2011年7月31日日曜日

7/30(土) 北東北インターハイ 女子バレー 3日目




 きょうも朝から小雨。昼頃から日差しが出てきた。東京の方は、雨模様のようである。昨日のグループ線を終えて、本日から決勝トーナメント。組み合わせ抽選で、対戦表の右下、第2シードの東九州龍谷のゾーンにシードチーム以外の強豪高が集まっていった。関東勢は、全チームが決勝トーナメントに勝ち上がっている。
 昨夜、夕食を共にした神奈川県立大和南の前監督である飯塚先生から今晩もいかがですかと夕食のお誘いがあり、学校長、副校長、父母、現監督の井上先生たちとご一緒させていただいた。総勢、60名の大所帯で、第3シードで昨夏インターハイの準優勝チームである鹿児島女子を破ってきた直後であったので、特に父母たちの気勢がすさまじかった。明日3回戦を勝ち上がると、恐らく千葉県代表の市立船橋とベスト4を掛けての対戦となるであろう。市立船橋には、先月の関東大会でも準決勝で1セット目を取った後に逆転負けであった。好勝負になるであろうことは間違いない。
 深夜の3時過ぎに、余震があった。結構長い時間揺れた。震源地は、福島県沖合いとのこと。福島には10月のソフトバレー・シルバーフェスティバルに役員で行く。もうこれ以上、福島県民を天災でいじめないでほしいと願った次第である。
 明日、日本協会事務所で開催される日本バレーボール協会審判規則委員会規則部会には、私の代理で福島県ソフトバレーボール連盟理事長の梅津さんが出席される。連日の放射線測定業務から、明日は解放されて、東京で僅かの時間であるがリフレッシュしていただきたい。


(画像は、八戸名産のサバの刺身。他にもシメサバ、サバ焼きと何でも美味しい)

2011年7月30日土曜日

7/29(金) 北東北インターハイ 女子バレー 2日目

 朝から小雨混じりの曇り空。本日から予選が始まった。会場は市内の4会場に分かれて熱戦が繰り広げられた。一勝すれば明日からのトーナメント戦に進出できる。初戦に負け、敗者復活でも負ければ、その先はない。
 私は、メーン会場の八戸市東体育館にいたが、多くの高校指導者と再会できた。山形県代表の山形城北監督の長岡友利子さんとは10年ぶり位だ。長岡さんは、日本リーグ時代に日立武蔵で活躍した方で、もう60歳を過ぎているはずだ。往時の選手達の近況など懐かしく話すことができた。他にも地元青森県の役員の先生方からは、行く先々で丁重にご挨拶や案内などをしていただき、来賓者扱いで少し困りもしました。実は、8年前から青森県指導者講習会で毎年のように講師でお世話になっているので、多少は私の顔も知られてきたせいかも知れない。
 夜は、神奈川県立大和南高校前監督の飯塚先生と例のみろく横町に行った。6時になって、トーナメントの組み合わせの連絡メールが入ってきた。大和南は2回戦でシード校の鹿児島女子と対戦する。ここの勝者がベスト4に勝ちあがる組み合わせのようだ。

2011年7月29日金曜日

7/28(木) 北東北インターハイ 女子バレー会場 初日

 本日は、開会式のある日。しかし、メイン会場である八戸東体育館では開会式は行われず、市内の公会堂でチームは椅子に腰掛けたままで行われた。入場行進を行わない開会式というのも久しぶりである。長時間立ったままでの開会式でのセレモニーに選手達の体力が持たないようだ。
 夜になって、青森県バレーボール協会会長の春藤先生とお会いした。場所は、八戸市名所のみろく横町。カウンターしかない小さな飲み屋さんが集合しているまるで学園祭のようにお店が並んでいる。春藤先生とは、男子バレー界の名門、県立弘前工業高校男子バレー部の監督として高校三冠を達成している名伯楽である。二人で、最近のバレー界事情、先生のお孫さんの中学生が野球からバレーに転向してきたことなど楽しく話しあった。
 

2011年7月25日月曜日

7/25(月) 埼玉県行田市立忍中学校で








 中学校からのスポーツ講義の依頼があり、埼玉県行田(ぎょうだ)市に向かった。お隣の騎西町の廃校になっている県立騎西(きさい)高校には、原発から避難していた双葉町の住民の方達がまだ800名ほど教室で生活を営んでいる。

 学校に着いて、校長室に入った。広い校長室で、ちょっとした短期大学の学長室ほどあった。学校のあるところは行田市の中心地で忍城址に建っている。この「忍」という漢字読めますか?「おし」と読むんですね。山田風太郎という武芸時代物作者の「忍者・・・」とかいう小説も・・・確か・・・あった記憶がある。

 体育館に行くと、各部活の部員達が座って並んでいる。なんでも、初めは部長、副部長だけという話であったが、部員全員集合したようだ。父母と教職員も運動のできる服装で集まっている。全員で170名ほどいたかな。この日のテーマは「中学生の体力トレーニングと実際」。時間が90分しか頂いていなかったので、股関節と肩甲骨周りの筋トレとストレッチを紹介した。途中、校長先生にもモデルをお願いして、あっという間に時間は過ぎた。

 その後、男子バレー部の指導を頼まれた。部員は3名と聞いていたが、近くの県立高校男子バレー部が練習手伝いに来てくれた。進修館高校という学校名を見て、私学なのかな、と思っていたが、以前は県立行田工業高校ということであった。近くの学校と合併になって、現在の名前になったということだ。恐らく江戸時代の藩校の名前を取ったのではないであろうか。

 何を知りたいの?と高校生に聞くと「ジャンプ力を伸ばすトレーニングです」と主将から元気な声が返ってきた。そこで、プライオ・メトリック・トレーニングを紹介した。筋肉の「伸張反射」という特性を生かしたジャンプ力の効果的なトレーニングである。マットを敷いて、跳び箱を準備して初級編、中級編のポイントを説明した。それから、1日10本バスケット・ボードにジャンプして手を付ける練習を説明した。最終目標は、リングである。進修館男子バレーの諸君は、まじめに一生懸命取り組んでくれた。中学生も3人しかいないが、部を辞める気配はないとのことだ。高校生と中学生でクラブカップの県予選会に出れるシステムを県協会が作ってくれれば、少ない部員数でも部活動を続ける動機にはなるであろう。男子バレーの人口拡大策は、全日本男子が活躍する影響を頼みにするだけでなく、身近なところで色々考えられるのではなかろうか?

(画像は、中学生と高校生との集合写真。高校チームは、時々このように中学校に来たり、高校に呼んだりして地元で唯一ある中学男子バレー部員の面倒を見ている。地域では、このように皆何らかの努力をしている。全日本男子の諸君は、地域で頑張っているこのようなバレーを継いでいく者達のためににも来るべきワールドカップで一つでも多く勝ってほしい)

2011年7月24日日曜日

7/22(金) ちょいと早いが、暑気払いだ

 きょうも、東京は涼しい。一度しまった夏用のスーツを出して出勤した。会社では、月曜日に行田忍中学校でのトレーニング講義と指導のレジメを作った。最近は、バレーボールそのものの指導の依頼だけでなく、トレーニング指導の依頼も増えた。その度に、こちらも最新の知識を仕入れてブラッシュアップ(磨きなおし)を強いられている。お陰で、そのことが、バレーの指導に随分と役立っている。筋肉の「伸張反射」というのがあるが、このことはスパイク・ジャンプやレシーブ時の出だしのスピードアップに根拠を与えて納得性が高くなっている。筋肉には、このような特性がある。このスキルをパワフルにするには、ここの筋肉を鍛えなければならない・・・それまで、経験的な知識だけでやってきたたトレーニングに生理学の知識が加わって正しい効率的なトレーニングができるようになってきた。
 夕方から、千葉市の我がママさんチームの暑気払いと新人歓迎会があった。新人のママさんは、3回ほど体験入部して、その後、正式に入部を決めた。年齢が31歳だから我がチームでは最年少になる。バレー経験は他の多くのママさんバレーボーラーと同じで中学や高校で3年間(実質2年半)やってきたぐらいで、若さのパワーはあるが技術力が不足というレベルである。レベルはどうあれ、部員数13名の我がチームでは、紅白試合もできないし、公式試合の時でも試合に出れるのは11名が良いところ。私の構想で、20名ほどに部員を増やそうと考えている。数年経てば、50歳だけでのチームもできるし、AB2チームが形成されれば、ママさんに一番不足しているゲーム練習が具体的な課題をもってできる。
歓迎会が終盤にかかった時に、誰かが「もう一人、入部希望者がいます。先日の町のバザーで部員募集のチラシをまいていて問い合わせがありました」と話し始めた。小さなお子さんがいるらしい。小さなお子さん、乳児、幼児、児童、いずれも歓迎。なんとなれば、私が保父さん(今は保育士というようだ)をやればよいだけだ。そのうち、育児が本分になり、コーチは若い男性になっているかもしれない。意外とお似合いだったりして・・・。

7/21(木) お別れの会

 台風に急ブレーキがかかり、太平洋上に右折して、その後、北上していくようだ。気温が急に下がり、今日なんか、26度で半袖では少し涼しいくらいだ。
 夕方は築地にある本願寺に行った。東洋高校で一緒に後援会理事をなさっていた方のお通夜が6時から営まれた。享年79歳であった。その後、学校関係者も集まり、16名でお清めに行った。場所が東京の築地である。至る所、鮨屋さんの看板がある。その中でも、玄関に灯篭のある鮨屋さんの別館に入った。久しぶりに頂く本格的な寿司に舌鼓を打ち、9時には自宅に戻った。
 明日は、我がママさんバレーチームの暑気払いがある。早く床に着いた。

2011年7月21日木曜日

7/20(水) 2011関東私学高校バレー開会式



 勤務する会社が、この大会に協賛している関係もあって、今日は朝から会場の町田市総合体育館に千葉県船橋市から出かけた。二時間かけて会場の近くのJR成瀬駅に着いた。午前中に体育館内でブースの設営に入り開会式を迎えた。

 開会式の間、出場チームの監督さん達と談笑した。男子で東洋高校の監督は来ていたが、東亜学園は生徒も会場にいないので、プログラムで確認したがチーム名が載っていない。参加していないのだ。お膝元、東京都での開催であるから、できれば東京都の私学は参加して欲しかったのであるが、来週にはインターハイも開催されるので調整のために東亜学園は参加しなかったのか・・・、残念である。女子では東京都の八王子実践が、4年前から参加していない。

 参加条件に、3年生も参加させること、とある。この条件を完全撤廃することや、インターハイに出場するチームに限り3年生が出なくともOKとする懐の深さを実行委員会が示しても良いのではないかと私は思う。

 きょうは、都心のホテルで日本バレーボール協会の新会長である中野さんの就任お祝いの会も開かれた。日本協会も今が大事な時である。新会長の手腕に期待している。

(画像は、昨年の大会開会式風景。100チーム以上が一堂に集まるこの大会は、バレー界では間違いなく参加チーム数では、日本一の大会である)

7/19(火) 我がママさんバレーチームの練習に変化が 

 17日~18日に渡っての全日本実業団9人制女子バレー見学は、無駄ではなかった。特に、18日にママさん達を連れて見学に行ったが、この人たちの記憶も新たな翌日の練習日、つまり今日だが、格段の進歩をやってのけた。
 今まで、ネットプレーからトス、リバウンドからネットプレーと私が口を酸っぱく言っていても、良く理解してくれなかった。ところが、昨日の決勝戦を見て、納得したのであろう、ネットプレーの応用をやってから、いきなりトスとスパイクを付けて行ったのだが、結構、形になっていた。これができるようになれば、次はリバウンド・スパイクの打ち方を指導して、そのボールをネットプレーにしてトスにするだけである。
 セッターの位置もランニングセッターにすることで、切り返しを速くすることも視野に入ってきた。ブロックに跳んでからセットするというのは、ママさんにとってはやはり難しい。フェイント専門レシーバーとランニング・セッターを兼ねさせた方が切り返し(カウンター・アタック:反撃;スパイクレシーブからの攻撃)は早くなる。
 そんなことで、一流のプレーを見ることで良いイメージが見る人に移っていく。芸術の世界でも同じことで、一流の本物を身近に見たり、触れたり、聴いたりすることが育成には必要だ。
 サーブ練習のときに、面白い光景を見た。9人制のゲームを見に行った人達は、普段のサーブはサイドハンドなのに、今日に限って、短距離からの基本練習のときには、オーバーハンドでのフローター・サーブに切り替えていた。オーバーハンド・フローター・サーブに憧れたみたいだ。そのうち、ジャンピング・フローターを教えてくださいなどと40歳後半のママさんが言ってくるかもしれない。そして、私は指導しちゃうかもしれない。

2011年7月18日月曜日

7/18(祝) 2011全日本9人制バレーボール実業団女子-2




 本日は、小平市民総合体育館にて、準決勝と決勝戦があった。1ヶ月前から、この大会は見に行こうと決めていた。9人制のトップレベルは、実業団バレーである。この他に、全国大会で、社会人、クラブ、総合、櫻田杯があるが、昨年の千葉国体で9人制がなくなってからは、実業団のバレーが9人制の最高峰大会であると、私は思っている。
 1年に1回は最高のレベルの試合を間近で見ることは指導者にとって大事である。最近の技術、戦術の傾向もその場でわかる。また、指導者、関係者との最新の情報交換もできる。せっかく、東京都で開催される最高峰の大会をママさんバレーの人たちにも見てもらいたかったので、千葉市の我がママさんチームにも声をかけたところ、4人が行きますということになった。
 昨日からゲームを見たり、役員と情報交換したりして、次のようなことが分かった。出場チームは、震災などの影響もあり、東北からまったく出場チームがなく最終的に30チームのみとなったこと。レベルとしては、上位の6チームほどは高いレベルを維持しているものの、中間層のレベルが低くなった。下の方は更にレベルが下がっていた。会場には節電の関係もあるが、クーラーが入っていないので、選手のコンディショニングは決して良くなかった。また、観客への配慮も細かいことは言いたくないが、もう少し全国大会にふさわしい華やかさが欲しかった。
 さて、決勝は関西ブロック同士の戦いとなり、大阪府のパナソニックエナジー(松下電池)が2-0で兵庫県の富士通テンを振り切った。パナソニックの攻撃は全日本女子を上回るスピードで展開されている。セッターの手にボールが入った瞬間には、A、Bクイッカーはジャンプしていて、更にレフトスパイカーも踏み込む寸前で誰がスパイクを打つのか予測もできない。ブロック・ワンタッチを身を挺してトスにするレシーバーの技術やリバウンドからネットプレーへの9人制ならではの技術を6人制はもっと参考にすべきである。ママさん達は、本物の9人制を見て、ただただ驚いていた。
 体育館を出て、JR国分寺の駅ビルのなかの「武蔵野茶房」という一寸洒落たお店に入ってママさん達は特大のパフェを、私は特大のかき氷を注文した。かき氷は、本当に大きく、食べきれないほど量があtった。かき氷は、冷たさで頭がガンガンしたものの、生来の意地汚さでなんとか食べ続けた。黒蜜と練乳とソフトクリームの甘さが、食べ終わっても、しばらくねっとりと口の中に残り、今夏はこれでかき氷は十分過ぎるほど堪能したと感じた次第であった。


(画像は、決勝戦での両チーム紹介。私が9人制バレーを教えて頂いた石川島播磨重工業や富士電機、神奈川中央交通の日本一を争ったチームが既に廃部になっているのがなんとも寂しい。会場では、久しぶりに石川島播磨の元監督である石野さんの解説を聞きながらゲームを観戦した)

7/17(日) 2011全日本9人制バレーボール実業団女子-1

 本日は、休養日のはずであった。昨夜、昔の教え子から連絡があった。今回の実業団大会に宮崎県から「田中外科」というチームで出場している。本日、予選グループで勝ち残ったので、明日、応援に来てください、という内容の電話であった。名前を思い出しながら、本棚のファイルをめくってみた。平成9年に埼玉栄高校に入学してきた里美という子である。
 身長は162cm、ジャンプ力だけはあるが、これと言って特徴のない、口数が少ない子であった。何故に九州の宮崎県から、当時埼玉県高校女子バレーで、まだベスト8が最高の成績の埼玉栄高校に入学してきたのか、その理由は聞いたことがなかった。平成8年から、埼玉栄高校でそこの監督から請われて外部コーチを週2回やっていた。里美達、新一年生が入学してきたあたりから、チームも強くなっていき、関東大会予選では、県大会では、創部以来初めてベスト4に入れるようになってきた。
 当時の埼玉県は、男女とも全国的にレベルが高かった。栄高校にも、他県の1位チームが練習試合にやってきたが、2セット連続して取られるということはなかった。その時の栄の攻撃は、強打は少なく、相手の裏をかく、どちらかというとフェイク(誤魔化し)的なバレーであった。例えば、バックの選手が囮でクイックに入るときもある。サーブ・レシーブのフォーメーションが巧妙で、誰がフォワードか副審も間違うようなフォーメーションを形成していた。強打のフォームからフルスイングでのチップスパイク。体の向きと全く逆の方向へのハーフ・スパイク。守備では、わざとブロックを空けて、今でいえばリベロに相当する1年生ながら上手なレシーバーにスパイクを打たせる。サーブは、全員違うフォームと位置から個性的なサーブを打たせた。
 思い出話はそのくらいで、会場の一つの羽村市に電車で2時間かけて出かけて行った。チームは東京都代表の日野自動車に惜敗した。その後、宿舎のホテルに帰る電車の中で30歳になった里美と色々なことを話した。「じゃあ、元気で。台風が近づいているから気をつけて」そんな言葉をかけて立川駅構内の中で別れた。手土産を持っていったのだが、手渡すのを忘れてしまった。宮崎から16歳で関東の埼玉県にやってきた理由も聞き忘れてしまった。

2011年7月16日土曜日

7/16(土) そして再び三郷市に




 本日は旧姓飯田高子さんこと神白(かじろ)さんが8年ほど前に創設した「神白杯」に伺った。神白杯は、年3回開催していて、この日はママさんを中心に小学生バレー、中学生バレーの計24チームを集めての交流大会であった。小学生、中学生にまで配慮して地域貢献活動しているところが並みのママさん交流大会と違うところだ。市の教育長も挨拶に見えた。行政のできないところを軽やかに、さらりとやってしまうところが飯田さんの凄いところだ。

 飯田さんの指導されているクラブが主催者となって交流大会はつつがなく進行していく。クラブからは3チーム出して、メンバーも来賓の接待に、本部活動に、ゲームにと、休んでいる人はただ一人としていない。私も、チームの方から要望があれば、ベンチに座って多少指導などさせて頂き、3チームのベンチに座らせていただき、メンバーとともにハラハラドキドキ感を味わわせていただいた。それにしても、同じ体育館の屋根の下で、小学生バレー、中学生バレー、ママさんバレーを同時に見れるというのは、なかなかない光景である。

 小学生のあのか細い子たちが、近い将来このようになり、結婚してあのように逞しくなるのか・・・女の一生を見る思いとはまさにこのことか・・・。我が国の将来は女性に掛っていると云っても過言ではない。我が渡邉家の将来もカミさんと娘二人に委ねられている。「21世紀の渡邉家のお父さんは、外にバレーの指導に行き、女性達は家の大黒柱になり・・・」22世紀の昔話では、そのように語られるでしょう。

 明日は、自宅静養で、明後日は本日から国分寺で開催されている「全日本実業団女子バレー9人制大会」の決勝戦に行く。そうそう、今朝、日本バレーボール協会から訃報のメールが入った。元JVA専務理事で審判規則委員会委員長などを歴任された山岸紀郎先生が15日の未明に闘病の末に亡くなられた。まだ65歳の若さであった。合掌。

(交流大会の後の体育館内でのお茶会で、三郷ママさんクラブの皆さんと記念写真。私の右隣が飯田さん。むむ・・・177cmの飯田さんの方が165cmの私より座高が低いというこの事実は・・・)

2011年7月15日金曜日

7/15(金) モントリオール金メダリストのあの人に会いに

 モントリオール・オリンピック女子バレーチーム金メダリスト主将と言えば、そうですね、飯田高子さんですね。当時でも珍しい大学(中京大学)卒のプレーヤーでした。チームの主体は日立で、天才型の選手が多く、これをまとめるには飯田さん(当時、ヤシカ所属)しかいないと監督の山田重雄さんは悟ったんですね。その飯田さんは、埼玉県三郷市にてママさんチームを一つのクラブで3チーム指導している。50歳になって習い始めた水彩画も65歳の今は、玄人はだしの域に達している。
 きょうは、その飯田さん指導するクラブを訪問した。メンバーは30歳代から60歳代半ばまで、皆元気だ。せっかくの機会なので、私は積極的に指導させていただいた。まず、アップでネット・プレーをやってもらった。ネットの端から端まで、ボールをネットに当てながら落とさずに連続して移動していく。コツは、ネットの真ん中を目がけて下から上方に当てるのである。これが、できてくると、一度上方に上げて、ネットに当てることを連続する。更に次のステップは、2人でネットを挟んでネット・プレーを連続する。これができるようになってくると、スパイクでリバウンドを取って、ネットに当てて、逆サイドにトスを上げるという9人制ならではの戦術が生かせる。
 練習を終えて、メンバーの数人と一緒にファミレスで昼食兼おしゃべりタイムとなる。この時ばかりは、私は聞き役に回る。マンさん達の最大の楽しみは、お口に食物を入れることとお口を使ってお喋りをすること。男はそれを遮ってはいけない。 遮ると、自分が攻撃される。
 その後、飯田さんと二人きりで、あるお店に向かった。怪しいお店ではない。それは、近くの整骨院で、マッサージと低周波で、長年酷使して痛めた古傷周りの筋肉や靱帯をチリチリ・ブルブル刺激してもらうためである。治療を終え、お互いに満足な笑みを浮かべ、三郷駅で別れた。
 そして私は、我がママさんチームの練習のために千葉市に向かった。本日は13時間、ママさんバレー漬けの日であった。明日は、・・・また三郷に行くんだね、これが。

2011年7月14日木曜日

7/14(木) やったね!なでしこ達!

 FIFAワールドカップ準決勝で、なでしこチームがスェーデンを3-1で破って、日本サッカー史上初めての銀メダル以上が確定した。いやはや、大したもんですな、大和なでしこは!
 彼女達に追い風を与えた一つに、3.11で被災した同胞のくじけない姿があった。なでしこ達は、被災者と一緒に頑張ったとも言える。
 ひるがえって、13日の朝日新聞に次のような記事が載っていた。『五輪経験者らがアジアオリンピック評議会総会を控えた12日にフォーラムがあり、五輪経験者達は東日本大震災の被災地を訪ねたことを通じ「スポーツには困難を乗り越えたり、元気を与えたりできる力がある」などと訴えた』。私はこの記事を読んで違和感を覚えた。思いあがってはいけない。スポーツが被災された人々に勇気や元気を与えているのではない。被災さされた人たちの諦めない、くじけない、負けない心や態度がスポーツにアスリートに力を与えているのだ。4ヶ月も自宅を流されたり、帰れずに、非日常を強いられている被災者になでしこ達は心を寄せている。勇気をもらっている。「与える」などという言葉は不遜な態度である。
 演劇の世界でも「感動を与える役者になりたい」という人がいるが、感動は与えるものではなく、感じてもらうものだと思う。我々の指導もそうだ。指導は教えることではなく、面白さを感じて、自発的に学んでもらうことが指導ということではないか・・・むむ・・・本日は、なでしこ達の活躍に触発されて気分が高揚しているぞ。
 それに比べて、政府の体(てい)たらくは、醜態は、痴態は、失態は、醜状は、遺憾!政治ワールドカップというものがあるとすれば、菅ジャパンは予選リーグにおいて、オウン・ゴール(自殺点)で惨めな敗退であろう。
 ありがとう、大和なでしこ達!17日に、もう一つ上を目指してみませんか。

7/14(木) ママさんバレーの千代田クラブへ




 ここのところ月1回コーチングに行っているあのセレブの千代田クラブさんを訪問した。先週の交流試合でこのチームの課題が見えた。それはサーブである。サーブが攻撃的になっていないのである。


 そこで、さっそくサーブの基本から練習に入った。意外と皆さん知らないのが、打ち手の形。そこで、色々な手の形をゲンコツから平手まで数種類を紹介して、その中から自分に合うものを探して身に付けるように指導した。実際、打たせてみると、コントロールが良くない、ボールが回転する。この原因は不安定なトスにある。右利きであれば、例えで言うと、打ち手がアタッカーでトスを上げる手はセッターである。セッターのトスが不安定であれば、アタッカーも打ちにくい。サーブは一人でトスを上げて一人でボールを打つスキルである。眼を閉じてもできるものでなくてはいけない。ということで、安定したトスを上げるコツを悪い例を示しながら懇切丁寧に指導した。自分でもこんなに丁寧に分かりやすく指導したのは1か月ぶりのこと。よそ様のチームに指導するときは優しくなる・・・。


 千代田クラブの本拠地は、千代田区神田鎌倉町にある区立体育館である。地名に「鎌倉」が入っているのは何故かわかる人は手を上げてくださいな。そうですね、江戸時代このあたりは江戸の町を造るために、相模の国(現在の神奈川県)は鎌倉から木材や石を商人もろとも運んできた御濠の岸壁だったんですね。直ぐ近くには、鎌倉橋が高速道路の真下にある。時代小説作家の佐伯泰英さんのベストセラーである『鎌倉河岸(がし)捕物控』はこのあたりが舞台だ。「合点だ!」十手持ちの政冶の声が聞こえてくるようだ。


 帰り道は、古本屋街を通って御茶ノ水駅に向かったが、途中の古本屋で辞書を購入した。以前から欲しかった『類語辞典』である。新刊であれば、3,600円が1,000円安く、お買い時とばかりに買った。類語辞典を活用して、今後はこのブログも言葉が豊富になるであろうことを期待しているが、その前に、それぞれの事象に最適な言葉を選択するセンスが問題となる。そのセンスが私にあるかどうかがハムレット的な悩みである。


 小唄調で・・・♪センス(扇子)は~ない~が、ウチワ(団扇)~は、あるがね~♪ 


 いずれにしろ、猛暑の今夏はセンスもウチワも売れるでしょうね。


(画像は、体育館前にある説明看板。江戸時代に、私もちょいと行ってみたいものだねえ)

2011年7月12日火曜日

7/12(火) FIFA女子ワールドカップUSAvsBRAを観て

 一昨日の市民ソフトバレー交流大会で右足首を少し捻ったみたいで痛みがあったので、今夜のソフトバレーの練習を休んだ。代わりに今夜は、女子サッカーの準々決勝を観ていた。最近2回の優勝は、なでしこJAPANが一昨日勝利したドイツで、その前はUSAなんだね。延長前半で世界ランク3位のブラジルが2-1とした後半戦のあと数分というところでUSAが驚異的な粘りで同点とした。その後は、これがサッカー特有なんだが、PK戦というゴールキーパーとキッカーの一騎打ちというのが行われる。バレーで言うと狭いスペースでのリベロとアタッカーとの一騎打ちみたいなもの。結果はUSAの勝利。
 ブラジルのシュートを止めたUSAのゴールキーパーの名前がソロという。キーパーは一人だからソロ(スペイン語で一人の意味)はキーパーに向いているのであろう。お見事な反応であった。
 さて、バレーボールの話になるが、Vプレミアのチームで、会社の業績の関係で休部になるかもしれないチームの噂話が出てきた。確かに売上、利益、株価などを見るとあまり芳しくなく、グローバル経営にも乗り遅れて順調というわけでもない。日本では、一つの企業でチームを持つ時代ではなくなってきているのかもしれない。親会社の業績に左右されず、チーム自体が経営体として自治体、複数の企業、大学、医療施設などと連携して地域住民の生活の中に溶け込んで行くスポーツ・タウン・クラブのようなクラブが求められているのかもしれない。
 スポーツでマネーを稼ぐことがプロというのではなく、スポーツで、まず自立できることがプロ化というのではなかろうか。おっと・・・本日のテーマは、これではなかった。USAと日本が決勝で戦うようになれば、またゲームを観たいものだ。
  

7/11(月) 暑い!



 乳幼児、中高年齢者の皆さん、お元気ですか?梅雨明け宣言されたと思ったら、いきなり真夏日ですね。この時期が熱中症になりやすい時期なんです。暑さ対策に留意して、なんとかこの夏を過ごしましょうね。

 まずは、規則正しい生活と栄養バランスの良い食事、そしてスポーツですね。スポーツ活動には水分補給が大事です。人間の体の67%程度は水分ですからね。小まめな水分補給をしましょうね。

 (画像は、愛読者のKさんから久しぶりに送られてきた画像です。お花の名前は忘れてしまいましたが、花言葉は覚えています。『永遠の恋』ですって。刺激的な言葉ですね。「永遠の愛」はあり得ると思いますが、『永遠の恋』はあるのでしょうか?どなたかに現実的に教えてほしいものですね)

2011年7月11日月曜日

7/10(日) 船橋市民ソフトバレー交流大会に出場





 昨日は、関東地域が梅雨明け宣言で、本日も32度まで気温が上昇したらしい。今週は、30度チョイあたりの夏日という予報である。船橋市運動公園体育館にて19回目のサマー大会に出場した。19回ということは19年目である。私がソフトバレーの世界に入ったのは、20年前だから、私と一緒に歩んでいる大会でもある。この大会の創設には、私も絡んでいるが、ずいぶん昔の話で詳細は忘れてしまった。

 種別は混合が12チーム、レディースが16チーム、ファミリーが4チームの計32チームの参加であった。混合の年齢は20歳以上のフリーの部のみである。この年齢設定に対して、私はいつも改善を求めている。つまり、20歳以上の部だけだと、そのうち50歳以上の愛好者はゲームしても圧倒的に若い人たちに敵わないのでそのうち50歳以上は出てこなくなるから、10年フリーの部をやったら40歳以上の部でも作ったらいかが、と言い続けてきたのである。果たして、50歳以上は年々少なくなり、今回も50歳以上は我がチームの5名のみであった。春の交流大会では40歳以上の部を設定しているのであるから、できないことではない。役員さん達、参加者満足を初心者や高齢者の目線で考えていただきたいものである。ソフトバレーはNO.1が称賛されるスポーツではない。ソフトバレーはプレーそのものを楽しむスポーツである。その結果としてNO.1があるのみである。ソフトバレーの楽しみ方は色々あってよい。強いチームのみ讃えるような交流大会になった時がソフトバレーの滅びるときである。

 何か、ソフトバレーの在り方論調になってしまった。結果は、12チーム中5番という成績で、40代男性が1人、50代男性が2人、60歳女性が3人のチームとしては良くやったと思う。来年の全国ねんりん(年輪)ピックが宮城県で開催され、我々「船橋大穴クラブ」が出場することが決まっている。恐らく、その大会で今の3人の60歳後半の女性達は交流大会出場からは引退であろう。結果として2回目の優勝ができれば嬉しいのであるが、私の肉体改造を更に進めなければいけない。筋トレの継続は決して生易しいものではない。総監督兼エースの私にとっては、幾つになってもメンバーから期待されて嬉しいもののトレーニングで悲鳴を上げているのですが・・・ありがたいものです。

 熱中症も出ず、交流大会は無事終了。

(画像は、参加者皆での撮影。今年は船橋市バレー協会の設立50周年のため、写真が必要だったのです)

2011年7月10日日曜日

7/9(土) 古希を祝う会




 古希とは、数え年で70歳のこと。またそのお祝いのことをいう。中国の唐時代の詩人である杜甫(とほ)の詩の中に出てくる一節から転用されている。当時の環境では70歳を迎えるということは稀(まれ)であった。この後の年代の言い方である喜寿、傘寿、米寿、卒寿、白寿、百賀とかはその後の近世の時代にできた言葉である。
 この日、その古希を迎えられた方がいる。9人制女子バレーの世界では重鎮である石川島播磨重工業(IHI)女子バレー部監督を25歳から55歳まで30年間務めていたのが石野浩康さんその人である。平成元年から6年ごろまで私も体育館に良く出入りさせていただいた。そして、Bチームに入りながら9人制バレーを教えていただいた。そのことが、6人制バレーやママさんバレーの指導に随分と役に立っている。
 9人制バレーから6人制バレーに応用できるものとして、ブロックワンタッチしてチャンスボールになった場合、もしくは相手チームからチャンスボールがくる場合、6人制ではほとんど必ずと言ってよいほどセッターに返す。しかし、9人制ではブロックはワンタッチとして数えるルールなので、すぐさまトスにする。例えば、このようなときに6人制に応用する場合、セッターに返さずサイドのアタッカーにトスを上げるのである。もし打てないようなトスであったり、ブロッカーが2枚付いていれば、センター(ミドル)にセミクイックトスを上げれば一般的にノーブロックとなる。早さには2通りある。直線的にスピードが早いトスと方向を変える速さがある。我々日本人が目指すのは後者の方向を変える速さではないか、と考えている。ミュンヘンを制したのは一つには移動時間差であった。セッターの手から離れるトスボールの速さだけでなく、セッター以外でもトスワークができる器用性・巧緻性ができ、リベロを使わなくとも全員スパイカーで複雑に絡んでいくのが日本のこれからのバレーの一つ、と私は考えている。それは、石野さんから学んだ9人制のスキルや戦術を生かしてできると確信している。温故知新である。
 さて、古希を祝う会であるが、JR田町駅の近くで催されたが、参加者は50名ほどで、ほとんど教え子のかつての選手たちであった。遠くは鹿児島県からも駆けつけていた。初代の選手の出身校は、中村高校、松蔭、日体桜花、その後に佼成学園が加わり、鹿児島城西など。昭和の終わりごろからは下北沢成徳、順心学園と全日本高校優勝校が続き、春日部共栄、細田学園と埼玉勢が加わってきた。
 石野さん、次は喜寿を祝う会ですね。今指導中の日体大9人制、文教大学6人制の活躍をお祈り申し上げます。


(画像は、昭和の終わりごろ入社の教え子達との記念写真。アラフォーの世代より下の年代である。子供も中・高校生。私も来年は還暦だ)

7/8(金) お中元




 私が若いころ、お中元は日頃お世話になっている方や、目上の方に差し上げるものでした。このところ、私も年を取ったのか、人様からお中元を頂くようになりました。しかし、ほとんどの相手の方が年上なのは何か変だな、と思っているのですが、いずれにしろ、返礼でお前の土地の名産を送ってきなさいと催促されている気もするので返礼を出すようにしています。まあ、物々交換みたいなものです。


 この日、千葉県千葉市幕張地区にある我がママさんチームのメンバーから、練習後にお中元を頂いた。自宅に帰って包みを開けてみると、お菓子と陶器を頂いた。お菓子はカミさんあてで、陶器は私にということらしい。


 さっそく、その陶器でビールを飲んでみた。マンさん達の思いやりが白色の柔らかい泡となり、のどごしが良い。


(青碧色の器が夏の暑さを一時でも忘れさせてくれるようで気にいった!)

7/7(木) 東京オリンピック女子チーム12番目の選手とは?

 1964年(昭和39年)の東京オリンピックのメンバーの名前をこのブログお読みの皆さん、全員のお名前を当てるのは難しいでしょうね。河西さんはキャプテンですから言えますね。では、12番目にギリギリに入った選手を知っていますか?実は藤本佑子(ゆうこ)さんなんです。現姓は内田さんといいます。
 そのユウさんと本日、新宿から小田急線で各停2つ目の駅の参宮橋で下車して歩いて10分のところにある日本青少年センター体育館でお会いしたのです。実に15年振りでした。正に、生きている東洋の魔女、いえいえ、本当の魔女になっていました(失礼!)。
 本日、青少年センターに行ったのは、あの千代田区のセレブのママ達のチームが内田裕子さんらしき人が主催するママさん交流大会に参加するというので伺った次第だったのです。そうしたら、内田さんが本当にいました。いやあ、懐かしかったですね。
 実は、30年前に私の勤務する会社が東洋の魔女や日立のOG選手を講師補助にして全国的にバレーボール教室を展開し始めたのです。日立からは、江上由美、森田喜美枝、石田京子などが講師補助で手伝ってくれました。私のネットワークが形成され始めた時期です。講師の中村四郎先生、渡辺康行先生、鈴木紋吉先生、杤掘申二先生、豊田博先生、森田淳悟先生や彼女達と知り合えたことは、私の財産です。
 内田佑子さんも補助講師の一人で、日本全国あちこち私もアテンドと補助講師の仕事でご一緒させていただきました。当日はユウさん関係のチームが18チーム集まりママさんバレー交流大会を楽しんでいたのです。聞けば、年2回開催していて、既に8年ほど続いているとのこと。
 それで、セレブの千代田クラブさんですが、やはりこのチーム勝負にガツガツしていません。本当の勝負は、夕方からの懇親会とばかりお色直しをして再登場して普通のママさん達とは違う魅力を振りまいていました。私もその毒気に当たったのか、千代田クラブさんだけの二次会まで突入して60歳以上の先輩OGに講義まで頂き、無事自宅まで辿り着いたのでした。
 内田さんに再会できたこともうれしかったが、他にも八王子実践高校でセッターをやっていた子とか、私が高校チームのコーチを初めてやった市立船橋高校の1期生の子とか20年振りに再会できたのも嬉しかった。高城さんのお嬢さん(40歳を過ぎたかな?)からも声をかけらられたのも驚いた。高城さんは旧姓増尾光枝さんといって、1962年のモスクワ世界選手権大会の優勝チームのエースアタッカーであった。そのお嬢さんが大阪の四天王寺高校に進学し、お母さんの後に続きユニチカに入社していきなりエースアタッカーとして活躍。その2年後に腰の故障で引退して東京のお母さんのもとに帰ってきた。名前を高城薫(かおる)という。目の前に現れた薫は、相変わらず逞しい体格(176cm)をしていた。
 なんか、東洋の魔女の内田佑子さんが魔法を使ったのか、懐かしい選手達に会わせてくれた。70歳過ぎても、まだまだ元気なユウさん、10月の交流大会にも来ることを約束してお別れした。

2011年7月4日月曜日

7/4(月) 小学生バレー埼玉県男子代表は?

 埼玉県で小学生バレーを指導している山下さんからメールが入った。総監督を務める男子バレー部が県大会で優勝して全国大会に出場が決まった、とのお知らせであった。決勝戦までのスコアも入っていた。失セットゼロで、中には零点で完封しているセットもあった。
 ラリーポイント制で零点で封じるというのは非常に稀なケースである。数年前の黒鷲旗杯でVプレミアの久光製薬が大学界でインカレ優勝経験もある東北福祉大に1セット目零点で封じたことは、ニュースになった。25-0ということは、一人のサーバーが24回か25回連続して行ったということである。練習でも緊張した状態で24回、25回連続して入れることはトップの選手でも難しいことである。公式戦でそのようなことができるとは非常に稀なことである。その選手も集中力があると思うが、指導者も立派である。特に小学生の指導において、このようなことができたのであるから驚いてしまう。
 今年の小学生バレー全国大会は見に行けない。私がFIVBの講習会で受講中だからだ。今年のチームは相当に強そうだ。チャンスがあるときはそのチャンスを生かして、日本一を目指してほしい。

7/3(日) 休日は実家へ

 久しぶりの休日なので、カミさんの実家に行った。実家は船橋市の自宅から電車で2時間のところにある千葉県旭市にある。3.11で死者が10数名でて全・半壊の家屋も100近く出た。実家は内陸の方であったので、幸い被災はなかったが、関東圏で一番の被害が出ていることは、全国的にあまり知られていない。
 実家では、年老いた義母、義父が普段できないような力仕事をやってきた。大した力仕事ではないが、私にできることはそんなことぐらいだ。カミさんは、パートの仕事を済ませてから車で毎週、三日間、泊りがけで行っている。自分の親とはいえ、よく尽くしている。介護疲れをしなければよいがと心配している。
 私の親は母親が私が小学校に入学する前に既に眼の前から去っていた。離婚したのである。父は後妻を娶り弟が生まれた。その新しい母親は、私が小学校3年生の時に突然消えた。アパートの大家さんと駆け落ちしたのだ。幼い弟としばらくは夜遅くまで父が帰ってくるのを借家で待っていたことを思い出した。その幼い弟も数ヵ月後に母親に引き取られ東京に行ってしまった。父は、私が高校を卒業した年の4月に突然この世を去った。享年47歳であった。12年前に、私が47歳になったとき、自分の父親の亡くなった年齢に到達したとき、何か妙に変な気分であった。母親のその後の消息は知らない。亡くなれば、親族が知らせてくれるであろうから、まだ存命なのであろう。生きていれば、80歳前後なのであろう。
 何だか、昔のことを思い出してしまった。私も、いつ突然この世に「さようなら」するかも知れない。少しずつ昔話を残しておくことも悪いことではないであろう。誰が悪いのではない。人は哀しい生きものなのだ。

2011年7月3日日曜日

7/2(土) 東洋高校の外郭団体の総会

 東洋高校に外郭団体が4つあることは、以前紹介した。そのうちの一つに「さいかち会」がある。会員は400名ほどであるが、卒業生の親御さんたちが会員である。「さいかち」は学校の裏手にあるさいかちの木が連なるさいかち坂に由来がある。
 本日は年1回の総会がある。4時半ごろ、総会会場の学校のホールに向かった。少し時間が早かったので、男子バレーの練習をのぞきに行ったが、丁度終わって生徒は下校したあとであった。そこで、職員室に行き、総監督、監督、部長と挨拶を交わした。そこに理事長兼校長や教頭が集まってきてインターハイの話になった。気軽に職員室には入って行ってはいけないのであるが、放課後ということもあり、30数年来学校にお邪魔している厚かましさで時には許していただいている。
 総会も淡々と進み、私が新副会長に承認されたりで、その後、別の会場で40名ほどで懇親会を開催し別れた。

7/1(金) ママさんバレーに最適な美しくなる筋トレ

 毎週金曜日は千葉県千葉市幕張にある私がコーチするママさんチームの練習日。コーチに就任してもうすぐ1年になろうとしている。大会での目立った成績は、まだ出ていない。ただ、成果は出つつある。メンバーとの信頼関係ができつつある。指導する場合には名前やニックネームで呼べるようになった。遠慮もなくなってきた。週2回の練習に毎回顔を出せないので監督ではなく、コーチと読んでもらっている。毎週金曜日の練習の進め方は、3か月ごとのテーマをメンバーとともに意識しながらやっている。
 先月から練習試合を意識して多く入れてきた。その中で気がついたことがある。練習試合は普段の練習でできないフォーメーションや戦術の確認をやるのであるが、他の同じようなレベルのチームと比べて体力がない。スタメンの平均年齢が46歳ぐらいなので年々体力が低下しているのは判るが、あまりにも体力がない。サーブ時のスピード、スパイク時のパンチ力、レシーブ時の低い姿勢の維持と速い反応力。自宅での筋トレを具体的に指示しているもののこちらも厳しくチェックしているわけではない。
 そこで、この日から練習の中身を変えた。終わりの15分を筋トレに当てることにした。鍛えるところは腿(大腿四頭筋、ハムストリング筋)、大殿筋、腹背筋。勿論、私も一緒に行う。
 私の敬愛するバレーの指導者でFIVB(国際バレーボール連盟)公認インストラクターで足立龍哉さんという国際的に活躍している指導者がいる。8月に18年振りに日本(新潟県)で開催されるFIVB公認コーチコース(レベル1、2)の主任講師にも彼が決まった。その彼がいつも主張している考え方が「心・体・技」。日本の武道の考え方であると「心・体・技」である。
 「体(フィジカル」は技術の前段階で身につけておくべきことである、と私も賛同している。勿論、小学生の場合は、身体発育論から言うと神経系が一番発達する時期なので、技術練習(テクニカル・スキル・トレーニング)をコーディネーション・トレーニングの中に入れて行うが、成人の場合の初心者には「心(メンタル)」、つまり、やる気・動機ができれば、次は「体(フィジカル)」つまり筋力トレーニングが必要なのだ。筋力があれば、「技(スキル)」の習得は難しくはない。乱暴な言い方であるが、パワーをコントロールに優先して考えていきたい、ということである。
 そんなことで、筋トレを練習時間にやると宣言したのがこの日であった。メンバーも納得した。納得した訳は、「美しくなる筋トレ」という言い方をしたところが受け入れてくれた理由のようだ。ママさんバレーは「勝」の文字よりも「美」の言葉に弱い生きものであるようだ。 

2011年7月2日土曜日

6/30(木) 私学大学の経営とスポーツ学部の新設

 久しぶりにK氏から昼食のお誘いの連絡を頂き、お会いした。K氏とは年に数回お会いして、我が国のスポーツ全般のお話を伺っている。
 この日の話題は、数年後に開設されるあるマンモス私学のスポーツ学部についてであった。日本の大学で最近スポーツ関係の学部・学科を新設する大学、特に私学大学が急増している。国立では筑波と鹿屋だけであるが、私学になると、ここ10年間で急増して、調べただけでも23校ある。しかし、文科省の設立基準を満たしているだけで、教員の資質、授業内容、卒業の進路に不安のある大学名も結構あるようだ。一時の福祉・医療関係の人気だけで学生を募集している風潮に似ている。
 従来の体育系単科大学も話の中で出てきた。「体育」は人気がないらしく、「スポーツ」の名称が頭にあれば入学者は増えると関係者は考えている。
 医学部のない体育系単科大学は今後入学者が減ってくるのではないか。私からは、そのようなことを申し上げた。医学部がなければ、せめて医療学科を併設するか他の医療単科大学と提携することが今後の大学の生き残りのために必要なことではないか。病院を持つスポーツ・体育系大学・学部に対して信憑性を持っているのは私だけではないであろう。
 今後、スポーツ・体育系大学のなかで廃れていく大学、伸びていく大学の見極めがK氏との話の中で明快に見えてきた。やはり使命感のある人がキーマンである。しかし、利権が渦巻いている組織の中で人は豹変したり、敗れ去ったりする。ここのところは、大学も企業も変わらない。しかし、大学は将来の日本を創っていく人材育成としての教育の場である。学生は、単なる企業の商品とは違う。大学人は、文科省は、そこのところをしかっリと押さえておかなければならない。

6/29(水) 北志賀高原から会社に出勤

 今日は、午後から御茶ノ水にある勤務先にて大事な会議がある。朝8時にホテルタガワを出て、長野駅から新幹線にて東京駅に向かった。
 ホテルを出る前に朝食時に参加者のママさん達にお会いした。向こうは、私に「おはようございます」と挨拶してくる。しかし、顔が思い出せない。体育館のコート上の顔とも昨夜の盛り上がった懇親会の顔とも全く違う普通の小母さんの顔になっている。こちらは多少どぎまぎしながら、「はてさて、誰だったかな~」と内心首をかしげながらも、元気に挨拶を返す。
 12時半に東京駅に着いた。暑い!いや、熱い!何なんだ、東京のこの異常な暑さは!?梅雨はどこに行ってしまったんだ?
 この日の夜は、バッタンぎゅーと眠りに落ちた。

6/28(火) 祐造杯追悼大会ー2







 昨夜は、土曜日から肝臓が悲鳴を上げていたので、夕食後早々に自分の部屋に引き上げベッドに横になった。おかげで疲れも取れ、本日のスケジュールを無事こなし、夕方からの大懇親会に突入した。

 大広間は参加者320名の熱気と年輪?でむんむんしている。大会成績と各賞の発表。副賞の授与と続き、地元民の太鼓演武では演奏者におヒネリや投げ銭も飛び交う。中には割り箸にご祝儀を挟んで若い演奏者めがけて演台に駆け上がるママさんもいる。そして、カラオケの時間が来た。昨年、私はソロで1曲、デュエットで1曲の2曲だけであったが、今回はデュエットのリクエストが3曲もあった。下手な私の歌の後は、出し物が始まった。バレーの練習時間を削って出し物の練習をやってきたというだけあって、フラダンスや日舞には感動した。感動を通り越して、開いた口がふさがらないほど驚いたのがAKBのパフォーマンス。

 懇親会の締めは、祐造さんと仲の良かった練馬区のIVY畠山さんが祐造さんの遺影に向かって話された。締めの言葉は「中村先生、サヨナラ」。まったく湿っぽくなく、「私達、もっと元気になってバレーを楽しむから、先生またね」と言っているような感じを受けた。

(画像は、AKBに扮して踊る平均年齢65歳の参加者。手作りの衣装にも感心したが、動きが若い。透けるスコートから見えるバレーボールのハーフパンツがなんとも艶めかしく、この夜はなかなか寝付かれなかった) 

6/27(月) 中村祐造追悼ママさん寿大会in北志賀高原




 ミュンヘンオリンピック(1972年)男子金メダリストで主将の中村祐造さんが昨年突然亡くなった。まだ60歳半ばであった。今年の第5回祐造杯ことぶき大会は、追悼大会となった。会場は、昨年までと同じ長野県北志賀高原にあるホテル・タガワの付属体育館。


 会期は、本日から3日間。初日の今日は、元全日本女子監督の岩本先生と一緒に教室と交流練習試合。参加チームは、遠くは四国を始め、兵庫、大阪、静岡、神奈川、東京、千葉、埼玉そして長野県から28チームが参加した。申し込みが多く、先着に漏れたチームが15チームもあった。これらのチームは来年最優先で参加できる権利を差し上げるようにした。


 今回で5回目のこの教室・大会であるが、第1回と第4回にもディレクターと講師の二役で招聘を受けている。寿(ことぶき)大会と言うのは、全国大会もあるが、年齢が60歳以上のママさんバレー大会のことである。今回の参加チーム数28チームで総員320名。平均年齢は65歳。最高年齢は79歳。チーム平均年齢№1は72歳のチーム。明日はこの方達が本気モードでゲームを行う。


(画像は、後ろ姿をパチリ。後姿だけ見ると40歳半ばと変わらない。身長も170cm台が多くなってきた。動きもローリング・レシーブもあれば、速いテンポのクイックもある。10年前と比べて、鋭角的にコートに突き刺さるスパイカーも多い。5年後は、この方達は間違いなく平均年齢が70歳になる。ママさんバレーはますます元気になる。日本の女性スポーツは大きく変わり、ビジネスも変わっていくのは間違いない)