■12月9日(火)
朝食に、昨日の釣りの成果(先生の師匠のである)であるシマアジの刺身が出た。醤油皿にワサビの代わりに島唐辛子をほんの少し加えて熱々のご飯と頂くと、これが旨い。腹ごしらえもして、母島に行くために部屋からバッグ類を出そうとしていると、掃除のおばさんが先生に近寄ってきた。
「あのう・・・岩本先生ですよね・・・」
「はい、そうですが」
「ああ、やっぱりそうだ。先生全然お変わりないから・・・」
掃除用の箒を両手に持ったまま、おばさんは話し続ける。
「私は30年前、先生の高校の教え子です。体育の授業で先生が歌ってくれたことを覚えています」
話を聞いていると丸山(旧姓江上)由美さんの2年後輩で、彼女の夫はこの村で村長をやっているとのこと。いやはや、奇遇ですね。私の床屋さんとの再会もそうであったが、先生の教え子とも再会するとは。やはりここは東京都なんだと改めて感じた次第。このあと、村長に表敬訪問したのだが、この話が出て、村長も驚いていた。そんなこともあって、来年度9月のソフトバレーボール交流大会の話も前向きに進み始めた。
昼前に「ははじま丸」で母島に向けて更に南下した。波が少し高かったせいか小ぶりの客船は前後左右に揺れた。このような時はじっと船底に横になっているに限る。2時間少しかけて母島に着いた時は頭が重くやや気分がすぐれなかったが、港の周りの深い緑の木々を眺めていると気分が晴れてきた。
すぐ間近に母島最高峰463mの乳房(ちぶさ)山が見える。天気が良ければ、この山頂から北硫黄島が遠望できるという。北硫黄島そして硫黄島も小笠原村に入る島々だ。先の大戦で硫黄島で日米の兵士が約2万人戦死したという。戦争が身近に感じられた。
昼食を都営アパートの一角の部屋でとるという。部屋に入ると宮澤さんという福祉関係に従事している40歳くらいの男性が出迎えてくれた。大学を出た後、ブラジルにも渡り10年前に移り住んできたという。ブラジル帰りの彼のリビングルームはカウンターのある洒落た雰囲気が漂っていた。さらに話を聞いていると大学は私の長女が今年卒業した大学であること、そこのサッカー部出身であること、現在母島で子供たちにサッカーを指導していることなど、本人のことだけでなく島の事情も話していただけた。
そのあとも島の人たちとゆったりした空気の中でたくさんお話ができた。20名にも満たない母島の子供たちは皆兄弟のようだ。上の子たちが下の子たちの面倒を実によく見ている。校長先生も一緒に短パン姿で参加していただき、子供たちも幸せ者だ。
夜の教室では、岩本先生が小中生の部だけでなく一般の部の教室も張り切って頑張られた。ますます眼が落ち込んで疲労の色が濃く出てきた感があったが、2月以来の再訪で島民の期待を感じ取った先生が好きなようにやりたいようにお任せした。私は、その後の皆さんとの懇親会で夜遅くまでバレー談義で頑張らせていただいた。
(画像は母島の剣先山245mから沖港を望みながら先生、宮崎さん、私とで記念写真)
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