(私の指導している幼稚園ママさんチームのメンバーは優しい性格のママさんが多い。内に秘めた闘争心をいかにしてゲーム時に出してもらうかが私のテーマだ。秘めたままで終わらせたくはない) |
会場には、先週から始まった、私が講師を務める船橋市教育委員会主催のママさんバレー教室の受講者も大勢出場していた。その中で、私の旧姓を呼ぶママさんが2人いた。
「阿部さん...ですよね!? 私を覚えていますか? 」
「おお...都立江東商業高校バレー部の...美人キャプテン金井か?」
名前はすぐ出てこないが高校生時代の面影は変わらない。
「恩師の高橋末光先生が三年前に亡くなったことをご存知でしたか?」
「知っている。最期のお別れにも行った。」
「バスケット部の顧問の中村先生は、その後に校長になったんですが、病気でお亡くなりになりました」
「そう...あの丸顔で穏やかな先生がね...確か、私より年下のはずだなあ...残念だね...」
(中央が、すえみつ先生。会場は駒沢屋内体育館。都立高等商業女子バレー部員は、補助役員として高校男子大会のお手伝いをしていた。私はカメラマンなのでこの写真にはいない。私は当時から今と変わらない老け顔なので、30年後の今でも、誰でも、私を見つけることができる) |
先生は、当時50歳代であった。男子が少なくなった商業学校で女子バレー部の顧問をされていた。体育科教官室は体育館の外れにあり、一般の教員室と離れたところにあった。体育科の先生たちは先生のことを「すえみつ」先生と呼び、主任のすえみつ先生を中心に仲も良かった。最寄りの駅はJR亀戸で、先生方と駅の近くの餃子屋さんでよく談笑した。先生は気分が良くなると出身の熊本県の童謡を歌われた。国際審判を目指していたが果たせなかった先生は、ルールには厳しかった。約束事を破った生徒には顔を真っ赤にして子供たちを叱っていた。
3年前に東洋高校が春高バレーで初優勝できたのも、陰には、すえみつ先生の支援が当時からあった。時には東洋高校の男子バレー部員と江東商業の女子部員がお付き合いをしていたり、すえみつ先生も女の子を預かっている教員であったので、それなりに気苦労もあったことであろう。
散々お世話になった私であるが、すえみつ先生にまともな恩返しもできないまま、先生は旅立たれてしまった。先生の教え子たちに恩をお返しすることで許してもらうしかない...。
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