2012年1月13日金曜日

1/11(水) 新潟県立高校女子バレー部 合宿 言い忘れ



 高校女子バレー部(県2位)の練習試合を手伝ってきました。

練習試合の合間に、私はおやじギャグばかり言っていないのです。

 例えば・・・
「喜怒哀楽という感情をむき出しにできない人は、ポーカーフェイスでプレーすることはできない。 若い君たちが自分の心を表に出せるようになることが、青春期には必要なんだ。今から、ポーカーフェイスでどうする!?」
 まあ、こんなように毎日が子供たちとの勝負です。世界的に有名な演出家の蜷川さんのように指導しています。「女優になれ!」ってね。
但し、大声で指導しますが、蜷川さんのように物は投げません。
『明るく!、元気に!、美しく!』をスローガンにしました。「明るく、元気な女性は、多少お顔の造りがどうのこうの、体形の曲線がどうのこうのであろうが、美しいのだ!男の子はそんな女の子を好きになるのだ!」
 これを子供たちの前で言ったら、子供たちよりも早く反応したのが、そばで聞いていた父母のお母さんたちでした。
 女性は「美」に弱いんですね・・・・。私は「美ール」に弱い。
(画像は、監督からお土産に頂いた地ビールの詰め合わせセット。持ち帰るのが重かった。感謝の気持ちが重みと共に肩甲関節辺りの筋肉にジワッと湧いてくる。新潟のお土産は酒類に限る、確かに。次回、監督が、千葉県に電車で来たら、お返しに何か重いお土産を気持ちを込めて探しておこう・・・)

2012年1月11日水曜日

1/10 ソフトバレーボール練習始め

今夜は、我がソフトバレークラブの練習始めだった。しかし、会場に着いたものの、ほとんど練習できなかった。仲間の一人がアキレス腱を切ってしまい、応急処置とその後の対応で私自身の練習は中断した。
 大穴クラブは、コート2面で毎週火曜日に活動をしている。1つのコートでは大会出場を目指すグループが、もう1つのコートでは大会には出場しないが、練習だけ行っているグループが存在している。年に数回、1年の練習始めなどのときには、2グループが混じってチームを作ってゲームを楽しんでいる。
 練習始めのこの日も、4チームを作って、主審も付けてゲームを始めた。しばらくして、ラリー中に60歳代の男性が、コート外に出て、しゃがみこんでしまった。チームメイトの女性が「何か、ボンという音がしたわよ」という言葉を聞いて、私は嫌な予感がした。アキレス腱かもしれない。
 悪い予感は当たった。本人に、うつ伏せになってもらって、両足のアキレス腱を触診してみた。左のアキレス腱は、ペコンと陥没して指でつまむことはできなかった。右は硬いアキレス腱が下腿三頭筋から踵骨(しょうこつ)までしっかりと存在していた。間違いない。
 練習会場の大穴中学校体育館に、今晩に限っては、もっと早く着きたかった。私の自宅から会場まで車で40分かかる。いつも、会場に着いたときには、アップは終了している。今晩のような寒い時期のウオーミングアップは念入りにしなければいけない。今晩は、十分走って、軽く汗をかいてからストレッチをやってもらいたい、と思いながらも、いつものように30分遅れで会場に着いた。館内に入っていくと、既にゲーム形式での練習をやっているところであった。笛を吹いて、全員に集合してもらって、新たにチームを作ってゲームを再開したところで怪我が発生した。ちょっと、悔やまれた。
 救急車を呼び、近くの船橋整形外科病院に運び込んで当直の医師に簡単な処置をしていただいた。奥様も病院に着いていた。怪我をした仲間には、明日、同じ病院に来ること、スポーツ保険のこと、職場への連絡などの確認を交わして、私は定時より40分遅れて帰宅した。
 冬場の練習では、十分なウオーミングアップを行ってから練習に入って欲しい。特に練習を長期で休んでいた場合は入念にアップを行い、なおかつ無理をせず運動量を落としてやった方が良い。アキレス腱の損傷は、仕事に大きく支障をきたす。軽い捻挫などはテーピングしておけば2週間ほどで治癒するが、アキレス腱は治癒するまで1カ月から2カ月かかる。松葉杖での生活も1ヶ月間続く。通称、ふくらはぎというが、運動前は、下腿三頭筋は十分すぎるほどストレッチ(伸展)して欲しい。そして、疲労感があるときは無理せず、練習を止めるべきである。アキレス腱を切る(部分断裂と完全断裂がある)ときの原因は複合的だ。疲労、ストレス、加齢などが複合的原因になって切る場合が多い。
 私は、50歳のときにソフトバレーボールの交流大会で部分断裂をやっていた。実は、その半年前の全国大会で優勝した勢いで、ほぼ毎週招待試合に出かけていた。50歳のアキレス腱は加齢で悲鳴を上げていたのであろうが、どこに行っても勝つ喜びに浸っていた未熟な私は、その当時、調子に乗っていた。
 会社は1カ月休むことになり、同僚に迷惑をかけてしまった。松葉杖でJR電車に乗っても、席を譲ってくれずに寝たふりをしている若い人もいた。逆に、私より年長の人が、席を譲ってくれた。出勤のために下車するJR御茶ノ水駅にはエレベーターもエスカレーターもなく、松葉杖での階段の上り下りは苦労した。特に下りでの松葉杖の操作は大変難しかった。JR御茶ノ水駅の周りには、恐らく日本で一番病院数があるにもかかわらず、この駅にはエレベーターもエスカレーターも無いことが、この時初めて解った(未だに設置されていない)。
 怪我をした仲間には、怪我を治療して2ヶ月後にはコートに復帰、そして復活してもらう日を待つしかない。あせらずに治療とリハビリをして欲しい。

1/7(土)~9(月) 新潟県高校女子バレー 練習試合



昨年というか、先週に引き続き、新潟県立中央高等学校に行った。春高バレーは、第3日目で、ベスト8が決まる。会場にいたいのは山々であったが、先週の合宿で、生徒の動機付けが上手く行きつつあったので、熱の冷めやらぬ前に、ということで新潟に行った。新潟市内は、意外と雪は積もっていなかった。しかし、気温は関東と比べて低く、最高気温は3度で最低はー2度。夜は雪になった。
 着いた日の土曜日は、高校の体育館が使用できなく、郊外にある中学校の体育館に練習試合のチームが集まった。この日は、山形、宮城から2チームが集まっていた。監督さん達は私も知っている先生方ばかりで、再会を喜びながら各チーム2セットの練習試合を行った。私は、この日は様子見で、アドバイスはしないで、中央高校のゲームを見るだけにした。ゲームの結果は、全敗であった。
 ゲーム後の練習で、サーブの指導を行った。「サーブはゲーム最初の攻撃」ということを白板に大書して、スピードサーブの打ち方を指導した。まず、白帯上部にボールの底1cmが触れるように、つまりネットインしながら、なおかつエンドラインでボール2個分アウトになるようにコントロールすること。スピードをつけるには、重心移動をしながらヒットすること。
 夜になって、中央高校に戻って夕食を採った。生徒達は宿舎内の大風呂に入った。先週、中央高校の監督と2人一緒に入った時はボイラーの調子が悪く、ぬるま湯に2人の肌が密着するほど接近して入浴した。今週は?ボイラーを修理したとのことで熱々のお湯が出ていたのでhotした(ほっとした:これは超高級おやじギャグ!)。
 2日目の日曜日には、朝一でまず長野県のチームがバスで到着。3時間かかったそうだ。その後、群馬県のチームが到着し、これで全5チームが揃った。全チーム、各県で2番手のチームばかりだ。1セット回しで練習試合が再開された。中央高校には、1セット毎に、戦術を指導していった。サーブで相手のレセプションを崩すためにはどこを狙えば良いのか。ブロックのタイミング、ディグ(スパイクレシーブ)のクイックに対する位置などを指導していった。一番力を入れたのは、メンタルの指導である。「『喜怒哀楽』をもっと出そう。自分の心の動きを仲間に見えるように体の外に出そう」。「得点したら、全員で声を出して、コートの中でぐるっと1周走り回ろう」。「得点したら、コートの近くで応援している仲間の下級生と走り回りながらながらタッチを交わしていこう」。「構える前には、足踏みを素早く5回やってから構えよう」。なんか、小学生バレーのような指導になったが、淡々としてプレーする中央高校の生徒には、このようにして体を動かすことで心が動き、プレーが元気に、明るくなることを体験してもらった。
 心が動けば、体も動く。体が動けば、心も動く。この日のゲームの結果は、群馬のチームにだけはセットを取れなかったが、他の3チームにはセットを勝ち越すことができた。練習試合の目的は、セットを取ることが目的ではない。普段の練習での課題を達成するために行うのが練習試合の目的である。
但し、そのセットを負けない気持ちでやらないといけない。
 この日から、レセプション(サーブレシーブ)のAパス(クイックができるセッターへの返球率)のデータ採取だけでなく、サーバーのボールスピードの計測を始めた。セットを14点~16点で取った時のチームAパス率は70%であった。セットを取られたときは40%前後という低い数値であった。
 最終日は成人の日。午前中だけ練習試合を行った。中央高校へのこの日の指導は、「落とすサーブ」を行った。ある程度のスピード(30数km/h)があって、レシーバーの手前で落ちるフローターサーブをやってもらったのだが、今までやったことがないらしく、なかなか落ちない。コツを伝授したが、直ぐにはできない。
 今週末には、中央高校は神奈川県の全国常連チームの高校で1泊2日にて練習試合を行う。私も顔を出す予定だ。「明るく、元気に、美しく」ができるようになったとき、中央高校がインターハイに行けるときであろう。

(画像は、父母後援会からお土産として頂いた日本酒「越乃寒梅」。お土産によく売れると「完売」となる。・・・おやじギャグはそれぐらいにして・・・。父母の方達も熱心だ。40歳代前半の昔バレーやっていましたというお父さんには、臨時アシスタント・コーチで球出しを手伝ってもらった。ご自分の娘さんにもマッハレシーブという恐怖のレシーブ練習の球出しをやってもらった。一寸、手加減しているようなので、私が交代して、3mの至近距離から強打を放った。お父さんは眼をつぶっていた)

2012年1月6日金曜日

1/6(金) 2012年 春高バレー2日目




 会場である東京都体育館の役員受付を過ぎ、体育館内に入った。最初に出会ったのは、斎藤勝(まさる)先生。東海大学特任教授で前体育学部長、前バレーボール部部長、前男子バレーボール部監督、元全日本男子バレー監督を歴任された。 昨日、ミュンヘンオリンピック金メダリスト監督の松平康隆氏の逝去のお知らせが日本バレーボール協会からあった。実際にお亡くなりになったのは、12月31日であったが、メディアに知らされたのは、昨日5日の春高バレーの開幕日であった。春高バレー創設には松平氏が中心になって奔走して実現した大会であった。世間に対しての訃報は開幕に合わせたのであろう。松平氏のことだから、死期を悟って、その日まで伏せるように遺言したのであろう。開幕の前に湿っぽくなってはいけないと氏の最期の配慮であったのかもしれない。

 さて、斎藤勝先生であるが、ミュンヘン金メダル獲得にはこの先生なしには語ることができない。当時(1972年)の全日本男子の平均身長は191cm。これは、ミュンヘン出場チームの高い順3番目である。当時の日本人男性の平均身長は166cmぐらいであろうか。高校のバレー部でも県大会に行って180cm以上の選手は大きいな、という時代である。それが、191cmである。選手の中には、まだ実績がない選手も数名いた。それらのただ大きい選手たちに170cm台の俊敏な動きを身につけさせてくれ、と松平監督から指示されたのが、トレーナーの斎藤勝先生である。

 俊敏性、動きの柔軟性、リズム感、タイミング、筋トレにもなるトレーニングということで、斎藤先生が編み出したのが「斎藤式トレーニング」。バレーボールに紐をつけ、安全マットの上でそれを回転させて、選手が跳び越える。半年後にはバック宙もできるようになった。そのアクロバック的なトレーニングは、ミュンヘンで金メダルを獲る前から世界のバレー界のみならずスポーツ界に衝撃を与えた。

 「斎藤先生、このトレーニングで一番手がかかった選手は誰だったのですか?」

 「南だね。当時33歳の最年長だったから、逆立ち歩きやバック宙はできるまでに時間がかかったね。先日ね、その時のトレーニング風景のビデオをDVDにダビング編集して東海大学の現役の学生に見せたんだ。ベテランが必死になって単調なダッシュなどを繰り返しやっている姿は若い人たちに感銘を与えたようだね」

 「先生、それ、私にも下さい。講習会で活用させていただきます」

 斎藤先生には、春高バレーの会場では、いつも側に座らせて頂いてゲームの解説をお願いしている。特に、先生の教え子である東海大学卒業生が監督しているチームのゲームになると、その監督の大学生時代のマル秘事項も飛び出して奥深い?解説になる。

 午後のゲームになって、東京第一代表の東洋は秋田県の雄物川に2-1で勝利。最終試合の8ゲーム目の大和南と第3シードの鹿児島女子とのゲームは青森インターハイフルセットの再戦で激戦となると思いきや、あっけなく大和南が2-0で勝利した。鹿児島女子は攻撃力が乏しく、ミスも多く、ちょっと拍子抜けした。試合後、大和南の前監督である飯塚先生、和美コーチ、学校の教員数名と一緒に宿舎のホテルのある両国まで行き、近くのちゃんこ料理店に入り夕食を頂いた。

 明日から3日間は新潟市に行く。新潟中央高校に隣県から数チームが集まり練習試合合宿を行う。今回の私の役割は、「戦術」を指導することである。特に、reception(サーブレシーブ)からの攻撃とfree ball(チャンスボール)からの攻撃、サーブのストレートコース打ちの3点を徹底して指導してくる。しかし、新潟は既に雪化粧で真っ白という。

 寒いだろうな、冷たかろうな、肩が凝るだろうな・・・しかし、お酒の熱燗は美味しいだろうな・・・。

 (画像は、東洋vs雄物川の対戦。実力は雄物川であったが、雄物川のあの高すぎるトスは何ゆえかその意図が判らない。3セット目、東洋のブロックはジャンプのタイミングを遅めにしてキルブロックに切り替えた。雄物川はどのような場合でもフェイントをやらない。正攻法といえばそれまでだが、ブロックの上からスパイクを打てる選手がいれば効果があると思うが、そのような選手は見当たらない。東洋はセッターの関田が相手のブロッカーを微妙に崩しながら速攻や時間差のセットアップをしている。東洋はこれでベスト16.明日はライバルの長崎県立大村工業との対戦だ) 

2012年1月5日木曜日

1/5(木) 2012年 春高バレー開幕



 3月20日開幕から1月5日開幕に移ってから今年で2年目であるが、まだリスムに乗れないのは、私だけであろうか?3月の春高バレーには、桜が咲き始めるイメージがあった。そして、いつも花粉症が付きまとっていた。時には大雪で地上の交通は全く機能せず、地下鉄の電車しか動かない年もあった。サリン事件と開会式が重なった年もあった。2000年の女子優勝の順心学園(現:広尾学園)には思い出がたくさんある。そんな多くの思い出のある春高バレーの会場にバレーボール関係業者として顔を出すのも今年で最後となった。会場の受付のところでは、勤務先名を記して入場した。

 受付で、静岡県男子の代表として何度も春高に出場された県立浜松湖東高校元監督の池田先生と出会って30分程その場で話し込んだ。池田先生は順天堂大学陸上部の出身である。バレーの監督に就任されて、隣県のトップチームに指導法を乞いながら強豪チームを作られた。池田先生との出会いは、かれこれ20年前になるであろうか、私が岐阜県立岐南工業高校男子バレー部の平田監督のところに訪問している時であった。池田先生は定年退職後、スリランカに渡りクラブチームを3年に渡り指導されて、昨年日本に戻ってこられた。現在は静岡産業大学男子バレーボール部監督に就任されている。現代学生気質で苦労されているお話を伺った。

 そこに、こちらも10数年ぶりであったが、岐阜県立岐阜女子商業高校、元監督の渡邉守夫先生と眼が合い、挨拶を交わした。20数年前であるが、お付き合い頂いた翌年に初めての全国代表決定の瞬間に立ち合わせていただいた。渡邉先生は、現在中部学院大学の特任教授、そして女子バレー部監督として就任したばかりという。

 そんなこんなで、ゲームを落ち着いて観るまでに、数十人の大会役員、諸監督と新年のご挨拶を交わした。この春高バレーこそ、国際大会を除いて、国内最大規模の大会である。会場には、小学生の指導者から、中学、高校、大学、Vリーグ、ママさん、ソフトバレーの指導者まで全国から集まっている。

 全国の色々な情報もここで交換される。元オリンピック選手も観戦に来る。きょうは、1967年世界選手権優勝、1968年メキシコオリンピック、1972年ミュンヘン銀メダリストの岩原豊子(当時ヤシカ)さんと役員席に一緒に並んで県立大和南と新潟県立新発田商業のゲームを観戦した。お話を初めて数分後、そこにミュンヘンでセッターの松村勝美(当時ユニチカ)さんが加わり、セッター論議となった。特にセッターの身長の話になり、全日本もセッターが高くならなければ、メダル獲得は難しいわね、との結論になった。お二人とも60歳をとうの昔に越えられているが(失礼!)、松村さんで173cm、岩原さんでも168cmあった。高校の試合を観戦していて「どこのチームも皆、ワンセッターね。ツーセッターのチームもあっていいわね。6年全員セッターっていうのもあっていいわね」などと仰っていた。岩原さんが現在マネージャーをされている貝塚ドリームスで育てた選手に今春高校に進学する白井美沙紀さんがいる。彼女は、神奈川県から全日本の選手になりたいという意思で貝塚ドリームに入った。昨年の全日本中学選手権大会でもエース・キャプテンとしてベスト4に入った。中学選抜の主将にも選出された逸材だ。

 身長は175cm、最高到達点は289cm。岩原さんは彼女にセッターとして全日本に入って欲しいと言っていた。実は、きょう会場で白井選手の父親である白井先生(松蔭大学女子バレー部監督)から呼び止められ、進学先を教えて頂いた。

 「東京か神奈川県の強豪チームに決めかねていたが、決めました。ついては、渡邉さん、本人の足形を見て最適のシューズを選んでくれませんか?」

 やはり親ですね。高校の練習は半端でないので、怪我が心配らしい。

 オリンピアンとそんな話をしているところに群馬県バレーボール協会役員ご一行が会場に着いた。懐かしい顔が見えた。関東バレーボール連盟(一都七県のバレー協会の集合体の呼称)で長年、審判委員長の要職を務められていた秋山先生であった。そして、田村恵弘さんのお顔もあった。田村さんは、東京三洋電気女子バレー部コーチ、東北パイオニア女子バレー部監督として活躍され、現在は豊富な指導体験を生かして、整体師として全国各地に出張治療に飛びまわっている。良い機会なので、田村さんに1ヶ月前から鈍痛のある私の黄金の右腕(失礼!)のことを相談した。鈍痛の原因はインピンジメント(使い過ぎ症候群)か、加齢による50肩なのか明確ではないのであるが、田村さんにお話すると、「ちょいと痛いが、びっくりするほど痛みがなくなるから。ちょいと手を出して」と治療を始めた。

 どうも指圧の一種らしい。「痛た、た、た・・・!」と思わず叫んだが、会場内の応援団の大歓声で私の悲鳴などかき消された。そして、あら不思議!肩をぐるぐるまわしてみても鈍痛はさほど感じない。料金は請求されなかったので、この時は、田村さんのお顔が仏様に見えた。

(画像は、仏様の田村さんのお写真であります。ありがたや・・・。正月のお参り時におみくじを引いたが「大吉」であった。1年の「大吉」の運もこれで全て使いきっちゃたかな?) 

1/3(火) My Volleyball Note



 6年前から、自分用のバレーボールテキストを作成している。始めは1ページからであったが、6年も経つと30ページほどになっている。見聞きしたことで参考になる練習法や出版物からの引用、新聞や雑誌などから出典を明らかにしてマイテキストに書き足したり、修正したり、削除したり、整理して自分なりのテキストを作成している。

 実家には、船橋の自宅の本棚に入りきれない本を木製の本棚4つに入れて蔵書としている。大した本はない。手塚治の漫画もあるし、司馬遼太郎の書籍やケンフォレットの小説、フランス語学習本など雑多に置いている。昭和50年代からのバレーボールの指導書も揃っている。どちらかというと、積んどくが多い。

 その中で、改めて手にとって新鮮な驚きを覚えた本があった。『中国バレーボール 理論と実践』(李安格 著、1990年ベースボールマガジン社)。748ページもある分厚い指導書である。価格は4,800円と結構高価である。1970年代はモントリオールオリンピック、世界選手権、ワールドカップの3冠を日本女子バレーが獲得した年代であった。次の1980年代は中国女子が名指導者の袁偉民の元、ロスオリンピックとワールドカップ2冠、世界選手権2冠の計5冠を獲得した。その直後に、この本は出版された。

 私はなぜこの本を購入したのであろうか?それは、監修者が杤掘申二先生(筑波大学名誉教授)だったからである。杤掘先生から「中国バレーのトレーニングの方針は『三従一大』」と聞いたことがあった。この本もその考え方で統一されている。そのときは、購入しただけで積んどくしていた。本の中には写真もなく、トレーニングの章で手書きらしい絵図があるだけで、やたら漢字の多い文章だけでページをめくっただけで、そのまま本棚に置かれていた。

 きょう、何気なく手にとって、今私が欲しているレセプションからの「カウンターアタック:反撃」の内容が事細かく書かれていたことに驚いた。カウンターアタックは、FIVB(国際バレーボール連盟)のテキストでは「トランジッション」と呼ばれている。レセプション(サーブレシーブ)からの攻撃、ディグ(スパイクレシーブ)からの攻撃、ブロックフォローからの攻撃に関しての考えと練習法がシンプルな図と共に1600通り載っている。

 積んどくも悪くない・・・。

(画像は、日本では珍しい中国バレー指導書の翻訳本。表紙、裏表紙とも中国とキューバの対戦の写真を採用している。この当時。両チームとも私が勤務している会社と契約していた。ウエア、シューズとも私も多少関わっていたので懐かしい。キューバの監督のウエルへさんとは言葉を交わしたことがあったが、中国の袁さんとはほとんどなかった。袁さんは監督引退の数年後には政治の世界に入り、日本語で言えばスポーツ大臣にまで昇進されて、中国のスポーツ界に多大な貢献をされた)

2012年1月4日水曜日

1/2(月) 平成24年の謹賀新年



 新年が明けました。本年も宜しくお願い致します。


 12月30日の夕方に新潟市の高校合宿から帰った私は、船橋市の自宅でより遅くまで大掃除。その後、パート帰りの家内と一緒に車で家内の実家のある千葉県旭市に向かった。1時間半かかって実家に着いたときは深夜の2時半を少し過ぎていた。そのまま、布団に入り寝入った。

 翌31日の朝は、実家の窓ガラス拭きで、2階から1階までピカピカに磨き上げた。昼からは、こたつに入って、これで1年の終わりとばかり大きな伸びをして、こたつの掛け布団に体半分まで入り込み少し寝入った。夜からは、恒例の「紅白」を観たが、選ばれた歌手の選考基準が良く分からないまま歌を聞き流した。除夜の鐘の音を聞きながら、居間で年越し蕎麦を家族6人で食べた。娘二人は、好みの歌手の主演しているTVを観る!という無言の視線を私に送ってきたので、私はそそくさと居間を立ち去り、2階の寝室に行った。

 60回目の正月を迎えた。年男だ。十二支の中で、辰つまり竜というのは唯一想像上の生き物である。西洋には竜に似たドラゴンという想像上の生き物がいる。「飛竜(ひりゅう)雲に乗る」という言葉がある。意味は、英雄がその才能を発揮する時を得る、というのであるが、飛竜にあやかって雲に乗りたいものだ。努力を怠れば、海中でユラユラと漂う「竜の落とし子」状態になろであろう。

 2日の本日午前中は、実家から歩いて2キロのところにあるJR旭駅まで歩いて、駅近くの新聞販売所で新聞3紙を購入して、駅前のモスバーガー店に入る。ここ10年、正月3が日恒例の行動である。この店で朝食のハンバーガーセットを頂き、3紙を読み比べる。2時間ほど店内にいて、昼ごろお客さんが多くなる前に店を出て実家にまた歩いて戻る。

(画像は、実家からJR朝日駅に行く途中横切って歩いて行く冬の田んぼの農道。車も少ないので、考え事をしながら、ボーっとして歩いている)