2012年1月29日日曜日

1/28(土) 船橋市バレー協会創立 50周年




 記念式典と祝賀会が夕方から開催され、私も出席した。会場は、西船橋駅から歩いて2分のところにある普段は結婚式場などで使われているところだ。西船橋駅近くに住む私にとっても好都合であった。10年前の40周年では、市協会の指導普及部員として活動していた私も表彰された。今回は勤務先のスポンサー活動に対して感謝状を社を代表して頂いた。出席者は300名ほどであったか、中学校の関係者が一番多く、次いでママさん、ソフトの順であった。

 私のバレー協会や連盟関係の役員のスタートは、ここ船橋市協会がスタートであった。40歳になった時に、当時の副会長であった雨宮先生(大穴中学校女子バレー部監督で県ベスト4常連)に夜の部のソフトバレーの指導を依頼されたのがきっかけであった。船橋市ソフト部の役員、千葉県ソフトバレー連盟の指導普及委員長、千葉県バレーボール協会の指導普及委員長、そして日本ソフトバレーボール連盟の審判規則委員長、日本バレー協会の審判規則部員と携わってきた。

 壇上での表彰式を見ながら、そんな20年前のことを思い出していた。そろそろ、次の世代へのバトンタッチの時期である。

 『権腐10年』という言葉がある。10年も同じポジションにいると、利権によってその人間は腐ってくる、という意味である。私には、今の役職にいても利権などは皆無であるが、大きな組織のトップに君臨するような人には、当てはまる言葉かもしれない。いずれにしろ、私は、今のポジションをあと1,2年で交代するために次の人材の育成に入っている。活性化していかなければ組織は発展していかない。発想を変えていかなければいけない。発想が変わらなければ、人そのものを代えていかなければならない。


(画像は、来賓挨拶での県協会名誉会長の新堀先生。私が初めて県協会の指導普及委員会メンバーに入った時に、当時会長であった新堀先生(千葉大名誉教授)は役員会の後、二人きりでの赤提灯での飲み屋にしばしば誘って頂いた。先生の口癖は「俺は日本選手団の団長を何回もやったが、全部が共産圏なんだよな・・・先進国なんか行ったことはない」。「先生・・・それは、失礼ですが、先生の頑強なお体は共産圏向けと日本協会がお考えになったからではないですか」。「渡邉君、君もそう思うかね・・・確かに、俺は何を食べても、選手は下痢しても俺だけピンピンしていたものな・・・ガハハハ」。3年前に、私は先生の母校の大学の大学院を修了して、先生の後輩となった。先生は、そのことを自分のことのように喜んでくれた。もうすぐ80歳になろうとしているが、60周年もピンピンお元気でいることであろう)

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