今夕、大学院の修了式を終え、後輩たちが企画してくれたお祝いの会兼懇親会にて指導教官はじめ既に修了した方達や現役の社会人学生約50名と楽しく懇談した。通常3月修了というのが我が国の習慣であるが、留学生の受け入れや、逆に留学する際に海外は9月入学の通常なので、7月修了というのも設けたと専攻長から本日聞いた。この7月に修了したのは5名。本来は3月に終了するはずであったのが、色々な理由で1学期分修了を伸ばした5名である。特にスポーツ・マネジメント専攻の私と3人は、正月3日目から1週間校舎に通い、または泊まり込みで論文を仕上げた戦友である。
改めて、社会人が論文を完成させる苦痛を味わったこの3年と4カ月であった。自分の考えを口で言うのと文章にするのとでは違う。文章にすることで真の力が付く。そう言ってくれたのは、指導教官の菊幸一教授。菊先生は文部科学省の審議委員も務めている。日本のスポーツ社会学を今後リードされていく先生だ。先生を囲む勉強会をゼミOB・OGで作ることを私が勝手に今夜決めた。先生は困った顔をされたいたが快諾してくれた。私の今後の役目は、アカデミックな研究者と現場の役員や指導者をつなげていく役目なのではないかなと今夜感じ入った次第である。
入学に際して推薦していただいた筑波大学名誉教授の杤堀伸治先生と東海大学教授の成田明彦先生にさっそくご報告に伺う予定だ。お二人の推薦がなければ、当時の私の学力では、通常の入学試験で、はたして合格できていたかどうか、怪しいところであった。しかし、修了(大学院は卒業とは言わない)する方が数倍難関であったことは確かである。
あきらめないで良かった。なかなかできないと感じている時、実は99%できている。そこで多くの人は諦めてしまう。私の場合は、そのようなときに仲間がいた。家族もやりぬくことを勧めてくれた。家族も毎週1回のソフトバレーの練習もママさんバレーの指導も高校生の指導も1年間は中止させて頂き、迷惑を掛けてきた。さあ、これから恩返しだ。
2009年7月28日火曜日
鼻キュンで想いだしたこと
涙が出そうになる時、鼻の上が「キュン」と痛くなる。今月の日本経済新聞「私の履歴書」の書き手は、俳優であり歌手でもある加山雄三さんである。言わずと知れた、あの「若大将」である。その若大将が綴った今朝の文面に、50歳前半でなくなった母(女優で体操家の小桜葉子)への心境が語られてあった。
加山さんが若くして借金を背負うことになり、返済のためにがむしゃらに働いていた時期に『次女の絵美子が生れ、二男二女のにぎやかな家族になった。おふくろに見せたかった。「母よ 長い闇の道 黙って歩いた 妻と幼な児に囲まれた 僕が見えますか」――当時の心境は、岩谷時子さん作詞の「母よ」にずばり描かれている』。
ここまで読み終えて、朝の通勤電車の椅子の上で、鼻の上の目頭が「キュン」と痛くなった。私は、二女を授かった。長女は大学を出て2年目、慣れない広告関係の仕事で帰宅はいつも深夜だ。次女は大学3年生で、硬式野球部のマネージャーとアルバイトで忙しい。
私は、小学5年生の頃から高校生まで父と二人きりの生活をしていた。住むところはアパートや間借り、社宅などの仮の住まいで、組合専従活動の父はいつも帰宅が遅く、夜の食事はほとんど私一人で近くの定食屋さんでツケで食べていた。高校を卒業し、東京で浪人生活を始めて1か月目に、父は海で事故にあい他界した。加山さんの文を読んでいて、その父に孫たちを見せたかったな、と共感した次第である。親孝行したい時に親はなし・・・本当にそうだな、と感傷気味の私ではある。
さて、今夜は我がソフトバレーチームの練習に行く。ここのところ、ジャンプスパイクサーブの練習とサーブレシーブをセットにして練習している。練習後のクーリングダウンは最近ペアのストレッチングを導入している。指導するには指導者も少しは実技を行っているのが良い。選手の気持ちがわかるからね。その意味でも、普段硬いバレーを指導している先生たちが時にはソフトバレーのゲームをプレーヤーとして楽しむことをもっと広めたい。
加山さんが若くして借金を背負うことになり、返済のためにがむしゃらに働いていた時期に『次女の絵美子が生れ、二男二女のにぎやかな家族になった。おふくろに見せたかった。「母よ 長い闇の道 黙って歩いた 妻と幼な児に囲まれた 僕が見えますか」――当時の心境は、岩谷時子さん作詞の「母よ」にずばり描かれている』。
ここまで読み終えて、朝の通勤電車の椅子の上で、鼻の上の目頭が「キュン」と痛くなった。私は、二女を授かった。長女は大学を出て2年目、慣れない広告関係の仕事で帰宅はいつも深夜だ。次女は大学3年生で、硬式野球部のマネージャーとアルバイトで忙しい。
私は、小学5年生の頃から高校生まで父と二人きりの生活をしていた。住むところはアパートや間借り、社宅などの仮の住まいで、組合専従活動の父はいつも帰宅が遅く、夜の食事はほとんど私一人で近くの定食屋さんでツケで食べていた。高校を卒業し、東京で浪人生活を始めて1か月目に、父は海で事故にあい他界した。加山さんの文を読んでいて、その父に孫たちを見せたかったな、と共感した次第である。親孝行したい時に親はなし・・・本当にそうだな、と感傷気味の私ではある。
さて、今夜は我がソフトバレーチームの練習に行く。ここのところ、ジャンプスパイクサーブの練習とサーブレシーブをセットにして練習している。練習後のクーリングダウンは最近ペアのストレッチングを導入している。指導するには指導者も少しは実技を行っているのが良い。選手の気持ちがわかるからね。その意味でも、普段硬いバレーを指導している先生たちが時にはソフトバレーのゲームをプレーヤーとして楽しむことをもっと広めたい。
2009年7月26日日曜日
敗者から学ぶこと

2年毎に開催される水泳の世界選手権がローマで開催されている。シンクロが開催された1973年の世界選手権13大会と五輪7大会を通じて日本がメダルなしに終わったのは初めてということだ。チームの平均年齢が19.9歳。北京五輪代表が全員引退し、指導者も一新されたとのこと。私もTVで演技を見たが、日本の演技にはトップの国々にある「華」がなかった。採点は、技術点と芸術点の合計でなされるが、技術の正確性や力強さも感じられず、特に艶やかさがが感じられなかった。一言で言うと「子供っぽい」のである。ロシアも若返っていたが、ロシアは国内での熾烈な競争でレベルを保っているという話だ。
今回の日本チームは、「若さのパワー」で勝負に出たのであろうが、裏目に出たようだ。私がチームを作るとしたら、「ベテラン・中堅・若手」の三層構造にする。そしてベテランには、プールの中だけでなく、プール外での過ごし方、例えば、ものの見方、メディアとの接し方、世界観、人生観を身をもって示して欲しい。コーチ陣にも経験あるコーチを加えたい。
世界で戦うのは、「プールの中」だけでなく、「プールの外」でも経験を積まなければならない。私達のバレーボールも然り。「体育館の中」で天才でも、「体育館の外」でも天才という訳にはいかない。神様は、人間をパーフェクトな存在として造らなかった。スポーツを取り囲んでいるのは「体育館外」という社会である。社会人としての確かな歩みの中で、トップアスリートとしての能力を磨いていってほしい。そのためにも多くの経験を持つベテランが身近にいる必要がある。身近のベテランを必要としないならば、世界のトップに教えを請う必要がある。
世界のレベルが上がったから、日本がメダル常連国から滑り落ちたのか、日本のレベルが落ちたから世界がメダルを獲得するようになったのか、外部者の私には良くわからない。判っているのは、日本のお家芸がまた一つ減ったということだ。バレーボール、男子レスリング、柔道・・・。シンクロの敗因分析はこれから詳細にされるであろう。肝心なのは、対策である。対策実行のための財源は、期間は、指導陣は、選手選考のあり方は、強化内容・方法は・・・強化本部の腕の見せ所であろう。
三日後の水曜日は大学院修了式。木曜日は、私が外部コーチをしているチームのインターハイ(全国高校総体)女子出発直前合同練習日。週末は、我がママさんチームの1泊2日の合宿がある。皆で一軒家を貸し切り、掃除・買出し・調理・食事を子供たちやパパも加わり、生活を共にする。練習試合も行う。2日目の夜から、私は新幹線でインターハイ会場の奈良市に向かう。8月6日までの滞在である。
7日の夕方からは秋田に行き、日本体育協会公認指導員養成講習会で講師を務める。なんと一日7時間を2日間、私一人でやりなさいという。それも受講者は100名という。酒処の秋田県バレー協会は私を秋田名酒で釣ろうとしているのであるが、そうは問屋が・・・卸しちゃうのである。まあ・・・釣られる私も私である。
今回の日本チームは、「若さのパワー」で勝負に出たのであろうが、裏目に出たようだ。私がチームを作るとしたら、「ベテラン・中堅・若手」の三層構造にする。そしてベテランには、プールの中だけでなく、プール外での過ごし方、例えば、ものの見方、メディアとの接し方、世界観、人生観を身をもって示して欲しい。コーチ陣にも経験あるコーチを加えたい。
世界で戦うのは、「プールの中」だけでなく、「プールの外」でも経験を積まなければならない。私達のバレーボールも然り。「体育館の中」で天才でも、「体育館の外」でも天才という訳にはいかない。神様は、人間をパーフェクトな存在として造らなかった。スポーツを取り囲んでいるのは「体育館外」という社会である。社会人としての確かな歩みの中で、トップアスリートとしての能力を磨いていってほしい。そのためにも多くの経験を持つベテランが身近にいる必要がある。身近のベテランを必要としないならば、世界のトップに教えを請う必要がある。
世界のレベルが上がったから、日本がメダル常連国から滑り落ちたのか、日本のレベルが落ちたから世界がメダルを獲得するようになったのか、外部者の私には良くわからない。判っているのは、日本のお家芸がまた一つ減ったということだ。バレーボール、男子レスリング、柔道・・・。シンクロの敗因分析はこれから詳細にされるであろう。肝心なのは、対策である。対策実行のための財源は、期間は、指導陣は、選手選考のあり方は、強化内容・方法は・・・強化本部の腕の見せ所であろう。
三日後の水曜日は大学院修了式。木曜日は、私が外部コーチをしているチームのインターハイ(全国高校総体)女子出発直前合同練習日。週末は、我がママさんチームの1泊2日の合宿がある。皆で一軒家を貸し切り、掃除・買出し・調理・食事を子供たちやパパも加わり、生活を共にする。練習試合も行う。2日目の夜から、私は新幹線でインターハイ会場の奈良市に向かう。8月6日までの滞在である。
7日の夕方からは秋田に行き、日本体育協会公認指導員養成講習会で講師を務める。なんと一日7時間を2日間、私一人でやりなさいという。それも受講者は100名という。酒処の秋田県バレー協会は私を秋田名酒で釣ろうとしているのであるが、そうは問屋が・・・卸しちゃうのである。まあ・・・釣られる私も私である。
(画像は愛読者のKさんから送られてきた鯛釣り草。面白い名前の花ですね)
2009年7月25日土曜日
関東高校私学バレーボール大会とインフルエンザ
東京都町田市にて22日から24日まで開催されている標記の大会に行ってみた。昨日は最終日であった。男女ベスト8が激戦を繰り広げていた。但し、インターハイ代表チームは男子が来週から、女子がさ来週から奈良県で始まることもあり、この大会は調整期間と捉えられていて、真剣味がいま一つ足りない。準決勝に進出するある男子チームの監督と話す機会があった。次の試合は、2軍を出します、ということだ。理由を聞くと、前日のゲームで他のチームにインフルエンザ患者が出たとのことだ。そのチームと対戦した勝者チームと本日対戦するので、明日から奈良に移動するチーム側としてみれば、リスク管理で、自チームの1軍の選手を直接対戦させたくない、ということらしい。2軍を出しても、そのあと1軍と合流するのだから感染するとしたら同じことのように私には思えるのであるが、そのチームは実際2軍を出して、敗退しすぐさま体育館を後にした。
大会関係者にインフルエンザのことを確認したところ、確かに患者が発生したとのことだ。本部はすぐさま出場160チームの学校あてにFAXで事実を連絡し、保健所にも連絡、来週の水曜日からスタートするインターハイの主催者である全国高校体育連盟バレーボール専門部にも連絡をしている。
幸いにも、前日の患者は新型インフルエンザではないようだ。10代の若い世代は免疫も少なく、重篤になりやすい。奈良インターハイが無事に閉幕してくれることを祈るばかりである。
大会関係者にインフルエンザのことを確認したところ、確かに患者が発生したとのことだ。本部はすぐさま出場160チームの学校あてにFAXで事実を連絡し、保健所にも連絡、来週の水曜日からスタートするインターハイの主催者である全国高校体育連盟バレーボール専門部にも連絡をしている。
幸いにも、前日の患者は新型インフルエンザではないようだ。10代の若い世代は免疫も少なく、重篤になりやすい。奈良インターハイが無事に閉幕してくれることを祈るばかりである。
2009年7月20日月曜日
熊本県八代市にてリーダー養成講習会

昨日から八代市に来ている。八代は「やしろ」でなく「やつしろ」と読む。県内第2の人口の市である。「やしろ」と読んでしまうのは、歌手の八代亜紀の影響かもしれない。確かに歌手の八代亜紀さんは、当地の出身で、昨夜県連盟の役員15名ほどで二次会のお店に行った近くに彼女がデビューしたお店のネオンが煌々と照っていた。
熊本県ではここ八代市がソフトバレーのメッカとして非常に盛んな土地であると、理事長の立石さんが自慢げに話していた。市総合体育館にはコートが16面もあり、多いときで参加チーム数が200にもなるということである。熊本市では「ミニバレー」という昔ながらの地域スポーツが盛んでソフトバレーの普及はこれからという。立石さんという理事長は、コメディアンの高田純二に似ていて語り口が早い、おまけに熊本弁が入り混じるから、半分ぐらいの理解しかできない。私が昨夜覚えた熊本弁は、食事のときの「うまか~」という方言である。おいしい、という意味である。
講習会の受講者は全員まじめそのもの。私が時々発する「親父ギャグ」にもなかなか反応しない。講習会には、サプライズで日本連盟会長の西山先生が飛び入りで参加した。広島から新幹線を乗り継いで2時間半で着くとのことだ。2年後には鹿児島まで新幹線がつながり、新大阪まで4時間ほどで行くそうだ。
じつは、今、熊本空港にいるのであるが、7時定刻の羽田行きのフライトが1時間遅れだ。お詫びの食事券をANAから頂いたが、売店では食事もほとんど売り切れていて、お土産を買うしかない。明日の出社は疲れを引きづったままかな、と落ち込んだまま空港のコイン・インターネットでこのブログを打ち込んでいる。
熊本県ではここ八代市がソフトバレーのメッカとして非常に盛んな土地であると、理事長の立石さんが自慢げに話していた。市総合体育館にはコートが16面もあり、多いときで参加チーム数が200にもなるということである。熊本市では「ミニバレー」という昔ながらの地域スポーツが盛んでソフトバレーの普及はこれからという。立石さんという理事長は、コメディアンの高田純二に似ていて語り口が早い、おまけに熊本弁が入り混じるから、半分ぐらいの理解しかできない。私が昨夜覚えた熊本弁は、食事のときの「うまか~」という方言である。おいしい、という意味である。
講習会の受講者は全員まじめそのもの。私が時々発する「親父ギャグ」にもなかなか反応しない。講習会には、サプライズで日本連盟会長の西山先生が飛び入りで参加した。広島から新幹線を乗り継いで2時間半で着くとのことだ。2年後には鹿児島まで新幹線がつながり、新大阪まで4時間ほどで行くそうだ。
じつは、今、熊本空港にいるのであるが、7時定刻の羽田行きのフライトが1時間遅れだ。お詫びの食事券をANAから頂いたが、売店では食事もほとんど売り切れていて、お土産を買うしかない。明日の出社は疲れを引きづったままかな、と落ち込んだまま空港のコイン・インターネットでこのブログを打ち込んでいる。
(画像は講習会後に熊本県ソフト連盟役員と一緒の念写真。 会長を中心に立石理事長が理事役員の協力をうまくまとめている)
2009年7月18日土曜日
三宅島ソフトバレー事始め
7月11日から13日まで三宅島にソフトバレーの講習会で行ってきた。その一部を報告する。
7月11日(土)夕方から両国のホテルにて東洋高校さいかち会(父母の会OB.OG)の定期総会があり、司会を務め、軽い夕食をとり、総会後の懇親会中に抜け出し、三宅島に行くために竹芝桟橋に着いたのは9:30。東京都スポーツ文化事業団の牛島課長、志村さんのお二人に出迎えて頂き10:20発の「さるびあ丸」に一緒に乗船した。まずは、夜食を兼ねて1等船室の和室にてビールで乾杯。同行の志村さんという一般行政職の方は初めての島行きということで多少興奮気味。
7月12日(日)早朝の5時に三宅島の三池港に着く。今夜宿泊するホテルからの迎えのワゴンに乗り込み、島の反対側にある15km先の阿古という土地に向かった。三宅島は、平成12年に雄山(おやま:775m)が噴火し全島民が避難したことは記憶に新しい。現在でももともと3,500名いた島民の600名ほどがまだ帰島していない。火山ガスに含まれる人体に有害な二酸化硫黄が風に乗って民家まで流れてくる土地がまだあるからだ。途中通り過ぎた集落は確かにゴーストタウンと化していた。三宅島の雄山は昭和期に入ってから15年、37年、58年と噴火をほぼ20年周期で繰り返している。
民宿を大きくしたような漁港脇のホテルに着いて、少し仮眠をした。7時にシャワーを浴び、朝食を頂き、会場である旧阿古小学校体育館に向かった。当日の出席者は、予定では20~30名であったが、東京都議選投開票日と重なったため、受講者の半分が投開票所のお手伝いの方に回ってしまい、半分の15名の体育指導員が集まった。主催者の三宅島教育委員会の教育課長、課長補佐と名刺交換を行い、早速3時間の講習を始めた。
本来は、午後はゲームを行う予定であったが、これも選挙のためつぶれてしまった。午後の時間を活用して島内1週の研修とした。ガイドは今年、島教育委員会に就職したばかりの佐久間さんが多忙な中務めてくれた。旧石器時代の化石も出土している三宅島であるが、何といっても自然が素晴らしい。島内1周が35kmの都道を軽快に中古車が走る。島内では新車を目にすることはない。四方を海に囲まれているため塩害と噴火口から流れ出る二酸化硫黄が車体の腐食を促進するので島の車はほとんど中古車です、と佐久間さんは説明してくれた。約2,000年前に火山爆発でできた火口湖「大路池」に案内された。車がやっと通れるような細い道をジャングルのような森林の中を走っていく。周辺には昔ながらの照葉樹林がそのまま残っており、珍しい鳥や植物を間近で観察できた。
予定では、夕食は受講者の方達とのバーベキューであったが、これも選挙のためキャンセルとなった。実は、このバーベキューで三宅島の体育指導員の方達と親交を結び、ソフトバレー普及の弾みをつけようと考えていただけに、正直残念無念であった。しょうがないので、3人でホテルの食堂にて明日葉(アシタバ)のてんぷらと刺身の盛り合わせで夕食とあいなった。
TVの選挙速報では、7つある一人区(いちにんく)の議席をめぐって自民と民主が激しく争っているのが報じられていた。結果は自民の大敗で、唯一議席を守ったのは三宅島など伊豆諸島・小笠原諸島の「島嶼部」といわれる選挙区である。当選議員は川島さんという都議会議長も務めたこともある7期目を目指すベテラン議員の方である。島しょ部では、政党名よりも人物で選んでいる選挙民が多いのであろう。
(画像は大路池にて。祖父母の住んでいた三宅島に単身戻り行政職員としてスタートした佐久間さんと一緒に記念写真。彼が今後の三宅島ソフトバレー伝道人になってくれることを期待している)
2009年7月9日木曜日
久しぶりに大学院へ
指導教官から連絡が入り、来週の水曜日に、ゼミで私の論文を発表しなさい、と指示がきた。今週末は三宅島に行くので、事前準備をするのは今夜しかないと、懐かしの大学院にやってきて、正にただ今、情報室にて配布資料を作っている。ついでに、大学のパソコンからこのブログを書いている。
本日は、昼にインターハイ出場を決めた東洋高校に行き、監督とランチを食べながらミーティング。そのあと、練習に顔を出した。先月の関東大会で27年ぶりに優勝した高校生たちの表情には自信が満ちあふれ余裕さえ感じられた。
さて、明日は出社が早いので、そろそろ退出しようかな。
本日は、昼にインターハイ出場を決めた東洋高校に行き、監督とランチを食べながらミーティング。そのあと、練習に顔を出した。先月の関東大会で27年ぶりに優勝した高校生たちの表情には自信が満ちあふれ余裕さえ感じられた。
さて、明日は出社が早いので、そろそろ退出しようかな。
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