会場である東京都体育館の役員受付を過ぎ、体育館内に入った。最初に出会ったのは、斎藤勝(まさる)先生。東海大学特任教授で前体育学部長、前バレーボール部部長、前男子バレーボール部監督、元全日本男子バレー監督を歴任された。 昨日、ミュンヘンオリンピック金メダリスト監督の松平康隆氏の逝去のお知らせが日本バレーボール協会からあった。実際にお亡くなりになったのは、12月31日であったが、メディアに知らされたのは、昨日5日の春高バレーの開幕日であった。春高バレー創設には松平氏が中心になって奔走して実現した大会であった。世間に対しての訃報は開幕に合わせたのであろう。松平氏のことだから、死期を悟って、その日まで伏せるように遺言したのであろう。開幕の前に湿っぽくなってはいけないと氏の最期の配慮であったのかもしれない。
さて、斎藤勝先生であるが、ミュンヘン金メダル獲得にはこの先生なしには語ることができない。当時(1972年)の全日本男子の平均身長は191cm。これは、ミュンヘン出場チームの高い順3番目である。当時の日本人男性の平均身長は166cmぐらいであろうか。高校のバレー部でも県大会に行って180cm以上の選手は大きいな、という時代である。それが、191cmである。選手の中には、まだ実績がない選手も数名いた。それらのただ大きい選手たちに170cm台の俊敏な動きを身につけさせてくれ、と松平監督から指示されたのが、トレーナーの斎藤勝先生である。
俊敏性、動きの柔軟性、リズム感、タイミング、筋トレにもなるトレーニングということで、斎藤先生が編み出したのが「斎藤式トレーニング」。バレーボールに紐をつけ、安全マットの上でそれを回転させて、選手が跳び越える。半年後にはバック宙もできるようになった。そのアクロバック的なトレーニングは、ミュンヘンで金メダルを獲る前から世界のバレー界のみならずスポーツ界に衝撃を与えた。
「斎藤先生、このトレーニングで一番手がかかった選手は誰だったのですか?」
「南だね。当時33歳の最年長だったから、逆立ち歩きやバック宙はできるまでに時間がかかったね。先日ね、その時のトレーニング風景のビデオをDVDにダビング編集して東海大学の現役の学生に見せたんだ。ベテランが必死になって単調なダッシュなどを繰り返しやっている姿は若い人たちに感銘を与えたようだね」
「先生、それ、私にも下さい。講習会で活用させていただきます」
斎藤先生には、春高バレーの会場では、いつも側に座らせて頂いてゲームの解説をお願いしている。特に、先生の教え子である東海大学卒業生が監督しているチームのゲームになると、その監督の大学生時代のマル秘事項も飛び出して奥深い?解説になる。
午後のゲームになって、東京第一代表の東洋は秋田県の雄物川に2-1で勝利。最終試合の8ゲーム目の大和南と第3シードの鹿児島女子とのゲームは青森インターハイフルセットの再戦で激戦となると思いきや、あっけなく大和南が2-0で勝利した。鹿児島女子は攻撃力が乏しく、ミスも多く、ちょっと拍子抜けした。試合後、大和南の前監督である飯塚先生、和美コーチ、学校の教員数名と一緒に宿舎のホテルのある両国まで行き、近くのちゃんこ料理店に入り夕食を頂いた。
明日から3日間は新潟市に行く。新潟中央高校に隣県から数チームが集まり練習試合合宿を行う。今回の私の役割は、「戦術」を指導することである。特に、reception(サーブレシーブ)からの攻撃とfree ball(チャンスボール)からの攻撃、サーブのストレートコース打ちの3点を徹底して指導してくる。しかし、新潟は既に雪化粧で真っ白という。
寒いだろうな、冷たかろうな、肩が凝るだろうな・・・しかし、お酒の熱燗は美味しいだろうな・・・。
(画像は、東洋vs雄物川の対戦。実力は雄物川であったが、雄物川のあの高すぎるトスは何ゆえかその意図が判らない。3セット目、東洋のブロックはジャンプのタイミングを遅めにしてキルブロックに切り替えた。雄物川はどのような場合でもフェイントをやらない。正攻法といえばそれまでだが、ブロックの上からスパイクを打てる選手がいれば効果があると思うが、そのような選手は見当たらない。東洋はセッターの関田が相手のブロッカーを微妙に崩しながら速攻や時間差のセットアップをしている。東洋はこれでベスト16.明日はライバルの長崎県立大村工業との対戦だ)
1 件のコメント:
こんにちは。
昨日まで正月早々入院していて会場行けませんでした…
今日行ってきます♪
新潟寒いので風邪に気をつけてください。。
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