昔、といっても8年ぐらい前だが、「日経ビジネス」という経済・経営雑誌に元全日本監督が『敗者の弁』というシリーズで次のように語っていた。「まあ・・・バレーボール指導者は、このような専門誌を読むことはないですが・・・」。目前のオリンピック出場権を取り逃がしたその監督は、そのようなことをまず述べていた。彼は、現役時代は世界的な名プレーヤーであった。監督になっても、選手を下手な奴らと見下していた風があった。「日経ビジネス」を読むのも俺ぐらいだろう、という傲岸な態度が文面から伺われた。
こんな私でも日本経済新聞やビジネス誌は読んでいます。週刊誌は、電車の中つり広告を読めば十分。スマホでも新聞は読めるが、やはり活字は印刷の匂いのする紙が良い。日本経済新聞で、最初に読むコーナーは、雑誌でいえば裏表紙の文化面から読んでいく。特に『私の履歴書』は多士多彩な執筆者が毎月出てくる。1月は、前英国首相であったトニ―ブレア氏であった。この4月は演出家の蜷川幸雄氏である。
実は、私のバレー指導論は蜷川氏の舞台演出から多分に影響を受けている。
例えば、氏は次のように述べている。
「舞台では全員が一つの気持ち、集中力を共有しないと、良い作品は作れない」(「蜷川幸雄と『さいたまゴールド・シアター』の500日」《平凡社新書2007年》より)
舞台をコート、作品をチームに置き換えてみれば良く理解できる。練習中に、自分の番が来るまでボーっとしている選手がいる。こういうチームは単なる集団である。あと1点で天国と地獄が決まるという勝負の時に結束が崩れる単なる集まりでしかない。
崩壊するときは、一番弱いところから崩れる。だから弱点は補強すべきである。苦手だから、と逃げていてはいけない。
こんなのもあった。
「名前を呼ばれた団員(平均年齢67歳)の返事が小さいと、蜷川がすかさず『聞こえないよ。コミュニケーションの基本ができていない』と大きな声で指摘する。一言で、けいこ場の緊張感は一気に高まっていく」(前出)
魅力ある声よりも、なによりも、まず「大きな声」が基本だ。マイクがない劇場で声が観客に届かなければ声を出していないと同じだ。観客に届くかどうか、次にその声の中にある気持ちが届くかどうか。
先日、新潟県の高校に行ったとき、2日目の午後の練習は、4人一組の歌声競演会を行った。審査員は、4月に入部する中学生達にやってもらった。審査のポイントは、大きな声と笑顔。たまたま、その場にいたご父兄の方は、これが練習ですか?という顔をされていたが、終り頃になって趣旨が解ったらしく、しきりにうなづいていた。歌い終わった後の高校生達の顔が少し女優の顔に近づいてきたようだ。
自分の気持ちを、心を、外に出すこと。大きな声で、大きな身振りで、大らかに表現することは、演劇もバレーボールも同じだ。そして、バレーボールはボールに心を入れ込んで仲間にパス(トス)するスポーツだ。
(画像は、4月1日付けの私の履歴書と3年前に探して探して神田の三省堂本店で購入した新刊書。3時間で読了した。目の前で蜷川さんから演技指導を受けているようであった。激しい人だ。)
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