5ヶ月ぶりに丸ノ内線の茗荷谷から歩いて2分の大学院に残してきた資料や文献を取りに行った。夕方訪れたので院生もほとんどおらず静かな校舎であった。5月に仕事のやりくりをしながら何とか論文提出をやっていた時期が懐かしく思い出された。院生室には誰もおらず、ふと教官室をみると私の指導教官であった菊先生の部屋の明かりがついていた。ノックすると「どうぞ」といういつもの声が聞こえてきた。しばらく先生と雑談をして部屋を出た。先生のお話では、今年も1月には論文提出が間に合わない院生が数名いるようだ。
仕事を持ちながら論文を書き上げるのは確かに難しい。しかし、それを承知で入学してきた仲間たち。誰一人として弱音は吐かないが、普段論文形式の文章作成の習慣のない社会人にはきつい作業ではある。私の初めての論文も指導教官に徹底的にこきおろされた。私の初めての論文は「渡邉さん、本でも出版されるのですか?論文の形式にまったくなってないですよ」と、言われたものである。4年生大学の卒論だったら分厚いレポートのようなものでも論文として受理される大学が多いと聞く。さすがに大学院の修士論文はそれではだめだということだ。他のスポーツ系の私学の大学院では結構甘いということも耳に入っていた。しかし、ここはいやしくも国立の大学院の誇りを持っている。審査は厳しかったが、今となっては自分のために良かったと思っている。
大学院を修了したメリットは何ですか?とよく問われる。私には今のところメリットは感じられないが、修士論文を仕上げた自信に誇りを持っている。放り投げだそうと思ったことも数度あったが、これ以上だめだという限界を繰り返していると、ある日突然パッと明かりがさしこみ急に理解が進む時がある。
あきらめなければできる、ということをこの時ほど感じたことはない。
もう駄目だと思ってもすぐに放り投げださず、もう少し、もう少しと努力を継続することしか成功への道はない。あきらめなければきっとできる。
2009年12月15日火曜日
2009年12月14日月曜日
三郷市中学生女子バレーボール教室
12月12日(土)は埼玉県三郷市の三郷総合体育館に行った。昨年の12月から依頼されていた教室である。対象は市内13校のうち9校の中学女子バレー部。昨年の講師は、元全日本男子監督も務めた斎藤勝先生。依頼主は三郷市を中心にママさんバレーの指導を精力的に行っているモントリオールオリンピック金メダリストである神白(旧姓飯田)高子さん。飯田さんからの依頼とあれば断る理由はない。お声をかけて頂いたことが名誉なことである。
開講式は三郷市教育長の挨拶から始まった。中学生たちは、ほとんどが中学校に入学してからバレーを始めたという初心者であった。初心者には、リードアップゲームとしてのミニゲームをたくさんやってバレーボールのラリーを楽しんでいただこうと、まずはアップとしての基本のステッピングからスタートした。ところがこのステッピングがうまくいかない子が多すぎたので少し時間がかかってしまった。基礎的な体力が不足していることは明らかであった。ボール投げもたくさん行った。投げる動作がスパイクやサーブの動作につながるので有効なアップである。子供たちが自分たちでできる基本練習も紹介した。
教室終了後に、珍しく飯田さんから夕食のお誘いがあった。ママさんバレーのお弟子さん3人も同席し楽しく会話が弾んだ。飯田さんが中学生バレーに危機を抱いたのも本日の教室で少しわかったような気がする。三郷市は外部コーチを認めていないということだ。教員も公務多忙。日本体育協会の指導者資格を有している地域の人材を活用すれば、教員先生方も子供たちも助かるのではないか。そんなことやらたわいのない会話まで9年ぶりかで飯田さんと夕食を共にした。金メダリストでここまで地域に密着して貢献している人はいない。いつまでもお元気でママさんと中学生を指導して欲しいものである。
開講式は三郷市教育長の挨拶から始まった。中学生たちは、ほとんどが中学校に入学してからバレーを始めたという初心者であった。初心者には、リードアップゲームとしてのミニゲームをたくさんやってバレーボールのラリーを楽しんでいただこうと、まずはアップとしての基本のステッピングからスタートした。ところがこのステッピングがうまくいかない子が多すぎたので少し時間がかかってしまった。基礎的な体力が不足していることは明らかであった。ボール投げもたくさん行った。投げる動作がスパイクやサーブの動作につながるので有効なアップである。子供たちが自分たちでできる基本練習も紹介した。
教室終了後に、珍しく飯田さんから夕食のお誘いがあった。ママさんバレーのお弟子さん3人も同席し楽しく会話が弾んだ。飯田さんが中学生バレーに危機を抱いたのも本日の教室で少しわかったような気がする。三郷市は外部コーチを認めていないということだ。教員も公務多忙。日本体育協会の指導者資格を有している地域の人材を活用すれば、教員先生方も子供たちも助かるのではないか。そんなことやらたわいのない会話まで9年ぶりかで飯田さんと夕食を共にした。金メダリストでここまで地域に密着して貢献している人はいない。いつまでもお元気でママさんと中学生を指導して欲しいものである。
2009年12月8日火曜日
今日は日米開戦の日
悲惨な戦争は、68年前の今日、ハワイにある真珠湾攻撃で始まった。日本が先に奇襲攻撃を仕掛けたとか、奇襲攻撃を意図的に掛けさせられたとか歴史家は諸説述べているが、戦後残ったのは日米双方の多くの痛ましい犠牲者ではなかったか。開戦時は帝国主義の時代。強国がエネルギーの獲得とともに国力の拡張、敵国への防御に軍事力で対峙していた時代である。思えば、黒船の時代から日本はアメリカや欧州列強の脅威にさらされていた。
2年前にソフトバレーの指導の関係で初めて小笠原の父島に行ったとき、ペリーの黒船が食料補給で立ち寄った記録を読んだ。激戦地の硫黄島も30キロ先に浮かんでいた。
朝日新聞の天声人語で、そんな日米開戦に関する記事を読んでいたら、批評家の小林秀雄さん(故人)が能について述べた一節が書かれてあった。〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉。ソフトバレーについて、小林氏のくだりを借りて言うならば「『楽しいソフトバレー』がある。『ソフトバレーの楽しさ』という様なものはない」となろうか。抽象的な「楽しいソフトバレー」でおしまいにせず、ひとりひとりの「ソフトバレーの楽しさ」を追求することが愛好者を増やすことになるのではないか、と考えた次第である。
ソフトバレーが発明されて20年が経った。そして、日本的な「部活スポーツ」を経験してきた役員が主催するからであろうか、地域の交流大会は、競技スポーツの色彩が強くなってきた。このままでは一部の上手で強い愛好者たちだけが残り、プレーそのものを楽しんでいる大部分の普通の愛好者は同じコートから去っていってしまうのではないか、という危惧感がある。ソフトバレーは競技的にも楽しめるレクリエーション・スポーツであって、競技スポーツではない、という原点に立ち返る必要がある、と私は考えている。
2年前にソフトバレーの指導の関係で初めて小笠原の父島に行ったとき、ペリーの黒船が食料補給で立ち寄った記録を読んだ。激戦地の硫黄島も30キロ先に浮かんでいた。
朝日新聞の天声人語で、そんな日米開戦に関する記事を読んでいたら、批評家の小林秀雄さん(故人)が能について述べた一節が書かれてあった。〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉。ソフトバレーについて、小林氏のくだりを借りて言うならば「『楽しいソフトバレー』がある。『ソフトバレーの楽しさ』という様なものはない」となろうか。抽象的な「楽しいソフトバレー」でおしまいにせず、ひとりひとりの「ソフトバレーの楽しさ」を追求することが愛好者を増やすことになるのではないか、と考えた次第である。
ソフトバレーが発明されて20年が経った。そして、日本的な「部活スポーツ」を経験してきた役員が主催するからであろうか、地域の交流大会は、競技スポーツの色彩が強くなってきた。このままでは一部の上手で強い愛好者たちだけが残り、プレーそのものを楽しんでいる大部分の普通の愛好者は同じコートから去っていってしまうのではないか、という危惧感がある。ソフトバレーは競技的にも楽しめるレクリエーション・スポーツであって、競技スポーツではない、という原点に立ち返る必要がある、と私は考えている。
2009年12月6日日曜日
第15回船橋市近隣親善ソフトバレーボール交流大会開催

本日は、3年ぶりに地元の交流大会に我がクラブの仲間と参加した。参加チームは全部で45チーム、その内、市外チームは24チームで県外は3チーム。実はこの交流大会は我が船橋大穴クラブが2回まで開催し、その後、市協会に移管したものだ。いつも県外のチームに招待されていたので、年に1回は自分たちでご招待しようということで、最初は県外のチームが半分もいた。ほとんどのチームが全国大会に行ったことのあるチームでレベル的にも結構高かった招待試合であった。県外からのチームは、前日から集合し酒宴で盛り上がり、翌日は二日酔いもなんのそのという活躍ぶりであった。あの当時、皆40歳代50歳代の働き盛りで、ソフトバレーの未来を夢を持って語りあっていた。今思えば、楽しいひと時であった。
時とともに当時のソフトバレーの理念が薄らいでいっていると感じているのは私だけであろうか。ソフトバレーボールは競技的にも楽しめるレクリエーションである。しかし、競技的のところが、最近拡大され過ぎているのではないだろうか。初心者が定着しない、高齢者が減ってきた、という声を全国的に聞く。活動をやっていないわけではない。練習はやっているのであるが、試合には出てこない。試合に出てもすぐに負けてしまうから、つまらない。だから大会には出ない。
ソフトバレーボールはもともと誰のためにできたのか。初心者や高齢者、そして子供たちを中心に誰でもできるというキャッチフレーズで日本協会が発明したスポーツ種目である。「誰でも、試合に出て普段の練習の成果を出して、他のチームと交流して仲間意識を醸成していくのもソフトバレーの目的の一つである」。試合のやり方を少し工夫すれば初心者でも1勝1敗のそこそこのゲームができる。全敗で、一方的なゲームでは、確かにつまらない。これからは、障害者の人も一緒にチーム入って対戦するようになってくる。対戦の組み方、表彰の工夫などまだまだ考えられることはたくさんある。
時とともに当時のソフトバレーの理念が薄らいでいっていると感じているのは私だけであろうか。ソフトバレーボールは競技的にも楽しめるレクリエーションである。しかし、競技的のところが、最近拡大され過ぎているのではないだろうか。初心者が定着しない、高齢者が減ってきた、という声を全国的に聞く。活動をやっていないわけではない。練習はやっているのであるが、試合には出てこない。試合に出てもすぐに負けてしまうから、つまらない。だから大会には出ない。
ソフトバレーボールはもともと誰のためにできたのか。初心者や高齢者、そして子供たちを中心に誰でもできるというキャッチフレーズで日本協会が発明したスポーツ種目である。「誰でも、試合に出て普段の練習の成果を出して、他のチームと交流して仲間意識を醸成していくのもソフトバレーの目的の一つである」。試合のやり方を少し工夫すれば初心者でも1勝1敗のそこそこのゲームができる。全敗で、一方的なゲームでは、確かにつまらない。これからは、障害者の人も一緒にチーム入って対戦するようになってくる。対戦の組み方、表彰の工夫などまだまだ考えられることはたくさんある。
(画像は、会場の船橋市運動公園体育館での開会式での風景。準備運動に軽音楽をかけて全員で行うという伝統はまだ継続されていた。今回から、市内のスポーツ店に売店を出していただき参加者に喜んでいただけるように特価品を販売していただいた。随分売れたということをスポーツ店の店長から報告を聞いて、これも参加者満足の一つ、と私も一安心した次第である。)
2009年12月5日土曜日
埼玉県坂戸市ソフトバレーボール連盟主催研修会
本日は、以前から講師を依頼されていた埼玉県坂戸市でのソフトバレーボール研修会に出かけた。会場は坂戸市を代表する総合体育館である。内容は「ミニリーダー研修会」というようなもので、朝9時から午後4時半までのスケジュールでルールの理解を中心にウオーミングアップ、基本練習法を学ぼうというものだ。
地域でのこのような研修会は、通常は講師を引き受けないのであるが、会長さんのお名前が私の故郷の山形と同じ姓であったという単純な理由でお引き受けすることにした。但し、私からの条件としては、埼玉県連盟を通じて再度ご依頼くださいとお願いした。
車で出かけたが、高速道路を平均時速100kmで2時間かかった。坂戸市連盟の特徴は女性役員が多く、明るいという印象であった。ソフトバレーボールの愛好者は6割以上が女性なのだから、役員も半分以上は女性がいたほうが女性の立場がよく理解でき運営も上手くいくに違いないというのが、単純であるが私の論理である。
受講者は約40名。「ゲームライクな練習」というテーマで、試合が近い場合の練習のやり方というものをご紹介した。1週間前の青森県での指導者研修会との関連もあり、内容的には濃いものであった。
Warming-Up、Cooling-Downも少し詳細に説明させていただいた。
地域で愛好者のために頑張る役員さんたちには、本当に頭が下がる。会長の山形さんのような地域のリーダーが県連盟の役員にもっと増えてくれば埼玉県連盟もさらに発展するであろう。県連盟というものは地域で頑張るリーダーたちを支援することが任務の一つである。第2第3の山形さんのようなリーダーを発掘し育てていけば日本のソフトバレーはもっともっと発展する。本日はそんな希望を頂いて会場を後にした。
明日は3年ぶりに私の地元での近隣招待試合に出場する。
地域でのこのような研修会は、通常は講師を引き受けないのであるが、会長さんのお名前が私の故郷の山形と同じ姓であったという単純な理由でお引き受けすることにした。但し、私からの条件としては、埼玉県連盟を通じて再度ご依頼くださいとお願いした。
車で出かけたが、高速道路を平均時速100kmで2時間かかった。坂戸市連盟の特徴は女性役員が多く、明るいという印象であった。ソフトバレーボールの愛好者は6割以上が女性なのだから、役員も半分以上は女性がいたほうが女性の立場がよく理解でき運営も上手くいくに違いないというのが、単純であるが私の論理である。
受講者は約40名。「ゲームライクな練習」というテーマで、試合が近い場合の練習のやり方というものをご紹介した。1週間前の青森県での指導者研修会との関連もあり、内容的には濃いものであった。
Warming-Up、Cooling-Downも少し詳細に説明させていただいた。
地域で愛好者のために頑張る役員さんたちには、本当に頭が下がる。会長の山形さんのような地域のリーダーが県連盟の役員にもっと増えてくれば埼玉県連盟もさらに発展するであろう。県連盟というものは地域で頑張るリーダーたちを支援することが任務の一つである。第2第3の山形さんのようなリーダーを発掘し育てていけば日本のソフトバレーはもっともっと発展する。本日はそんな希望を頂いて会場を後にした。
明日は3年ぶりに私の地元での近隣招待試合に出場する。
2009年12月2日水曜日
青森市での指導者研修会

11月27日夜から28日、29日と先週末は、青森市民体育館で約40名の県内トップレベルの受講者と県ベスト8の男子は青森工業、女子は青森中央高校バレー部員をモデルに東北ブロック指導者研修会の講師で行ってきた。外は気温11度でしたが、体育館内は熱気で温度が上がり、研修を終了。今回は自分で出したテーマの「ディフェンス・システムの理解~ブロックとのスパイクレシーブの連携~」であったが、指導ノートを作るうえで結構苦労した。しかし、そのお蔭で私の知識はまた増えた。教えるということは学ぶということ。それにしても、夜のご招待と日中の緊迫した研修会は疲れた。
30日の早朝に日本体育大学バレーボール部の前部長である進藤教授が心不全で亡くなられた。享年69歳であった。12月3日の本日、東京都体育館をメインに開催されている全日本大学バレーボール選手権大会に行った。丁度、日体大男子の試合であった。進藤先生は秋田県でNo.1の進学校である県立秋田高校出身である。私が山形県人だということで、同じ東北人として随分可愛がっていただいた。 ご自宅にも何度か招待され、日体大出身の当時の日本リーグ在籍の全日本選手たちと仲良くお酒を飲ませていただいたことを思い出した。豪快で繊細でお茶目な進藤先生は旅立った。ご家族も寂しくなることであろう。
合掌。
30日の早朝に日本体育大学バレーボール部の前部長である進藤教授が心不全で亡くなられた。享年69歳であった。12月3日の本日、東京都体育館をメインに開催されている全日本大学バレーボール選手権大会に行った。丁度、日体大男子の試合であった。進藤先生は秋田県でNo.1の進学校である県立秋田高校出身である。私が山形県人だということで、同じ東北人として随分可愛がっていただいた。 ご自宅にも何度か招待され、日体大出身の当時の日本リーグ在籍の全日本選手たちと仲良くお酒を飲ませていただいたことを思い出した。豪快で繊細でお茶目な進藤先生は旅立った。ご家族も寂しくなることであろう。
合掌。
(画像は受講者とモデルチームの青森中央高校女子バレー部そして青森工業高校男子バレー部の全員での集合写真。2日目の研修会の時に子供たちがだらけてきたので、活を入れた。「君たちは男優であり女優なのだ。演技は大袈裟に強調してやらなければ画面で映えない。もっとパフォーマンスしなさい」。そうしたら、男優や女優という言葉が効いたのか、子どもたちは最後の力を振り絞り頑張りだした)
2009年11月25日水曜日
アジアの国際審判員生みの親、池田久造氏逝去

現(財)日本バレーボール協会会賓であり、審判審査委員会委員長、FIVB審判委員会主事を歴任されました池田久造先生が、かねて病気療養中のところ薬石効なく11月19日(木)ご逝去されました。
私の知っている池田先生は、いつも帽子をかぶりダンディないでたちで背筋をピント伸ばし、お話になられる紳士然とした方でした。先生との初対面は1980年モスクワで開催されたオリンピック会場でした。 そして、1982年アルゼンチンでの第10回男子バレーボール世界選手権に私が社命で単身視察に行くことになり、池田先生にご相談したところ、 FIVB競技委員長で重鎮のMr.ホルベイをご紹介され、丁重な紹介文を頂いた覚えがあります。お蔭にて、アルゼンチンでの業務活動が スムーズに行きました。
また、先生ご著書の「バレーボールルールの変遷とその背景」(日本文化出版1985年)は、大変な労作で、先人が苦労されてルールの改・修制をおやりになっていた経緯が 詳細に記されており、私の大事な蔵書の一つとなっています。 指導者は技術、戦術に長けているだけでなく、「ルールの精神」を良く理解することでゲームが成立することを先生の著作から学ばさせていただきました。現在、私が日本ソフトバレーボール連盟で審判規則委員長の重責をかろうじて果たせているのも、先生にお目にかかった29年前モスクワでの出会いがあったからこそです。お聞きしたいことはまだまだあったので逝去の報に接し悔やまれます。
先生、安らかにお眠りください。 合掌
(画像は先生の著作。先生は、1915年神奈川県のだ原市生まれ。1936年日本体育会体操学校高等師範科(現日本体育大学)卒業。1941年大日本排球会常任理事に就任以来、一貫してルール、審判関係の要職に携わってこられた)
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