームと若者チームとも優劣の差はなかった。しかし、次第に若い人たちは中高年を凌駕していった。その兆しのところで交流大会運営に当たる人たちは年代を区分して同じような体力同士でゲームを楽しませる工夫が必要であった。望ましい方向に各種の工夫(インセンティブ)を用いて導いていくのが市や県の連盟の任務の一つであると私は考える。1クラブが主催する招待交流試合は、そのクラブの独自の考えで運営するのは構わない。しかし、登録料を頂き、市や県のスポーツ行政の後援を頂いて運営する連盟主催の交流大会の運営には生涯スポーツの理念が反映されていなくてはならない。
 A市でのゲームも予選グループ戦、順位別ゲームも終えて帰路に着こうとして、表彰のあり方に疑問を持った。表彰は1位グループの3位まで、ということだ。これでは中高部活の競技スポーツの延長ではないか。私達はNo.1でなくオンリィ1を評価してきたはず。1位グループの1位、2位グループの1位・・・審判活動のベストレフェリーチーム、ベストマナーチームなどを評価して新しいスポーツ文化を作ってきたはずだ。それがこの地域では、まだ従来の価値観で運営されている。年々混合チーム数が減少しているというのもうなずける。誕生して20年以上経っていても競技スポーツの考えを引きずっている現実を目の当たりに見て、私は正直がっかりした。
 帰る直前に、責任者に私の意見を述べさせていただいた。しかし、その責任者は「市協会の上の方がこのままで良いというので・・・」と、自分の力ではどうしようもないとあきらめ顔で言う。
 日本の至る所で上のような現実があると思います。そのようなとき、どうするか?市や県の連盟の総会があるはずです。その場で愛好者たちは自分たちの意見を、要望を発言すべきです。見解の相違があれば、その相違を論理的に展開し相互理解に努めます。どちらが正しいかでなくお互いに理解するといことが大事です。その上で連盟サイドが愛好者の意見に理解を示さないのであれば、残念ながらその連盟を去るしかないでしょうね。そして、新たな組織を立ち上げ、自分たちで愛好者のためのソフトバレーの理念を満たした組織運営、大会運営をやっていけばよろしいと思います。
 さて、このような発言は過激でしょうか。私は当たり前のことと思います。愛好者はもっと発言したほうが良い。そして発言には必ずその根拠、理由を付け加える。そのことが論理的な発言となる。数ヶ月前に、ある県で理事長が不祥事の責任を取って辞任した。私は、その責任はその理事長だけにあるのではなく、今までその理事長の暴走を見逃していた、見て見ぬふりをしていた理事にも責任はあると思う。企業にもそのような不祥事はよくある。原因はリーダーが「裸の王様」状態になっていることに多くの要因がある。ワンマン体質が年月とともに大きな権力となり、リーダーも勘違い、部下は進言しても却下されそのうち何も言わなくなる。悪い情報は次第にリーダーの元に届かず、どうもこうもしようがない最悪の状態になってからリーダーは実態を知ることとなる。リーダーも組織を皆から預かっている組織を自分の所有物と勘違いしてくる。そして、そこに内部告発があり・・・。
 このようなことを書いていくと、暗くなるのでこの辺りで止めよう。
いずれにしろ、他にも事例はたくさんあるが、私がそこから引き出した法則は、リーダーは10年以上その地位に留まってはいけない、ということ。清らかな水も流れが鈍ってくると腐ってくる。
(画像はクレマチスという花。いつものKさんが送ってくれました。花屋さんみたいと言ったら、本職の花屋さんでした。日本語では6枚の花弁のものが「鉄線」といい、8枚のものが「風車」と言うとのことです)

2009年7月4日土曜日

目標を達成する秘訣

 多くの人は、目標を達成する直前で断念してしまう。あともう一週間、もう一日、もう1時間辛抱すればできないこともできるようになり、解からないもやもやしていることも霧が晴れるように見えてくるようになる。相手のチームに負けるということは、相手が自分たちより強いことではなく、相手が自分たちより多くの努力をしたということだ。自分たちの能力が不足しているのではない。努力が不足しているのだ。
一番つらい時が、一番達成に近い時。負けるな!

小学生とママさんのダブルヘッダー

 昨日は、月1回の船橋市内の小学生クラブの指導を行い、夜はママさんバレーの指導のダブルヘッダー指導であった。小学生のチームは創設されてまだ1年にも満たない。公式試合も未経験。昨日の練習メニューは、バレーの基本動作に通じるキャッチボールのやり方、遠くに飛ばすオーバーハンド・パスの秘訣、アンダーハンドでの前方のレシーブのやり方、ラストボールの返し方、スパイクでの上半身の使い方、と盛り沢山の内容になってしまったが、この練習を週1回ママさんコーチにやってもらうわけだ。今回で2回目のコーチングであったが、集合の時も大きな声で「ハイ!」と返事があり、駆け足で集まってこれるようになった。次回からはゲームライクに、つまりゲームの要素を取り入れて基本技を練習していきたい。

 小学生の練習の後は、お隣の千葉市に電車で移動してママさんバレーの指導。練習前に、「より厳しくやりますが覚悟ありますか?」と問うたら、最近の試合で負け続けているママさん達もこのままではいけないと自覚してきているようで「お願いします」の言葉が返ってきた。私の言う「厳しさ」とは肉体的に厳しいというのでなく「メリハリの利いた練習態度」のことを言っている。とにかく、だらだらやる練習には我慢できない。移動の際は小走りで、動作の前には大きな声を出して、自分で限界を作らないで、仲間を励ます前に自分自身をまず励まして・・・などと高校生の指導とあまり変わらないことをポンポン言っている自分に気が付く。講習会では優しく笑顔で指導する講師が人気がある。しかし、自分が責任を持っているチームでは、コート上(オン・コート)では「厳しく」、練習の後(オフ・コート)は「優しく」を私の場合は、指導理念としている。昨日の小学生の練習の後、クラブのゼネラルマネージャーが安く分けていただいたバナナを子供達やお手伝いコーチのお母さんたちに「おやつ」として与えていたことも「優しさ」の中に入るであろう。練習後に「きょうは頑張ったね」などと一人ひとりに声をかけてあげるのも「優しさ」の指導で大事なことと考えている。 

2009年7月2日木曜日

7月、1年の後半スタートです。


 私の会社業務の仕事の山も昨日越えることができました。なんて、書いていると、あんたの仕事の山は毎月あるんじゃないか、と言われそうですが、今回で本当に大きな山を越えた感じです。昨夜は早く寝着いたつもりが、夜明け方うつらうつらとして、昨日の仕事の反省点が浮かんできて、枕元のノートに書き留める作業をして、やっと熟睡できました。しかし、定年まであと2年半の身体は正直者で、今日の午前中の会議のときに一瞬ですが寝入ってしまったようです。同席者は優しい人ばかりで、そんな私をそっとしておいたようです。確かに、定年まであとわずかというこんな私にでも、最近はいろいろな困難な仕事が回ってくるのですが、何とかやってのけているので同僚たちは「さすがベテラン」という畏敬の念というよりは、「怪しい人物」という恐れがあるのでしょうね。

 さて、先週末は大阪の心斎橋にてソフトバレーボール・マスターリーダーの新規と更新の講習会が開催されました。一泊2日の講習会で一番役に立ったのは、渡邉さんとの二次会です、などと言われるのは喜んでいいのか、では昼の私の講義はどうであったのか?嬉し悲しの心境です。

 全国から集まっていただいた約100名のマスターリーダーはほとんど全員県連盟の役員に就任している。この方達が日本の明日のソフトバレーを担うことを考えると、日本の将来のソフトバレーボールお願いしますよ、という気持ちになる。受講者の中には7月私が講師で伺う熊本県の理事長もおり、19名参加の二次会まで付きあって頂いた。更には3次会まで突入し、北海道それに山口県の役員と11時までソフトバレーボールを語り合った。

 千葉県で開催する日本体育協会公認指導者養成講習会の受講者を今週月曜曜日に締め切った。県協会の理事会で相当宣伝し、更に各連盟の委員長・理事長に郵送で数回受講のメリットを述べながら募集をかけたものの、頼みの県協会のホームページは故障でアップされず、当初の申し込みは鈍く、最終20名行くかどうか危ぶまれたが、一昨日の担当の報告では丁度50名に達したとのことであった。最近聞いたことであるが、知り合いたちが口コミで複数の仲間に声を掛けてくれたとのことである。仲間はありがたし。
 県外からも4名ほど申し込みをされている。内容は、単なる資格取得のための講習会にはしたくはない。一流の講師陣を呼んでいるので、必ずや講習会後は目から鱗状態になるであろうことお約束する。オブザーバーでも参加したいという人も、どうぞ見るのは自由です。

(画像はいつも自由人のKさんから送られてきた「日光の霧降の滝」です。小学生のボランティアをされていて、時々はハイキングに引率していくそうです。Kさんが、滝つぼに落ちて小学生に介護されないように気をつけてほしいものですね)