船山氏はヤシカ女子バレーボールチームの監督として、1966年(昭和41年)にニチボー貝塚の連勝記録を258で止めました。その後全日本女子の監督を務め、1967年の日本開催の世界選手権ではヤシカ中心の全日本で優勝しました。
1972年の日本リーグで初優勝したヤシカ |
1978年ヤシカバレーボール部が廃部になりました。選手たちのほとんど全員が日本電気(現NEC)に移籍して新チームを結成しました。吉永、滑川、千葉、若井、福島などの選手がいました。岩原さんは、コーチに転身しました。ヤシカで部長であった大沢長蔵さんは、監督に就任しました。
翌年、ミズノに入社した私は、その日本電気女子チームの営業担当となりました。そして、ヤシカと縁の深い東京の中村高校の渡辺監督やヤシカの主将でモントリオールオリンピック全日本女子のの主将も務めた飯田高子(現姓:神白)さんとも知り合っていきました。
船山さんとお会いしたのは、一度だけですが、知的な指導者という印象でした。日本電気女子バレーボール部が発足した当初、ブラジルの女子ナショナルチームが毎年、日本電気に合宿に来ていました。縁を取り持ったのは、当時ブラジルに在住していた船山さんでした。ブラジルナショナルチームのコーチは、その後、監督になりました。彼の名前はレゼンデです。女子の次には男子ブラジルナショナルチームの監督に就任し3度の金メダル(3個目はリオ)を獲得しています。
ビーチバレーボールでも船山さんの功績が多大にありました。シドニーオリンピックで女子が第4位に入賞しました。そこには当時ビーチ王国であったブラジルの名コーチであったレオンさんを日本ビーチチームに紹介した船山さんのお力があったのです。
また、ユニチカの小島さんと日立の山田さんの間をうまく取り持ってくれたのも船山さんでした。
81歳は、長寿国日本社会ではまだまだ若いほうです。いつかヤシカ時代のお話をじっくりとお聞きしようと思ていましたが、それも叶わぬことになってしまいました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
合掌
0 件のコメント:
コメントを投稿