豊田博79歳、千葉大名誉教授。勲章は、瑞宝中授章という高位の叙勲である。
豊田先生は山口県立光高校から日本体育大学に進学。卒業時には総代を務めるほどの俊英であった。そして、東京大学の助手、講師、助教授と昇進。50才を前にして千葉大学に教授で転身。千葉大学を退官されるときに名誉教授となった。
私が先生と出会ったのは、1981年であった。モスクワオリンピックの翌年である。私の勤務先まで見えられ、バレーボールの普及を全国的に展開するための協賛依頼を熱く語られた。翌年から美津濃バレーボール教室が日本バレーボール協会指導普及委員を講師に、ニチボー貝塚の金メダリスト達をコーチにスタートした。私はマネージャー兼助手ということで、毎週1箇所、北海道から沖縄まで同行した。
スタートして4年間は、私の週末の業務のほとんどは、この教室に費やされた。私のコーチング能力が育てられたのもこの時期だ。豊田先生はこの当時、初心者指導の理論の体系化を確立した。世界のバレー界に豊田先生の理論が深く広く浸透していった。全日本小学生バレーボール大会の創設に奔走されたのも先生だ。バレーボールに関する論文数では恐らく飛び抜けて日本一であろう。
(連休スタートは家内の実家に来ている。書籍の大半をこちらに移しているが、その中に豊田先生の著作がこれだけたくさんあった。1970年から1980年代が最も多い) |
日本バレーボール協会の科学研究委員長、指導普及委員長、専務理事として日本バレー界を牽引されただけでなく、FIVB国際バレーボール連盟においても技術(コーチ)委員長、公認コーチ指導委員という要職に就かれ、副会長の松平康隆氏(故人)、ルール委員会の池田久造氏(故人)、コーチ委員会の斎藤勝先生と共に日本バレーの存在感を遺憾なく発揮された。
日本のバレー界が一時世界のバレーの中心にいた時期と豊田先生諸先輩が国際バレーボール連盟の中枢にいた時期は重なっている。ワールドカップ始め主要な国際大会を日本に持ってきたのも諸先輩の尽力のお陰である。日本バレーボール協会は、最近になって国際バレーボール連盟やアジアバレーボール連盟に役員を推薦し就任する数も豊田先生の現役当時に迫っている。
できうれば、国際機構において委員長に就任する人材を日本から推薦して欲しい。委員長は理事でもある。FIVBの方向性を左右する重鎮である。現在では、メディア委員長に共同通信社の竹内氏がいるのみと認識している。委員長に複数の日本人が就任する時に、日本のバレーも復活する。私はそのようにスポーツ政治力学から考えている。国際機構で能力を発揮するためには、英語力である。豊田先生も松平氏も池田氏も皆流暢に英語を操っていた。豊田先生は、アメリカンスクールでバレーボールを教えながら学んだ。松平氏や池田氏は簡単な英語で論理性の高い議論を展開されていた。
長くなってきた。岩本洋先生から長文に対してイエローカードが出そうなので、今日はこの辺で。今から豊田先生にお祝いの電話を入れます。
最後に、豊田先生の3人のお子様達は全員が東大、京大に進学されました。先生がバレーの活動でほとんどご自宅にいない環境でお子様たちが秀才である理由は何なのか?奥様に違いない、と私は推測しているのですが、案外当たっているかもしれません。今度、先生に確認してみましょう。