帰国して3ヶ月、経ちました。
私は常に目標を立てて、その目標達成を目指して進む性格の人間です。具体的な目標としては、FIVB公認インストラクター就任、大学機関での教員採用、英語力判定のためのTOEIC受験(700点)、バレーボール指導理論再構築(英文)そして今月中旬から新たに加わった県立高校女子バレー部の強化(県ベスト8)。来年1月からは、それらに大学院後期課程受験を加えます。
目標達成に向かっている途中で、人生のコースが変わるかもしれません。2年半前のカンボジアにおけるバレー指導のように突然ご依頼が舞い込むこともあります。
いずれにしても、私の方向性(目的)は大きく変わりません。我々の後に続く、我々より優秀なバレーボール指導者を育成するということが私の使命です。
2016年9月30日金曜日
2016年9月26日月曜日
Sep.26,2016 高校女子チームの指導スタート
先週の木曜日から船橋市内の千葉県立高校女子チームを外部コーチとして指導し始めました。
ここ10日間、インターネットの調子が良くなく、このブログの更新が遅れてしまいました。
高校女子チームを毎週5日間指導するのは6年ぶりぐらいです。その高校は県内でも有数の進学校です。私が指導を引き受けた経緯を簡潔に述べます。
先月末に、千葉県内にある大学の女子バレーボール部のコーチを辞去しました。理由はここでは述べません。その2日後に、私のパソコンに1通のメールが入りました。私が住む船橋市ににある高校の女子バレー部の父母の方からでした。その方は浦安に住んでいるのですが、浦安市のバレーボール協会の役員の方から私の存在を教えて頂いたということです。
顧問の先生とも相談して、子供たちのために外部コーチに就任していただけないか、という文面でした。チーム力は、県大会に出れないレベルであるが、子供たちは意欲がある、顧問の先生もバレーの指導を学習したい、と切々と訴えていました。
謝礼は出ないが、交通費は出せるという条件でした。
私としては、これも何かの縁として捉えて、翌週にご父母の代表2名と市内でお会いしました。そして引き受けることにしました。10日後に顧問の先生が校長先生から口頭で承認を頂きました。私としては、正式に「委任状」を頂きたかったのですが、千葉県教育委員会には正式に外部コーチに「委任状」を発効するシステムがないようでした。
そして先週の木曜日から指導を始めたところです。昨日の日曜日には、市内の高校と練習試合を行いました。6セット行って、我がチームの得点は最高16点でセットは取れませんでした。それでも、現状を把握できました。我がチームは弱いのではなく、戦い方を知らないだけなのです。
さっそく、本日の練習ではフォーメーション理論をホワイトボードに描いて説明し、我がチームに適切なフォーメーションを紹介しました。そして、オフェンス、ディフェンスのフォーメーションとシステムを実技で説明しながら練習しました。
サーブレシーブは3.5人で行うようにしました。また、ブロックシステムは2名で構えて、跳ぶのは1枚にしました。つまり2・1・3のフォーメーションからブロックとディガーとの関係(システム)は1・1・4にしました。リベロはいません。代わりに専任レシーバーを配置しました。
攻撃ではフロント2名のスパイカーしかいませんので、バックセンターの位置からバックアタックを加えました。
子供たちは、新しいレセプションのフォーメーションをすぐに理解しました。今までのW型のフォーメーションですと、レシーバーが前後に並んでいるので、レシーバーの間に飛んで来るサーブに対応するのは難しかったようです。新しいレセプション・フォーメーションではボールの飛んでくるコースに対応すればよいので、お見合いなどなくなり、誰がレシーブするのか判断が早くなりました。
次の日曜日にも他校と練習試合を行いますので、新フォーメーションの効果を確認する良い機会です。
ここ10日間、インターネットの調子が良くなく、このブログの更新が遅れてしまいました。
高校女子チームを毎週5日間指導するのは6年ぶりぐらいです。その高校は県内でも有数の進学校です。私が指導を引き受けた経緯を簡潔に述べます。
先月末に、千葉県内にある大学の女子バレーボール部のコーチを辞去しました。理由はここでは述べません。その2日後に、私のパソコンに1通のメールが入りました。私が住む船橋市ににある高校の女子バレー部の父母の方からでした。その方は浦安に住んでいるのですが、浦安市のバレーボール協会の役員の方から私の存在を教えて頂いたということです。
顧問の先生とも相談して、子供たちのために外部コーチに就任していただけないか、という文面でした。チーム力は、県大会に出れないレベルであるが、子供たちは意欲がある、顧問の先生もバレーの指導を学習したい、と切々と訴えていました。
謝礼は出ないが、交通費は出せるという条件でした。
私としては、これも何かの縁として捉えて、翌週にご父母の代表2名と市内でお会いしました。そして引き受けることにしました。10日後に顧問の先生が校長先生から口頭で承認を頂きました。私としては、正式に「委任状」を頂きたかったのですが、千葉県教育委員会には正式に外部コーチに「委任状」を発効するシステムがないようでした。
そして先週の木曜日から指導を始めたところです。昨日の日曜日には、市内の高校と練習試合を行いました。6セット行って、我がチームの得点は最高16点でセットは取れませんでした。それでも、現状を把握できました。我がチームは弱いのではなく、戦い方を知らないだけなのです。
さっそく、本日の練習ではフォーメーション理論をホワイトボードに描いて説明し、我がチームに適切なフォーメーションを紹介しました。そして、オフェンス、ディフェンスのフォーメーションとシステムを実技で説明しながら練習しました。
サーブレシーブは3.5人で行うようにしました。また、ブロックシステムは2名で構えて、跳ぶのは1枚にしました。つまり2・1・3のフォーメーションからブロックとディガーとの関係(システム)は1・1・4にしました。リベロはいません。代わりに専任レシーバーを配置しました。
攻撃ではフロント2名のスパイカーしかいませんので、バックセンターの位置からバックアタックを加えました。
子供たちは、新しいレセプションのフォーメーションをすぐに理解しました。今までのW型のフォーメーションですと、レシーバーが前後に並んでいるので、レシーバーの間に飛んで来るサーブに対応するのは難しかったようです。新しいレセプション・フォーメーションではボールの飛んでくるコースに対応すればよいので、お見合いなどなくなり、誰がレシーブするのか判断が早くなりました。
次の日曜日にも他校と練習試合を行いますので、新フォーメーションの効果を確認する良い機会です。
2016年9月16日金曜日
Sep.16,2016 続 ヤシカ元監督の船山氏について
本日の午前中は、埼玉県三郷市で活動しているママさんバレーチームの三郷クラブを訪問してきました。半年ぶりです。
このクラブの代表は、モントリオールオリンピック金メダリストで主将であった飯田高子(現姓:神白かじろ)さんです。
練習に入る前に、部員の皆さんと今一度、故船山氏のご冥福を祈りました。そして、飯田さんと一緒に船山さんの思い出を語り合いました。その中で、ヤシカバレー部のコーチであった今井さんもこの5月に亡くなっていることをお聞きしました。
今井さんは、ブラジルバレーの恩人ともいわれている方です。ブラジル女子ナショナルチーム監督のギマラエスは、若いころ、今井さんの指導を受けています。
船山さんのお話に戻りますが、当時の実業団は高校監督からの転身が多い中、船山さんは社会人からの転身でした。当時の日本リーグのトップはニチボーの小島氏、日立武蔵の山田氏、そしてヤシカの船山氏で形成していました。小島氏は四天王寺高校の、山田氏は東京都立三鷹高校の教員からの転身でした。従って、選手たちは監督に声をかけるときには「〇〇先生」と呼んでいました。
船山さんが、ご存命でしたら、2020年の東京オリンピックに向けてどのようなお考えをお持ちであったかお聞きしたかったです。
このクラブの代表は、モントリオールオリンピック金メダリストで主将であった飯田高子(現姓:神白かじろ)さんです。
練習に入る前に、部員の皆さんと今一度、故船山氏のご冥福を祈りました。そして、飯田さんと一緒に船山さんの思い出を語り合いました。その中で、ヤシカバレー部のコーチであった今井さんもこの5月に亡くなっていることをお聞きしました。
今井さんは、ブラジルバレーの恩人ともいわれている方です。ブラジル女子ナショナルチーム監督のギマラエスは、若いころ、今井さんの指導を受けています。
船山さんのお話に戻りますが、当時の実業団は高校監督からの転身が多い中、船山さんは社会人からの転身でした。当時の日本リーグのトップはニチボーの小島氏、日立武蔵の山田氏、そしてヤシカの船山氏で形成していました。小島氏は四天王寺高校の、山田氏は東京都立三鷹高校の教員からの転身でした。従って、選手たちは監督に声をかけるときには「〇〇先生」と呼んでいました。
船山さんが、ご存命でしたら、2020年の東京オリンピックに向けてどのようなお考えをお持ちであったかお聞きしたかったです。
2016年9月13日火曜日
Sep. 12, 2016 訃報: 船山浩志氏が死去されました
船山浩志氏が7日、急性心筋梗塞のため死去されました。81歳でした。
船山氏はヤシカ女子バレーボールチームの監督として、1966年(昭和41年)にニチボー貝塚の連勝記録を258で止めました。その後全日本女子の監督を務め、1967年の日本開催の世界選手権ではヤシカ中心の全日本で優勝しました。
1978年ヤシカバレーボール部が廃部になりました。選手たちのほとんど全員が日本電気(現NEC)に移籍して新チームを結成しました。吉永、滑川、千葉、若井、福島などの選手がいました。岩原さんは、コーチに転身しました。ヤシカで部長であった大沢長蔵さんは、監督に就任しました。
翌年、ミズノに入社した私は、その日本電気女子チームの営業担当となりました。そして、ヤシカと縁の深い東京の中村高校の渡辺監督やヤシカの主将でモントリオールオリンピック全日本女子のの主将も務めた飯田高子(現姓:神白)さんとも知り合っていきました。
船山さんとお会いしたのは、一度だけですが、知的な指導者という印象でした。日本電気女子バレーボール部が発足した当初、ブラジルの女子ナショナルチームが毎年、日本電気に合宿に来ていました。縁を取り持ったのは、当時ブラジルに在住していた船山さんでした。ブラジルナショナルチームのコーチは、その後、監督になりました。彼の名前はレゼンデです。女子の次には男子ブラジルナショナルチームの監督に就任し3度の金メダル(3個目はリオ)を獲得しています。
ビーチバレーボールでも船山さんの功績が多大にありました。シドニーオリンピックで女子が第4位に入賞しました。そこには当時ビーチ王国であったブラジルの名コーチであったレオンさんを日本ビーチチームに紹介した船山さんのお力があったのです。
また、ユニチカの小島さんと日立の山田さんの間をうまく取り持ってくれたのも船山さんでした。
81歳は、長寿国日本社会ではまだまだ若いほうです。いつかヤシカ時代のお話をじっくりとお聞きしようと思ていましたが、それも叶わぬことになってしまいました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
船山氏はヤシカ女子バレーボールチームの監督として、1966年(昭和41年)にニチボー貝塚の連勝記録を258で止めました。その後全日本女子の監督を務め、1967年の日本開催の世界選手権ではヤシカ中心の全日本で優勝しました。
1972年の日本リーグで初優勝したヤシカ |
1978年ヤシカバレーボール部が廃部になりました。選手たちのほとんど全員が日本電気(現NEC)に移籍して新チームを結成しました。吉永、滑川、千葉、若井、福島などの選手がいました。岩原さんは、コーチに転身しました。ヤシカで部長であった大沢長蔵さんは、監督に就任しました。
翌年、ミズノに入社した私は、その日本電気女子チームの営業担当となりました。そして、ヤシカと縁の深い東京の中村高校の渡辺監督やヤシカの主将でモントリオールオリンピック全日本女子のの主将も務めた飯田高子(現姓:神白)さんとも知り合っていきました。
船山さんとお会いしたのは、一度だけですが、知的な指導者という印象でした。日本電気女子バレーボール部が発足した当初、ブラジルの女子ナショナルチームが毎年、日本電気に合宿に来ていました。縁を取り持ったのは、当時ブラジルに在住していた船山さんでした。ブラジルナショナルチームのコーチは、その後、監督になりました。彼の名前はレゼンデです。女子の次には男子ブラジルナショナルチームの監督に就任し3度の金メダル(3個目はリオ)を獲得しています。
ビーチバレーボールでも船山さんの功績が多大にありました。シドニーオリンピックで女子が第4位に入賞しました。そこには当時ビーチ王国であったブラジルの名コーチであったレオンさんを日本ビーチチームに紹介した船山さんのお力があったのです。
また、ユニチカの小島さんと日立の山田さんの間をうまく取り持ってくれたのも船山さんでした。
81歳は、長寿国日本社会ではまだまだ若いほうです。いつかヤシカ時代のお話をじっくりとお聞きしようと思ていましたが、それも叶わぬことになってしまいました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
2016年9月6日火曜日
Sep.05,2016 ブログの更新が遅い時は...
このブログの更新が遅い時は、私が病で臥せっているのではなく、私があちこち動き回っているからです。
先週末もバレーボール関係者とお会いしていました。日曜日には、バレーボール専門誌を発刊している代表と新宿駅でお会いし、2時間ほどあれこれ語り合いました。
語り合うことで、自分の考えの確認もできます。また修正もできます。語り合える仲間がいるということはありがたいものです。
本日は、高等学校女子バレーボール部の父母の方々とお会いしました。ご父兄のお嬢さんたちのバレーボール部の外部コーチを依頼されました。公式試合のビデオを拝見しましたが、県大会出場を目指しているごく普通のチームです。
先週の月曜日に、それまで7回練習手伝いをしていた関東大学2部所属の大学女子チームのコーチを辞去したばかりで、フリーの身になりましたので、とりあえず、その高校女子チームの父母の方たちのご依頼の内容をお聞きすることにしました。
本日の結論は、そこの学校長の承認を得られるのであれば、外部コーチをお引き受けするということになりました。
それにしても、お母さんたちの熱意は十分感じました。高校生よりも、お母さんたちを選手にして鍛えた方が短期に強化できるのではないかと思ったほどです(笑)。
先週末もバレーボール関係者とお会いしていました。日曜日には、バレーボール専門誌を発刊している代表と新宿駅でお会いし、2時間ほどあれこれ語り合いました。
語り合うことで、自分の考えの確認もできます。また修正もできます。語り合える仲間がいるということはありがたいものです。
本日は、高等学校女子バレーボール部の父母の方々とお会いしました。ご父兄のお嬢さんたちのバレーボール部の外部コーチを依頼されました。公式試合のビデオを拝見しましたが、県大会出場を目指しているごく普通のチームです。
先週の月曜日に、それまで7回練習手伝いをしていた関東大学2部所属の大学女子チームのコーチを辞去したばかりで、フリーの身になりましたので、とりあえず、その高校女子チームの父母の方たちのご依頼の内容をお聞きすることにしました。
本日の結論は、そこの学校長の承認を得られるのであれば、外部コーチをお引き受けするということになりました。
それにしても、お母さんたちの熱意は十分感じました。高校生よりも、お母さんたちを選手にして鍛えた方が短期に強化できるのではないかと思ったほどです(笑)。
2016年9月2日金曜日
Sep.01,2016 オリンピックが終わって
オリンピックが終わって、少し気が抜けていました。
私は、日本に戻ってきて、多くのバレーボール関係者とお会いしています。
カンボジアではバレーボールを心底から語り合う友人はいませんでした。年に数回、隣国のタイランドに行きFIVB国際バレーボール連盟主催の講習会や研修会において、やっとバレーボールを語れる仲間を見つけ、互いの情報を交換した次第です。
彼らとは、今でもフェイスブックを通じて交流を続けています。
明日の夜は、日韓小学生交流試合で韓国から帰国されたばかりの監督である築山さんを囲んで、他に千葉県小学生バレーの指導者と一献交わす予定です。
私は、日本に戻ってきて、多くのバレーボール関係者とお会いしています。
カンボジアではバレーボールを心底から語り合う友人はいませんでした。年に数回、隣国のタイランドに行きFIVB国際バレーボール連盟主催の講習会や研修会において、やっとバレーボールを語れる仲間を見つけ、互いの情報を交換した次第です。
彼らとは、今でもフェイスブックを通じて交流を続けています。
明日の夜は、日韓小学生交流試合で韓国から帰国されたばかりの監督である築山さんを囲んで、他に千葉県小学生バレーの指導者と一献交わす予定です。
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