2011年12月30日金曜日

12/30(金) 新潟県立高校女子バレー部合宿 第3日目





 朝食は、市内のファミレスで頂いた。車を降りて、ファミレスの玄関に向かう途中、昨夜降った雪が4cmほど積もっっている。足で踏むと「ギュッ、ギュッ」と音がする。この音が雪質の良い証拠なんだそうである。 コンビニで、朝刊を買った。合宿で体育館の中にいると、TVを見る機会がない。曜日の感覚がない。学校に戻り、体育教官室で私が日本経済新聞を広げると、監督が不思議そうに「渡邉さん、日本経済新聞なんか読んでいるんですか?」と聞いてきた。

 「サラリーマンは日本経済新聞を読むのが普通だと思うがね。先生方は読まないの?」。

「私どもは、新潟日報です!」と答になっていないような答が自信げに返ってきた。

 練習は午前中で終えて、体育館の清掃を行った。新年の練習初めは2日からだ。7日から9日まで、また校内合宿を行うという。この時は、練習試合を行う。相手チームは、宮城県、山形県、長野県、群馬県の全国出場経験チームばかりだ。春高バレーを5日、6日と顔を出し、7日から9日まで、またこのチームに来よう。やるからには徹底しないといけない。

(画像は、練習手伝いで3日間来てくれた近くの大学の男子学生2名、卒業生で東京の大学に通っている女子学生1名、父母会役員2名と一緒の記念写真)

12/29(木) 新潟県立高校女子バレー部合宿に参加 第2日目

午前中は、ボールコントロール練習と元気を出す練習を行った。このチームの選手は、小学生バレー、中学バレーで全国に出場している選手も大勢いる。しかし、覇気がない。声が小さい。元気がない。一番元気なのは、監督だ。そこで、ひらめいたのが、相撲をやらせること。格闘技は闘争心を生む。バスケットのサークルを土俵に見立て、行った。元気な声を出す練習も行った。
 「元気な声が出る人3人前に出てきなさい」。私が命じると、恐る恐るリベロの子が同級生2人を引っ張って出てきた。
 「動作の前に声を出すこと。声を出さずに動作だけだとコートの中で体が接触して怪我をするよ」。私が声の重要性を説明して、彼女達3人に見本を示してもらった。なかなか良かった。
 「いいねえ。その調子だ。明るく、元気に、美しく。これが女子バレーだ」。美しくというスローガンが高校生に響いたのか、その後は見違えるほど声が出てきた。しかし、1時間ほどすると、また元の黙阿弥でおとなしくなってしまう。
 よし、次はこの手だ。
 「サーブやレセプションをする直前に両足を左右の順で5回足踏みすることを命じた。これは、リズムを作るためである。体が動けば、心が動く。心の動きを声に出すことでリズムができる。
 更には、倒立をやらせた。ブリッジもやった。ブリッジ歩行もやった。そして、また技術練習に入って行った。
 監督は、その間、教官室で子供たちのために豚汁を作っていた。
「子供達がお腹をこわさなきゃいいんだがね」。私が冗談を言った。
「任せておいてください。時々作るんです。こう見えても料理は苦にならないんですよ」
 夕方5時に練習を終えて、子供たちに、監督の豚汁どうだった?と聞いてみた。
「美味しかったです」。
それを聞いた監督は、にこっとして「渡邉さん、そうでしょう?ね!ね!・・・しかし・・・」。
「しかし、どうしたの?」 。
「どうも、私だけお腹の調子が悪いんです!」と言って、小走りで男子トイレの方向に向って行ってしまった。
 夜になって、2人で新潟市内の焼鳥屋さんに食事に出かけた。食後、学校に戻り、敷地内にある合宿所に戻った。雪が降り始めた。夏場であれば、50人は宿泊できる畳敷きの大広間が3つある。風呂にお湯を入れて、2人で入った。湯船は8人は入れるほどの大きさだ。2人一緒に湯船に入ってみると、ぬるい。お湯を継ぎ足すが、なかなか温まらない。外は零下だ。なんか、二人の体温で湯を温めているようだ。監督が私の方に近づいてくる。監督と私しかいない、暗いがらんとした合宿所で、2人で肌が触れ合いそうにして湯気の立たない風呂場にいる。なんか江戸時代の水責めにあっているような錯覚がした。
 新潟県で生活することは大変だ。ラーメンがいくら美味しくとも、日本酒の熱燗がいくら美味しくとも、寒いのは嫌だ!部屋にガスストーブがあったのは救いであった。布団も温かかった。監督のいびきの方が、私の寝言よりも一瞬早く始まり、私も直ぐに深い眠りに落ちた。外は、まだ雪が降っていた。

12/28(水) 新潟県立高校女子バレー部合宿に参加



 2月以来、高校生の指導は講習会以外のところではやっていなかった。それ以前は、神奈川県と山梨県のチームの外部指導で月に数日は、アドバイザーをやっていたのだが、チームの監督さんが代わったことを契機にして、私もそれらのチームを離れた。

 新潟市内にある県立新潟中央高校の監督である桂山先生からは年に1度は指導の依頼があり、2泊3日で夏休みに伺っていた。今年は、この寒い時期に依頼があった。監督によると、来年の北信越インターハイには子供たちを出場させたい。何としても、行かせたい、ということであった。

 チームは2年生主体で、県大会ベスト4にはこの数年間、定着している。今夏のインターハイ予選では準優勝もしている。私がお手伝いできるのは、戦術面くらいだが、3月で会社の方も定年退職を迎えるので、時間的余裕も多少できる。来年1年間は桂山先生のお手伝いをさせていただこうかな、まずは現地に行ってから決めてもいいか、と考えながら朝9:14東京駅発の上越新幹線に乗った。

 この時間の新幹線はノンストップで新潟駅までいくことを初めて知った。なんと1時間40分で着いてしまった。監督が迎えに来ていて、まずは指導する条件の一つである美味しいラーメン屋さんに連れて行っていただいた。新潟市内で一番、お客さんの多いという、つけ麺屋さんで大盛りのつけ麺と大きな塊のチャーシュー入りのミニライスをご馳走になった。私は、全部食べることはできなかったが、大食漢の監督はペロリと平らげ、それでもまだ足りないような顔している。

 学校に着いて、子供達と1年半ぶりに再会した。早速、ミニゲームをやってチームの実情を観察した。セッターとスパイカーは全国区のチームと比べても遜色はない。しかし、レセプション(サーブレシーブ)とサーブが甘い。サーブはスピードはあるものの、ただ単に相手コートに入れているだけ。レセプションは、レシーバーが均等に守備範囲を分けているだけ。そこで、まずやったのがサーブのコントロール練習。そして、レシーブフォーメーションは、リベロのレシーブ範囲を広くして、リベロとサイドのエースアタッカーの3人で取るように修正した。更に、本日からAパス(セッターがAクイックを上げれるレシーブ)の各人の返球率(%)をデータにとって、折れ線グラフ化することを指示した。まずは、この3カ月、チーム全体で70%以上を目標とした。インターハイの予選会は6月にある。その時には、80%以上を目標とした。また、体力測定を1月の新人戦以降に実施し、北信越ブロック選抜合宿参加者の平均値を上回ることを6月までの目標とした。
(画像は、新潟市内人気No.1というお店のつけ麺大盛り。食事を終えたのが11:45。レジに行くと、入口付近で既にお客さんが10数名順番待ちをしていた)


2011年12月28日水曜日

12/27(火) NHK「坂の上の雲」終了





 司馬遼太郎の原作『坂の上の雲』は映像化することはできないと言われていた。日露戦争における日本海海戦などは洋上での艦隊同士の戦いである。映像化にすることは映画『タイタニックの最後』の比ではない。しかし、最近のCG(コンピューター・グラフィック)の技術はその壁をいとも軽やかに乗り越えた。2007年に制作を開始して、ロシア、中国、アメリカなどロケを行い、演技力のある俳優を配し、2009年から2011年にかけて放映された。昨日、最終回が放映された。

 「まことに小さな国が、開花期をむかえようとしている」のナレーションで始まる物語は、司馬遼太郎の司馬史観というべき歴史観が溢れている。日露戦争を日本側からだけでなくロシア側からも膨大な資料や現地視察で極めて客観的に見つめながら、生き生きと人間群像を描いている。人間を軸にして歴史を描いている。

 司馬さんの作品には、他にも『竜馬が行く』という作品もある。この作品で坂本竜馬が四国だけでなく全国的にその名が知られるようになった。『坂の上の雲』では、秋山好古、真之兄弟の名が全国版となった。正岡子規と真之の関係も知られるようになった。司馬さんは人物掘り起こしの名人だ。

(画像は、本棚にあった文庫版。TV放映が決まった2007年に購入して、読みはじめたようだ。そして、この本で随分と漢字を覚えたことも思い出した。歳の暮れ、ここのところ本棚から溢れた書籍を処分しているが、司馬さんの作品は捨てられない)

2011年12月26日月曜日

12/26(月) 東京都民ソフトバレー交流大会 募集




第4回mizuno東京都民ソフトバレーボール交流大会は、来年2月11日(祝)に東京都体育館サブアリーナで開催される。きょうは、2回目の打ち合わせで、都体育館事務室に伺った。先月から募集を開始したのであるが、実に募集チーム数が定数の30チームに到達しそうな勢いだと主催者の東京都スポーツ文化事業団から発表があった。そして、まだ申し込みがありそうだということで、急遽数チーム増加することにした。個人参加もOKにしているので、まだまだ申し込みが来そうだ。
 担当の課長さんには、次回はお約束通り、サブコートが満杯になったら、メインコートでやりましょうね、と再三念を押して帰ってきた。メインでやるとなると24コート取れるそうなので120チームが一堂に会してゲームができる。夢は大きい方が良いが、これは実現可能の域になってきた。
 都民ソフトバレー愛好者の夢は、都立で一番大きい東京都体育館のメインコートでゲームをやることだ。何とか2年以内に実現させよう。
 自宅に戻って、新聞の切り抜きの古いもの、古い資料、古新聞など処理した。新聞屋さんから頂く古新聞入れが5個口にもなった。明日は衣類も捨てよう。本当に必要なものだけ手元に置いて思い切って捨てよう。
 明日は、仕事納め。明後日からの2泊3日は、新潟県立新潟中央高等学校女子バレー部の合宿に参加してくる。ここのところ力をつけているチームであるが、今年の県大会新人戦で、初めて準優勝している。戦術面とメンタル面を強化して欲しいと監督からの要請だ。しかし、寒いだろうな、新潟市は・・・。

(画像は、募集用のチラシ。今年は例年よりも広報に力を入れた。チラシも紙質を落とした分、数量を増やして、考えられる色々なところで配布した。努力すれば、努力した分だけ効果は出るものだ)

2011年12月25日日曜日

12/25(日) 柏市ソフトバレー 招待試合に参加












 40歳代は、渋谷区バレーボール協会の理事長を務めていた遠藤さんと一緒に関東地域の招待試合に毎月のように出向いていた。メンバーは渋谷区協会ソフトバレーの部メンバーで40歳と50歳が中心的なメンバーであった。試合に出れば、いつも決勝戦まで行った。あの当時は、ソフトバレーの本当の意義など分かっていなかった。ただ、試合に出て、お酒を飲んで楽しんでいた。



 60歳を来年に控えて、私も経験を積んできたのであろう。40歳代のときのように勝ち負けにはこだわらくなった。まずは、メンバー全員を公平に出す。ゲーム中はメンバーがミスをしても叱責しない。怪我をしないように無理しない。つまり、100%全力でプレーしない。相手チームにリスペクト(尊敬、感謝)の気持を持ってプレーする。そんな気持ちを持って、それから負けないように努力する。



 きょうは、我がソフトバレークラブの大穴クラブの男女40歳~68歳を引き連れて千葉県柏市の招待試合に行ってきた。私の住んでいる船橋市から車で1時間のところにある。コート8面に4チームずつ入り、各チームが等しく5試合できる仕組みの交流大会であった。我がチームは8名で行き、セット毎に交代したので結構余裕があり、楽しく楽にゲームができた。



(画像は、閉会式でのクリスマス・プレゼント授与の模様。我がチームには手袋とホッカイロが当たった。役員もサンタの格好をしたり盛り上げてくれた。お世話になりました)

12/24(土) クリスマスイブ



 バレーの教え子の花屋さんから携帯メールでリースの画像が送られてきた。本人の手作りだという。リース(wreath)とは、木や花などで作られる装飾用の輪で、ドアや壁に飾られる装飾物である。クリスマス・リースやハロウイン・リースがある。

 今夜は家内と長女が実家に泊まりにいっている。次女が、都心に遊びに行くとかで、夜遅く戻ってくるだけで、今夜も静かな夜を迎えている。そんなことを知ってか知らずか、知り合いの花屋さんがリースの画像を送ってくれた。ケーキは食べなかったが、手作りのぬくもりのあるリースを眺めて気持ちが温かくなった。ありがとう。

12/23(金) JVA審判規則委員会 編集委員会

午前11:00から千駄ヶ谷にある日本バレーボール協会(JVA)事務局にて、来年度のルールブック編集会議のために出席した。2人制のビーチバレーから、4人制のソフトバレー、9人制そして6人制と第2稿を6人の委員と主事、新委員長の8名がチェックした。
 今回は、6人制の体裁をより原文に忠実にするために時間がかかった。終了したのは17:00を少し回っていた。「新宿で一杯いこうか」という委員長のお誘いを断り、家路に急いだ。昨夜、少し飲みすぎたせいで、今夜も飲もうという気にはなれなかった。年齢相応に、体を労わろうという思いもあった。

2011年12月24日土曜日

12/22(木) セレブのママさんバレーチームの忘年会とは?

月1回は千代田区のセレブママさん達の千代田クラブさんへお邪魔している。午前中の練習には参加できなかったが、午後からの忘年会には参加できた。会場は、体育館の近くのお寿司が中心の居酒屋さんであった。さすがに、昼過ぎの居酒屋さんとあって、まだお客は入っておらず、我々17名だけで、ほぼ広い店内は貸し切り切り状態であった。
 私のような中高年には、揚げ物よりもお刺身のある方がお酒のおつまみによろしい。ビールで乾杯に続き、お酒を飲み始めた。いつの間にか、席も移動していた。乾杯の時は、30歳代のママさん達に取り囲まれていたが、日本酒に切り替えてからは、周囲の年代が上昇して、とうとう60歳代のテーブルに行きついたらしい。
 二次会ということで、中堅の年代だけで、メンバーの1人が経営している御茶ノ水のイタリアンレストランまで歩いて行った。一次会が神田駅の近くで、二次会が本屋の三省堂本店の近く。歩いて15分ぐらい。イタリアンのレストランだから、ワインが出てきた。それも、そこそこ美味しいワインが出てきた。日本酒とワインの2種混合は、実は悪酔いする最悪のパターンであるということをこの時すっかり忘れていた。気がつくと、3次会でカラオケ屋さんにいた。次に気がつくと、同じ方向に帰るというメンバーの一人と電車の中にいた。更に気がつくと、セブンイレブンでおでんを買っていた。どうも記憶がとぎれとぎれで定かでない。
 自宅には、誰もいなかった。皆、実家に帰って行った後であった。テーブルの上には、熱海に嫁いだ歳の離れた従姉のご主人が78歳で亡くなったとの葉書が置いてあった。焼酎をお湯で割り、おでんを温め直して口に入れた。おでんは甘く美味しかった。なぜか涙が出てきた。

12/21(水) 実家で介護



誰でも来る道、誰でも行く道。歳を取れば、体にもガタがくる。病気にもなりやすい。
 家内の両親は80歳を過ぎ、私達の住んでいる船橋市から車で2時間のところにある旭市の実家に2人だけで暮らしている。しかし、2人だけで暮らしていくことは難しくなってきた。父親が先に体調を崩して、病院に週3日透析に行くことになった。家族が交代で足腰の弱った父親を病院に連れて行くことになった。
 月2回の水曜日が私の当番。旭市中央病院の透析室に初めて入った。結構患者さんが多い。ここで約4時間透析を行う。動脈と静脈に太い針を差し込むとき、義父は痛そうに顔をしかめた。週3日、病院に来るのも楽しいものではないが、何も親孝行らしいことができなかった私にとって、孫たちの結婚式に出席して頂き、できるだけ長生きして頂きたいと願っている。

(画像は、東京都ソフト連盟の秦さんから毎年贈って頂くシンビジウムという名の蘭の花。3年前までシンビジウムという字が良く分からなくて、「神秘ジウム」と私は思っていた。それほど、この花は神秘的だ。この鉢を義父の実家の玄関に置かせていただいて、家族の眼を楽しませている)

12/19(月) 東京都ソフトバレーボール連盟 理事会

久しぶりに理事会に出席した。理事会の後に、忘年会ということになって、13人ぐらいで理事会の会場である国立青少年スポーツセンター内のレストランで歓談した。レストランからは新宿の高層ビルの窓明かりが都会の夜景を作っていた。少し離れた所には東京タワーがオレンジ色にライトアップされてまだスカイツリーには負けられぬ、と言いたそうに立っていた。

12/18(日) 島嶼ソフトバレー 来年の開催地は?




本日の、本来の予定は、今年で9年目になる島嶼を巡ってのソフトバレーボール交流大会(神津島)への参加であった。昨日の日本ソフトバレー連盟の会議が1ヶ月前に入ってきた関係で、神津島での方はキャンセルを余儀なくされた。交流大会を終えて、鯛や平目のおさしみと島の焼酎で歓談している姿が思い起こされて、ちょっと悔しい。
 来年度の開催は、小笠原諸島の父島ということである。世界遺産の登録に決まった小笠原には、私も過去2回訪れている。全て、ソフトバレーがらみである。25時間かけて船で行く。今のように時間に追われて生活している我々には、ゆったりと時間に任せて過ごすことも必要なのかもしれない。満天の星空と四方の海を眺め、内地にはない珍しい植物、花、鳥を愛ずるのは好きな人にはたまらないでしょうね。おっと、海にはクジラもイルカも、ウミガメもいる。村長さん達にも再会できる。
 開催期日が決まり次第、ここのブログの皆さんにもお知らせします。50人ぐらいで行きたいですね。

(画像は、今年になって、初めて咲いた我が家のアロエの花。初めて見るアロエの花なのでどんな花なのかなと思っていたら、結構手の込んだ咲き方をしている。毎日、ほんの少しずつの成長を大事にしていきたい。後方にある観葉植物が、2年前に小笠原に行ったとき、役所の課長のセイボーさんという小笠原島を発見した子孫の方の庭にあったものから小分けして頂いたもの。2年前の6倍も大きく成長した。追記:後方の観葉植物は、サンスベリア・ローレンチというそうだ。舌をかみそうな名前だ。知り合いの花屋さんが教えてくれた)



12/17(土) 日本ソフトバレーボール連盟 会議

日本のソフトバレーボールの人口は推定で30万人~40万人いる(笹川財団調査)。日本バレー協会に登録しているソフトバレー人口は約2万人。登録制度が始まる4年前は、4万人であった。JVAの登録の方法がITなので、中・高齢者にとっては機器の操作が厄介ということも登録人口の減少の要因のひとつであろう。そんな中でも、JVA登録制度が始まっても、依然と変わらない登録人口のある県連盟のやり方を見ると、以前のように紙でチームごと申請して頂き、登録の作業は個人情報保護の関係があるので、各人の許可を得て、県連盟の役員が代理でパソコン処理をしているということである。
 さて、そのようなJVA登録制度のことや、来年度から開催されないスポレク祭に代わる全国大会の創設を含めての全国大会の見直し、日本協会との関係性、今後の日本連盟の在り方を全国9ブロックの長と委員長があつまり合同会議を開いた。
 合同会議の後、品川駅近くで競技委員会を開催するということで、私もオブザーバーで加わり、その後の懇親会までお付き合いした。委員は各県の理事長さん、会長さんの要職に就いている方たちばかりで、熊本、岩手、愛知、山口から出席している。お国言葉も入り混じり、楽しいひと時を過ごした。

2011年12月22日木曜日

12/16(金) 三郷ママさんにて忘年会



 モントリオール金メダリスト主将である神白(かじろ:旧性;飯田)さんが代表を務める「三郷ママさん」に伺った。月一の訪問であるが、今日は忘年会も兼ねている。午前中に基本練習を行った。このチームは、ママさんらしくなく(失礼!)、ウオーム・アップ(準備運動)をしっかりとやる。この時間だけは(失礼!)、皆さん高校生に戻ったようにキビキビと動く。何しろ、体育館をのそのそ歩いている人はいない。30歳代から69歳までが、全員小走りで次の準備に取り掛かる。

 きょうは、ちょいと瞬発力養成のトレーニングを指導した。うつ伏せになったり、仰向けになったり、その場でジャンプしてから素早く2,3メートルダッシュする単純な種目であったが、皆さん肩で息をしていた。皆さん、前方への移動は素早いが、後方への移動がちょいと不得意のようだ。バレーボールで意外になされていないのが、後方へのステップ練習。ブロック後にスパイクするためには、後方に素早く下がって助走距離を取ることが必要である。サーブレシーブからのスパイクは結構決定力があるが、ラリー中のスパイク決定率が低いというチームは、この下がりが遅いと言える。従って、スパイク練習も、ネットに向かって助走してのスパイク練習の次には、ネットから下がってまたスパイクを打つという練習が必要である。更には、ネットに向かって助走してスパイク、次にブロック、更にネットから下がって助走距離を十分確保して助走を生かしたスパイクを打つという複合・連続練習が必要である。この場合の、ネットから素早く離れるバックステップ各種を正しく覚える必要がある。

 コーチングは、巧く行かない原因を把握して、その対策のためのトレーニングを効果的に行うことである。また巧く行った場合、その理由を把握して理論化しておくことである。巧く行った場合に、その場で評価する(褒める)ことも大事なことである。日本の指導者は、どうも褒めることが下手なようである。おだてる必要はないが、例えまぐれでも、褒める必要はある。まぐれも3回に1回の確率で成功すれば、「できかかっている」ということだ。できかかっているということは、更に継続することで「できる」ようになる。

 昼過ぎに忘年会を行った。三郷駅近くの赤ちょうちんでやるのかと思いきや、隣町の料亭でやるとのこと。その料亭からわざわざバスが体育館まで出迎えに来ていた。総勢で30名が料亭の懐石料理を味わった。そして時間が経つにつれて、ママさん達の怪しげな踊りが始まった。文字には表せない踊りとだけ申し上げておきたい。

(画像は、神白さんからその時に頂いた記念品。10年前から静物画に取り組んでいて、作品は玄人の出来栄えである)

2011年12月17日土曜日

12/15(木) FIFA Club World CupをTVで観戦して

この大会の以前の大会名は、TOYOTA Cupであったと記憶している。クラブチームの世界一決定戦をトヨタがスポンサーで日本で毎年開催してきた。日本で世界の一流プレーヤーを目の当たりにできるということで日本人は幸せ者である。トヨタさんに感謝である。
 今夜は欧州チャンピオンのバルセロナとアジアチャンピオンのアルサッドとの決勝進出をかけた一戦である。バルセロナといえば、メッシというスーパープレーヤーである。2年連続のFIFA最優秀選手賞を昨年まで2年連続受賞している。今年3年連続受賞すると、皇帝と言われたベッケンバウワー選手と並ぶ。確かに、この選手のドリブルは凄い。何が凄いかというと、ボールがまるで足に吸い付いているようで自在にボールを操っている。視野も広い。シュート力だけでなく、アシスト(バレーで言うとセッターのトス)も巧い。相手陣地にドリブルで突進しながら、相手の選手を数名かわして、僅かに開いたスペース(空間)にボールを入れる。バレーで言うと、クイックで囮に入って、相手のブロッカーを2枚引き付けて、他の選手に移動時間差でブロックの間を打たせるようなものだ。メッシは、アタッカーとセッターの両方の役目を一人でやっている感じだ。剣術ならば、自分の肉を切らして相手の骨を砕くという戦術か・・・。いやいや、メッシの場合は肉を切らせるようなリスクを犯さずとも相手を一刀のもと切りすてることができる。彼には、リスクと感じていないのであろう。どうやって、次は点数を取ろうか、楽しんでいる節さえある。
 バレーでは、ボールが手に吸い付いて止まってしまったら「ホールディング」という反則になる。1982年の世界選手権男子バレー大会(アルゼンチン)出場の全日本男子チームのセッターは天才と言われた古川靖志(181cm)であった。その時、私も大会視察で会社から派遣された。古川選手のトスさばきは、サッカーのメッシのようにボールが指に吸い付いていた。反則ギリギリのタイミングでボールをつかんでいた。時には、主審に対して「あなたのハンドリング基準はどれくらい?」とゲーム開始時に試しているかのように見えた。「なるほど、ここまでは反則ではないのですね。では、この基準でこれ以降のこのゲームはセットアップしますからね」と、まるで主審にハンドリングの基準を選手の方がしているようであった。古川選手のこのようなセットアップのボールを速攻で打てるセンタープレーヤーは、当時、三橋栄三郎選手だけであった。同じセンタープレーヤーの鳥羽選手は古川のトス(手の中に溜めるようにしてパッと離す)を打てなかったので最終12名に入れなかった。
 実は、古川選手のボールさばきは 、メッシのボールさばきと同じで、身体上でボールは止まっていない。メッシは1秒間に3つのアクションを行っているので、足に吸い付いて見えるだけである。古川選手も1秒間に3つ、いや4つのアクションを行っていた。ジャンプして、ネット上高いところで、ボールに触れるようなアクションをしながら、空中でボールに触れたり、触れずにボールと一緒に落下しながらトスを上げていた。古川選手のトスさばきに、相手ブロッカーは翻弄されるどころか、味方まで翻弄された。
 その古川さんは、3年前から、仙台の尚絅大学女子バレー部、そして今年からは仙台ベルフィーユというV1のチームでコーチを始めた。天才選手が名指導者になれるかどうか。チャレンジは始まっている。

2011年12月15日木曜日

12/14(水) 天皇杯・皇后杯バレーボール大会の会場へ



2007年度からできた新しい全日本大会が、タイトルの天皇杯・皇后杯バレーボール大会。中学チームから予選会に出場できる。実際には中学チームでも女子のトップレベルのチームが稀に県予選会に出場してくるが、ネットの高さも一般と同じ、ボールも一般と同じ5号球のサイズなので県代表になったチームは未だない。
 高校女子は、大学チームやV1チームを破って出てくるのも珍しくもない。今回も下北沢成徳学園は筑波大学を破って関東ブロックから出場している。宮城県の古川学園(旧:古川商業)、山口県の 誠英(旧:三田尻女子)、北海道の札幌大谷も大学チームや実業団を破って出場してきた。
 会場に着くと、丁度、日本体育大学とJA岐阜が対戦していた。日体大のメンバーは、8月のFIVBコーチコースにてモデルになって頂いた関係で良く知っていた。本部席には5月に新たに強化委員長に就任した森田淳悟先生(日体大教授:男女バレー部長)がいらしたので隣に座って解説を聞きながら観戦した。JA岐阜のチームも平均年齢22歳と若いチームだ。来年の国民体育大会の開催を控え強化している。中心選手は関東の大学で活躍したメンバーが多い。日体大は、つい3日前に全日本インカレで準優勝を達成したばかりで疲労が残っているようで体の動きが緩慢だ。セットカウント3-1で勝利したものの、明日のVプレミアのJTとの試合は、きつい試合になりそう。セット終了間際では、2枚替えで、大和南でキャプテンであった丸山沙希が出てくる。2年生になった沙希ちゃんもレシーブが良くなってきた。隣で観戦していた、森田先生も「あの子は、Vで十分活躍できる」と太鼓判を押していた。
 同じコートの第2試合は、女子の東海大と札幌大谷高校との試合。森田先生が昼食に席を立った後に成田明彦先生が入れ替わって本部席に見えた。今度は2年前まで東海大女子バレー部を率いてきたご本人の解説付きでゲームを観戦した。3日前の全日本インカレでは13年振り6度目の優勝を成し遂げたばかりだ。コート上には大和南出身で4年生の河野がライトでプレーしていた。スタメンの古川出身のプレーヤーが怪我の為、交代で入ったようだ。成田先生は「河野は良い。本格的なパワーと高さのある選手(173cm)で、Vで活躍できる」と評価していた。東海大学の現4年生達は、成田先生が本格的に自分でスカウトに動いて、大学に入学して来た子たちだ。1年生からスタメンに抜擢し、経験を積ませてきた結果が、先週の全日本インカレ優勝につながったと思う。試合の方は、大谷高校先輩(ミドルブロッカーの養畑:175cm)のいる東海大学が、お姉さんの貫録を見せて3-0で勝利した。

(画像は、東海大女子vs札幌大谷高校。本部席から携帯電話のカメラで撮ったものだが、この日本部席には役員の姿が少なかった。今日が高校生や大学生の出番なのだから、会長はじめ上位役員が温かい声援を送ってあげて欲しかった。)

12/13(火) ソフトバレーの定期練習

先週は、練習に行けなかった。今夜は出かけた。ゲーム練習時にコート内に出ていないメンバーは、いつものように主審・副審やラインジャッジを行うが、今夜からラインジャッジはフラッグ(旗)を使ってラインジャッジを行うことにした。我がクラブには、千葉県連盟の役員が3名、日本連盟の私も含めて4名いる。千葉県や船橋市の交流大会で下手な審判活動はできない。
 フラッグの持ち方、振り方、アイコンタクト、判定基準を細かく説明した。講習会よりも丁寧に説明したかもしれない。次の交流試合は、1月に招待されているお隣の茨城県結城市交流大会(55歳以上)だ。ここは、ソフトバレーに熱心な望月さんが中心に主催している。

2011年12月10日土曜日

12/10(土) ミュンヘン金メダリストの西本哲雄さんと再会




 5年ぶりであろうか、西本さんと再会した。場所は、埼玉県三郷市総合体育館。きょうは、毎年恒例の三郷市主催の市内中学校チーム対象の育成バレーボール教室。男子3チーム、女子7チームが参加した。今年で6回目になる。第3回目には、私も講師で招聘された。今回は1972年ミュンヘン金メダリストでセンタープレーヤー(現在はミドルブロッカーと呼ぶ)の西本哲雄さん。西本さんは金メダルチーム最年少の21歳であった。

 きょうは、川崎市の方で全日本インカレ準決勝のある日であったが、西本さんが講師で見えるということを2か月前から知っていたので、三郷市の方に足を運んだ。西本さんは広島県の名門崇徳(そうとく)高校出身で、高校生時代にエースアタッカーとして活躍して創部以来初めてインターハイと国体の高校2冠を獲得した。この当時は、まだ春高バレーは開催されていなかった。その後、先輩の猫田選手のいる専売広島(現JT)に入社して、名セッター猫田選手のトスで大型センタープレーヤーに転向して成功した。秘話であるが、西本さんは、当時、関東の体育大学に進学希望であった。現役引退後、JTの監督を5年間、全日本女子ジュニアの監督、V1大分三好男子の監督を務めた。

 全日本女子ジュニアの監督に就任したとき、西本さんは女子の指導者との間で戦術面で苦労した。当時の女子バレーの世界はスパイクレシーブが女子バレーの命綱であった。男子バレーはスパイクレシーブの前に、まずブロックでしょうという考え方であった。女子バレーでも世界と戦っていくには、相手の高い打点から打ちこまれてくるスパイクに対抗するには、レシーブの前にブロックでシャットしたり、ワンタッチを取ったり、相手のスパイク・コースを制限したりするブロック力が必要と西本さんは考えていた。当時、そのような男子的な考え方は女子の世界では、まだまだ少数派であった。果たして、その後の全日本女子は、西本さんの予想が当たってしまい、高身長とパワーで押してくる欧州、北米のチームに勝てなくなった。


 そんなことを思い出しながら、西本さんの指導を眺めていた。


(画像は、西本さんと一緒のスナップ。西本さんに最高のセッターの条件を聞いてみた。「スパイカーの好みのトスを上げてくれるセッターだよね。猫田さんのように。相手のブロッカーを振るテクニシャンは沢山いたけど、猫さんは、ジャンプすれば、そこに打ちやすいトスが上がってきて、打てば決まる、という感じだったね。俺がオリンピックに行けたのは猫さんのおかげだよ・・・」) 

2011年12月9日金曜日

12/8(木) 妙齢の女性が自宅を訪問!?







 夜の7時頃か、自宅で風呂に入り、下着姿で部屋の中をうろついていた。家族は、夜遅くでないと帰ってこない。その時。ピンポン!とチャイムが鳴った。玄関に取り付けられているカメラで人物を確認してみると、妙齢の女性が立っている。(「妙齢(みょうれい)」とは、若くて美しい女性のことを意味する)。はて、1週間に1回ほど見えるヤクルトの販売お姉さんかなと思って、「家内は今いないんですが・・・」といつものように言おうと思っていたら、「かつしかクラブのものです」という声が聞こえてきた。

 かつしかクラブとは、先月から私がアドバイザーを務め始めた船橋市のママさんチームである。今月の2日から4日まで福岡県での第1回全国ママさんバレー冬季大会に千葉県代表で出場して帰ってきたのだ。下着のままの私は大慌てで着替えて玄関のドアを開けた。確かに見覚えのあるチームのセッターだ。しかし、いつもの練習時のすっぴンではなく、勤め先からの帰りであろうか化粧している。不覚にも、ちょっとドキドキしてしまった。

 彼女は、ご丁寧にも私にチームからのお土産を持って来てくれたのだ。次回の練習時でも渡してくれれば良かったのに、ご苦労様なことである。

 彼女が帰って、洗面所の鏡を見たら、風呂あがりそのままの髪の毛が針山のように四方に突っ立っていた。服装は、大慌てでそこらへんのものを引っかけて着たにもかかわらず、小ざっぱりしている。しかし、何たる不覚、髪の毛は昔コメディTVで観たアルファルファ(古い!)か最近で言うとパパイア何とかという振付師のようであった。

(画像は、お土産の博多西洋和菓子。バターの風味が効いてコーヒーに良く合う)

12/7(水) 全日本インカレ・バレー 2日目



本日は、グループ戦とトーナメント戦1回戦が行われた。昼まで会社にいて、午後から千代田線綾瀬駅の近くの東京武道館に行った。東京武道館は、よく日本武道館と間違われる。日本武道館は国立で東京武道館は都立である。規模も東京武道館は日本武道館の1/10位とさほど大きくはない。バレーコートは3面取れる。
 さて、ここに来たのは千葉県の敬愛大学の観戦が目的である。敬愛学園といえば、高校女子バレー界でここ10年ぐらい前から全国大会に出始めてきた学校である。その敬愛学園が、今年から大学でもチームを創設して活動を始めたのである。監督は習志野、市立船橋女子バレー部を率いてきた名将宇木先生。但し、部員は、まだ7名。それでもメンバーの中には福島県の郡山女子や茨城県の土浦日大のエースの子が入っており、千葉県大学界では既にトップクラスということである。来年には全国を経験した新入部員も入学予定で、これから期待の持てるチームである。
 試合の方はトーナメント1回戦で金沢星稜大学というところであった。2-0で勝利かと思いきや、フルセットのジュースで逆転負け。宇木監督の雷が落ちたのは言うまでもない。
 そして、この日も昨夕に続いて反省会と相成った。綾瀬駅の近くに地味な蕎麦屋さんがあり、そこに入った。若い男性のコーチを含めて3人で来季に向けてのお話しとなった。その場で、私も以前から打診されていたのであったが、敬愛大学女子チームの臨時トレーナー兼コーチでお手伝いすることになった。まずは、入学予定の高校生達へのトレーニングプログラムの作成から始めるということで、来季のチーム創りに話は弾んだ。

12/6(火) 全日本インカレ・バレー グループ戦を観戦



 本日から11日の日曜日までの6日間、東京、神奈川の7会場にて大学生の日本一を決める大会が開催された。午後から墨田区立体育館に行った。今年の1月の春高バレー出場を最後に県立大和南高校女子バレー監督を勇退した飯塚監督から、いつもの「来てくれよ~」コールが入った。飯塚先生が新たに指揮を執っている相模女子大学女子バレー部のゲームが墨田区であるとのことであった。
 会場に入るなり、Vチャレンジリーグ所属の佐々木監督にであった。ここで、暫く足を止められ歓談。そこに元全日本女子の主将であった野口京子が入ってきた。野口さんは、現在、長野大学女子バレー部の監督として3年目のチームを指導している。名刺を見ると準教授とある。みんな、頑張っているな~。話題が佐々木さんと野口さんお二人のお話に移った頃を見計らって移動したら、久しぶりに石野さんにであった。現在は文教大学の監督であるが、その前はIHI9人制女子バレーボール部監督として全国優勝も数多く成し遂げている。石野さんと15分ほど話していると、先ほどの佐々木さんが追いついて来て石野さんと話し始めた。ここでやっと、知人達を振り切って相模女子大のゲームを見ることができた。
 相模女子大のメンバーには、高校時代に全国大会で活躍した選手はいない。それでも、飯塚監督が就任し、半年で関東大学リーグを7部から6部に昇格した。試合の方は2敗で決勝トーナメントには進出できなかった。
 会場にいると、大和南の卒業生たちが次々と私のところに来て、挨拶をしていく。高校生の時と違って髪の毛が伸びていると一瞬、誰っだたっかな?と戸惑う学生もいたが、皆元気なようで良かった。早稲田、日本女子体育、桜美林と、この会場だけで3人もいた。
 試合後には、会場近くにある錦糸町駅前の大衆酒場で、飯塚先生と一杯と相成った。
(画像は、手前が相模女子大学。飯塚監督は監督制限ラインギリギリのところに立っている )

12/5(月) 女性のチームには女性のスタッフを

先週から、柔道指導者の不祥事でメディアが喧(かまびす)しい。不祥事の責任は本人にあるのは勿論であるが、30歳代の社会経験が未熟な若者に「客員教授」という称号を与える学校側もいかがかと思う。指導者としての資質も、発言などを聞いていると、まだ学生感覚が抜けていないのではと思うような発言が多い。
 金メダルを何個持っていようが、指導者の資質は別物である。トップアスリーととしての実績は、指導的立場になるうえでは非常に有利である。競技会という現場でトップアスリートとして経験した者でなければ得れない特別な感覚がある。しかし、そのような感覚を現役のアスリートに指導するためにはコミニュケーション能力や心理学、バイオメカニクスなどのコーチ学を身につけることで、より一層伝えることができる。現役時代の自身のプレーや心理状態を、若きアスリートに伝えるには自身を客観的に分析して理論的にまとめることが必要である。
 バレーボール界で、私の身近で名選手で名指導者であった人は、ほんの一握り。浜田勝彦さんという方をご存知であろうか?浜田さんは、そんな一握りの指導者である。2009年の私自身のここのブログに浜田さんについて載せていたのを偶然インターネットで探し当てた。
 ≪品川駅でタクシーを待っていたら、偶然同じ会場に行こうとしている富山県にあるV1チームの黒部アクアの監督の浜田勝彦さんにお会いした。そして、そのままタクシーに同乗させて頂いた。この方は日本鋼管で活躍しメキシコオリンピックの候補でもあった天才選手である。6人制の後は神奈川県の平塚クラブで9人制男子のプレーヤーで活躍し日本一は20回以上であろう。40歳まで現役であったのには驚く。その後、神奈川交通9人制女子では監督として日本一を10回以上成し遂げといる。9人制のスキルを6人制に取り入れて面白いバレーを展開する≫
 浜田さんの理論で面白いのは、1967年のユニバシアード(大学生の世界大会)前後にご本人が中心になって編み出したBクイック理論。当時、Aクイックは外国のチームに止められ始めていた。そこで、木村憲治さんや小泉勲さんの中央大学・日本鋼管コンビでAクイックよりもセッターから離れた位置で打つ速攻であるBクイックを開発した。
 おっと、タイトルの本論に戻ろう。私の結論は、女性のチームには必ず1名以上の女性のコーチングスタッフが必要ということである。私が監督であるならば、コーチかトレーナーは、女性にする。監督と選手の中間管理職として、女性の感覚で選手を見て欲しい。女性の監督というのも悪くないが、女性しか入れないような場所に、頻繁に出入りするのも、選手のフラストレーションが溜まってしまう。要は、指導者が男か女かの議論でなく指導者としての資質を持っているかどうかなのだと思う。

2011年12月8日木曜日

12/4(日) 国分寺市小学生バレー教室にあの金メダリストが



 2013年、東京都にて国民体育大会が開催される。多摩地区と島嶼(とうしょ:伊豆諸島の島々)地区が中心となる。国分寺市ではバレーボール成年の部が開催される。本日は、東京国体の関連事業で、午後から国分寺市スポーツセンターを会場に小学生対象の教室が開催された。

 主任講師には、今週初めにもお会いしたモントリオール・オリンピック金メダリストの白井貴子さんが、開催地である国分寺市から招聘された。私は、補助講師として、主催者である東京都バレーボール協会から派遣された。

 小学生97名、市バレーボール連盟の補助コーチ10名、父母が凡そ40名でバレーコートが2面取れる体育館内はざわざわしている。本部席の机上には、白井さんが持参した金メダルがきらきらと輝いている。子供たちの眼は、女性にしては長身(182cm)の白井さんと金メダルにくぎ付けになっている。

 2時間ほどの教室の中で、子供達には走ること、ボールを投げて受けること、サービスの打ち方・サーブレシーブのやり方と練習のやり方を説明し、反復練習を行った。今年に入って、白井さんと一緒の教室や講習会は4回ほどであろうか、コンビのリズムは良くなった。

 開講式では、市の教育長が挨拶され、閉講式には市長が挨拶されて全体的に格調も高くなった。全員での集合写真を撮った後、金メダルに触っていいよ、と白井さんから許可が出た。小学生から親御さんまで一列に並んで、金メダルに触れて感激に浸っていた。

 白井さんの自宅は、国分寺市からさほど遠くない杉並区。電車ではJR中央線の荻窪駅で下車する。夕方から、その荻窪駅の近くの焼き鳥屋さんで反省会となった。途中からは白井さんのお嬢さんもお仲間に入り、更に中頃からは国分寺市教育委員の担当女性の方も業務を終えて駆けつけてくれた。

 今回の教室の内容が良かったということで、来年度にはバレーボールの指導者講習会を企画したいとのお話も出た。ソフトバレー親子教室も開催したい、とのお話しも出てきた。

 東京都民のベッドタウンとしての国分寺市は、スポーツ環境、特に施設関係のインフラは必ずしも充実しているとはいえない。今回の教室開催を契機に、行政ウーマンと金メダリストがタッグを組んでスポーツ環境作りに着実に取り組んでいく下地ができたようだ。いつの時代でも、熱い心の人達が、歴史を作っていく。熱が冷めないように、私も熱く支援していきたい。

(画像は、集合写真。私の講評の中で、「この中に将来オリンピック選手になれる可能性を持っている子たちがいます」と申しあげた。お世辞ではなく、子供たちの真剣なまなざしを観ていると、心からそう思えてくる。彼らの可能性を伸ばしてあげるのは我々先輩の仕事である)

2011年12月3日土曜日

12/3(土) 江戸川区ママさんバレー「連盟杯」に挨拶

World Cup menの話題はもう十分。今夜のゲームの結果で、上位2チームの五輪出場が決まった。ロシアとポーランドの欧州勢が3位以上を確定した。明日の最終戦で、イタリア、ブラジルの内、もう1チームが決まる。日本と当たるブラジルは、1セットも落とすことはできない。それだけ、日本も厳しいゲームになることは間違いない。
 そんなわけで、ワールドカップよりも、きょうは、ママさんバレーということで、江戸川区の「連盟杯」に出かけた。JR小岩駅からバスに乗って15分ほどで会場の江戸川区総合体育館に着いた。コートは2コートだけなので、5日間かけて約80チームが、1部から10部のレベル分けの中でゲームを行う。1回戦で負けてしまうと、下部に転落してしまうので、どこのチームも必死の形相でプレーしている。
 ママさんバレーの技能レベルは、確かにさほど高くはないが、真剣なプレーには、いつも心を打たれる。会場に着いたとき、昨年チームに訪問して一度だけ指導したことのある3部のチームがゲーム中であった。1本目のサービスのコース打ちを昨年指導したように実行していたのを見て嬉しかった。そして、そのゲームを2-0で勝利したので余計に嬉しかった。
 明日は、国分寺市で午後から小学生バレー教室だ。肩の痛みも少し引いてきた。

12/2(金) World Cup men 10日目

大会も、あと2試合を残すのみとなった。今夜の日本の相手はロシアであった。結果はストレート負け。敗因はいつも同じ。植田監督自身が次のように分析している。サーブのミスが多い。精神的スタミナがない。そこまで分かっていて、3年前の北京オリンピック以降、対策が打てていないのはなぜであろう?
 今回の大会の成績は、出場12チーム中10位以下は確実だ。ワールドカップ過去最低の成績であろう。開催国の権利で、日本の試合時間は唯一18:30からのゲーム開始という最高のコンディションの中でこの成績とは情けない。少なくとも、あと2ゲームは勝ちとり、8位は確保できたと思う。
 サーブのミスであるが、ミスの内容が悪すぎる。ネットの中央にサーブをぶつけてしまうというようなミスを全日本の選手がやっていいのであろうか?勝負するサーブでもライン際でかろうじてアウトになる「ナイス・ミス」であれば、相手のジャッジミスも誘発できる。ここは、サーブで勝負ではないという場合は、コントロール・サーブというスピードを抑えて、フローターに切り替えて、コントロール重視のサーブでレシーバーの間やクイッカーの前に落としたりして、相手アタッカーのアプローチ(助走)のタイミングを崩すことを考えるべきだ。
 男子強化委員会は、今回の大会成績をどのように総括するのであろうか?

2011年12月2日金曜日

12/1(木) 12月 師走のスタート




早いものです。幼少の時代は、時間は長かった。最近は、時間がますます短くなってきた。新聞は2紙、配達してもらっている、朝日新聞は家で読み、日本経済新聞は通勤の車中か会社近くのドトールというコーヒー店で読んでいる。
 日本経済新聞の連載物で「私の履歴書」といコーナーがある。主に70歳以上で功なり名を挙げた政・財界、文化人の方達である。今月の執筆者は歌舞伎俳優の松本幸四郎さんで来年には古希(70歳)を迎えられる。幸四郎さんが、今の私の気持ちにぴったりの言葉を書いてくれた。
 「役者は、勇気、感動、希望を与えるという、なかなかできないことを仕事にしている。常にそれを肝に銘じてきたつもりだが、3.11の大震災という悲劇が起きた中で、役者としての自分が改めて問われていると思った」。
 スポーツアスリートやスポーツ・イベントに携わる我々も同じである。松本さんと表現が違うところが、「与える」というところ。「与える」のではなく「感じていただく」ものだと思っている。プレーするアスリート自身が与えると考えていても、プレーそのものが観衆やファンに感じられなければ、独りよがりのプレーである。「与える」という言葉は、松本さんのような大俳優であるからこそ言える言葉であって、30歳そこそこのトップアスリートが使える言葉ではないと思っている。
 松本さんは舞台劇の『ラ・マンチャの男』で演じるドン・キホーテ役でも知られている。2005年にスペインに行き、劇中で有名な実際の風車を訪ねたときに思わず口をついて出た言葉があったという。
 「今まで見ていたのは、夢のための夢だ。男60を過ぎて、これから見る夢こそが本当の夢」。
 私も、来年は60歳。サラリーマン生活を離れて、これからが夢の実現と思っている。


(画像は、自分を名馬だと思い込んでいるロシナンテという愛馬に立ち、風車に向っていくドン・キホーテ。ギュスターヴ・ドレの挿絵が素晴らしい。セルバンテス作の『ドン・キホーテ』は、近代小説の始まりとも言われている。作品は聖書の次に多くの国で出版されているとのこと)

2011年12月1日木曜日

11/30(水) 金メダリストが蜜柑を持ってやって来た



 金メダリストいっても、そんじょそこらの金メダリストとは違う。モントリオール・オリンピック、世界選手権大会、ワールドカップの三冠を取っている女子バレーボール界の大エースアタッカーと言えば、白井貴子さんしかいない。この人は、ミュンヘン・オリンピックでも、18歳のとき、銀メダルを取っている。2000年度にバレー殿堂に入ったのも頷ける。それも、恩師の山田重雄監督よりも先に殿堂入りを果たしている。その白井さん、ニックネームは大きいからBig(ビッグ)さん、が御茶ノ水にある私の勤務する会社にやってきた。

 「ナベさん、これ食べて。甘いから。私の田舎の岡山の友達が持って来てくれたの」


優しいね・・・。そう、実はビッグさんは優しい。最近は、2カ月に一回は講習会などにご一緒させていただいている。

 近くにある靖国通りに面した会社の直営店にて、スポーツウエアやシューズを買い求めて頂いた。近くのスタバにてコーヒーをご馳走になった。最近の話題を一通り物凄いスピードで話し終え、ビッグさんは風のように去って行った。

 今週の日曜日の午後には、国分寺市での小学生バレー教室に二人で指導することになっている。会場は、国分寺市スポーツセンター。昔昔、小平市に日立バレー部の体育館があって、そこに行くにはJR国分寺駅で降りてタクシーに乗って行くのが一番早かったことを思い出した。

(画像は、岡山の友達から頂いたという蜜柑。果肉の薄皮は柔らかく、本当に甘かった)