連休最後の日、本屋でNHK語学教室のテキストを購入に行った。5月号の『入門ビジネス英語』と『TV実践しゃべらナイト』の2冊をレジに持っていくと、レジ前に金子みすゞの詩集が積み重ねてあった。
私がみすゞの詩と出合ったのは、今から15年前のTV番組での特集であった。買い求めた詩集のなかに「大漁」という詩があった。たかがイワシの漁のことなんだが、イワシへの眼差しは、みすゞ自身がイワシになっていることに新鮮な感動を覚えた。
3・11大震災以後にTVでの公共広告で同じ画像が繰り返されて多少うんざりとしていたときに、みすゞの童謡詩がシンプルな画像とともに繰り返し流された。繰り返し見ても、聞いても嫌にならない。その詩のタイトルは、「こだまでしょうか」。こだまのような言葉の繰り返しの中に、小さき者たちへの柔らかな視線を感じる。
みすゞの優しさや思いやりは、人だけでなく、自然にも注がれる。雪にも、路傍の石ころにも、葉っぱにも。今から75年前に26歳の若さで自死したみすゞ。彼女の詩には、冴えた透明感がある。そして静謐な死の予感がする。子供の目線で語られるその詩は、第1次世界大戦中にアフリカの空で飛行中に亡くなった『星の王子様』を書いたサン・テグジュペリを思い出させる。
青いお空のそこふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまでしずんでる、
昼のお星はめにみえぬ。
見えぬけれども
あるんだよ、
見えぬものでも
あるんだよ
・・・金子みすゞ「星とたんぽぽ」より
私たちは、大人になるにしたがって、自分のこども時代の感性を亡くしていく。それが、ある意味、大人になっていくということでもある。しかし、こどもの感性を大人がまったく感じられなくなったとき、大人は人間であることをやめたときなのかもしれない。金子みすゞは、こどものままの感性で自分の命を絶った。彼女にとって、死は生きることの完成形ではなかったのか。
(画像は15年前に購入した詩集。家族のだれかが、私の本箱から抜き出して、今でもテーブルの上に置きっぱなしになっている。時には詩の世界に静かに沈むのも良い・・・)
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