2012年1月30日月曜日

1/30(月) 取材を受ける

取材を受けたと言っても、新聞や雑誌の類ではない。それだったら、どんなに楽で良いか・・・。今月に入って、「ソフトバレーボールの本」が出版されることをここのブログでも伝えた。編集者がソフトバレーを見たことも、やったこともないというので、先々週から2回、墨田区のジールと言うクラブで体験して頂いた。練習後の懇親会(飲み会?)も含めて、これがソフトバレーの正しい?楽しみ方である(笑)、と解説した。その編集人は、「また、来ます!」と、すっかりソフトバレーの虜になったようだ。
 そして、本日から3日間10時間ほどかけて私に取材して編集作業に入るとのことだ。私の方は、1ヶ月後に定年を控えて、まだ有休があるので、幸いに取材に十分対応できる。
 面白いソフトバレーの本ができそうだ。このブログの読者で、こんな場合の練習法はどうしたらよいかなど、ご要望があればコメントを寄せてほしい。お願いします。モデルも募集しています。ただし、墨田区立体育館で撮影するので近場の人が宜しいですね。カメラマンも一流なのでカラーでバッチリと顔の表情の隅々まで写されることを覚悟しておいてくださいね。画像が満載の本なので解りやすく、4月の発売が楽しみだ。

1/29(日) 投稿数 666回を記録しました!

2009年5月から、グーグルでブログを再開して、今回で666回となった。特別な思いはないが、なにか数字の面白さがある。
 きょうは、Vチャレンジリーグの総当たり1回戦終了での1位2位を決める大事な試合があった。また、全国的に高校バレーの新人戦決勝も行われた。私は、躊躇なく、Vチャレンジの会場の一つである茨城県結城市に向かった。会場は、先週ソフトバレー交流大会でも訪れた鹿窪(かなくぼ)体育館である。但し、きょうは電車で向かった。小山駅で接続に45分もかかることがわかった。次の駅まで電車で8分なのに・・・タクシーで行こうと思って、結城市のバレー界の親分である望月さんに電話をして、車で行ったらどのくらい時間がかかるか尋ねたら、「迎えに行くから待っててね」ときた。さすが、義理と人情の望月さん!思いがけず、早く体育館に着くことができた。
 ゲームは3試合行われていて、3試合目が、1位2位を決める重要な試合の上尾メディカル(埼玉)と日立リヴァーレ(茨城)の対戦であった。先の2試合は、正直言ってレベルは今一つの感があった。しかし、これは、指導者のレベルではなく、チーム環境が、十分に整備されていないからであろう。練習時間は高校・大学時代と比べて半分以下の練習量であろう。シーズンオフだと、週に2回から3回の練習日しかないというのがVチャレンジのほとんどのチームの実態であろう。
 2ゲームが終了して、休憩の合間に、GSSサンビームズ(東京)の主将を務めているミナミが本部席に座っている私を見つけて、椅子の側に膝を付けてしゃがんで話かけてきた。彼女は、大和南高でミドルブロッカーとして活躍し、東海大学に進学した後も活躍した。
 「幾つになった?」
 「25です」
 「そうか・・・もう少しできるな!?」
 「はい。もう少しやろうと考えています。ただ、私にとっては、シーズンオフには練習量が少ないので、飯塚先生が監督をやっている相模女子大に練習行っています」
 この日は、彼女のお母さんも娘の応援に見えていた。更には、大和南高の卒業生で東海大学を今春卒業する河野も柏エンゼルクロス(千葉)に就職するとのことでチームと一緒に来ていると聞いた。河野(こうの)は、12月のインカレでレフトに抜擢されて大活躍した。彼女が中学生で高校に入学してきた時もパワーだけはあったが、現在はVプレミアでも十分通用するだけの高さとスキルも身に付けている。これからますます期待が持てる選手だ。
 第3ゲームが始まる直前に、新潟県立中央高校女子バレー部監督から電話があった。県新人戦の決勝を先ほどやって、初優勝しました、とのことであった。私は、昨年末の28日から3日間、年が明けて7日から3日間、合宿と練習試合に一緒にいた。そして、ある程度の手ごたえを感じていた。
 「おめでとう。しかし、インターハイの予選は6月。新入生が入って、チーム力も新人戦と違ってくる。これからが、本当のスタートだから気を引き締めてやって行こうね」
 優勝の瞬間の子供たちや、親御さん達の笑顔が眼に見えるようだ。良かった・・・。
 さて、肝心の第3ゲームであるが、結果は3-0で上尾であった。日立はスタメンの多治見麻子も欠場して元気がなく、全日本エースの江畑も決定打が少なかった。

2012年1月29日日曜日

1/28(土) 船橋市バレー協会創立 50周年




 記念式典と祝賀会が夕方から開催され、私も出席した。会場は、西船橋駅から歩いて2分のところにある普段は結婚式場などで使われているところだ。西船橋駅近くに住む私にとっても好都合であった。10年前の40周年では、市協会の指導普及部員として活動していた私も表彰された。今回は勤務先のスポンサー活動に対して感謝状を社を代表して頂いた。出席者は300名ほどであったか、中学校の関係者が一番多く、次いでママさん、ソフトの順であった。

 私のバレー協会や連盟関係の役員のスタートは、ここ船橋市協会がスタートであった。40歳になった時に、当時の副会長であった雨宮先生(大穴中学校女子バレー部監督で県ベスト4常連)に夜の部のソフトバレーの指導を依頼されたのがきっかけであった。船橋市ソフト部の役員、千葉県ソフトバレー連盟の指導普及委員長、千葉県バレーボール協会の指導普及委員長、そして日本ソフトバレーボール連盟の審判規則委員長、日本バレー協会の審判規則部員と携わってきた。

 壇上での表彰式を見ながら、そんな20年前のことを思い出していた。そろそろ、次の世代へのバトンタッチの時期である。

 『権腐10年』という言葉がある。10年も同じポジションにいると、利権によってその人間は腐ってくる、という意味である。私には、今の役職にいても利権などは皆無であるが、大きな組織のトップに君臨するような人には、当てはまる言葉かもしれない。いずれにしろ、私は、今のポジションをあと1,2年で交代するために次の人材の育成に入っている。活性化していかなければ組織は発展していかない。発想を変えていかなければいけない。発想が変わらなければ、人そのものを代えていかなければならない。


(画像は、来賓挨拶での県協会名誉会長の新堀先生。私が初めて県協会の指導普及委員会メンバーに入った時に、当時会長であった新堀先生(千葉大名誉教授)は役員会の後、二人きりでの赤提灯での飲み屋にしばしば誘って頂いた。先生の口癖は「俺は日本選手団の団長を何回もやったが、全部が共産圏なんだよな・・・先進国なんか行ったことはない」。「先生・・・それは、失礼ですが、先生の頑強なお体は共産圏向けと日本協会がお考えになったからではないですか」。「渡邉君、君もそう思うかね・・・確かに、俺は何を食べても、選手は下痢しても俺だけピンピンしていたものな・・・ガハハハ」。3年前に、私は先生の母校の大学の大学院を修了して、先生の後輩となった。先生は、そのことを自分のことのように喜んでくれた。もうすぐ80歳になろうとしているが、60周年もピンピンお元気でいることであろう)

2012年1月28日土曜日

1/27(金) ロンドンオリンピック出場決定!

私は、1975~77まで北アフリカにあるアラブ人の国のTunisiaにいた。日本の外務省外郭団体である日本青年海外協力隊からの派遣で同国としては日本からの初代の隊員としてバレーボール指導に当たっていた。
 指導していたチームが国内で初優勝して、ナショナルチームのコーチに招かれた。ナショナルチームは、その年のアフリカ選手権やアラブ選手権でも優勝した。
 4日前にエジプトの首都カイロで開催されたロンドン予選を兼ねたアフリカ選手権大会でTunisiaは8年振りに優勝して、オリンピックの出場権を獲得した。TunisiaもEgiptも昨年春のアラブの革命で国内はまだ混乱しているはずだが、スポーツの絆を感じながらプレーしたことと思う。
 Tunisiaの今のプレーヤーは、私が指導していた時のプレーヤーが指導者になっての教え子だ。TunisiaからLondonは距離的にさほど遠くない。多くの国内指導者も応援に行くであろう。私も行きたくなった。

1/26(木) 企業スポーツの将来は?

きょうの朝刊各紙のトップに『NEC5,000人削減』と大きな見出しが出た。今期1,000億円の赤字になる見通しと2期連続の無配が遠藤社長から発表された。更に5,000人の業務委託も打ち切るということだ。
 2009年も3,000億円の赤字を出し2万人のリストラを実施した。この時、社長も現在の遠藤さんに代わり、男子バレーボール部も休部になった。しかし、事業環境の悪化に歯止めがかかっていない。10,000人もの人員削減をして、女子バレー部やラグビー部の存続に影響が出ない訳はない。
 女子バレー部は、現在Vプレミアリーグで全敗の最下位だ。業績不振のカメラのヤシカから選手達が日本電気(現.NEC)に移籍して30年近く経った。日本リーグでもVリーグでも優勝を飾り、数多くの全日本選手を輩出した名門チームだ。まずは、ここから意地を見せて全勝して欲しい。一戦一戦がトーナメントの気持ちで戦うことだ。
 我が国のスポーツ競技力向上は、学校部活、地域クラブ(柔剣道、スイミング、体操など)そして企業スポーツに大きく依存してきた。企業スポーツはバブルの崩壊以降、休部・廃部が相次いで発表された。海外は国が直接強化するステートアマや地域スポーツクラブが中心になって強化している。
 我が国の企業スポーツは更に衰退していく、と指摘する人は多い。特に、大企業はビジネスの活動が世界中、つまりグローバルな活動になってきているので、国内でしか人気のないスポーツには見向きもしない。サントリーやトヨタなどのような超大企業が企業文化としてスポーツを捉えている企業はほんの一握りだ。中企業では、その時の経営者の哲学でスポーツを支援しているが、経営者が代わればスポーツに対する支援はなくなる不安定性がある。
 スポーツが音楽や絵などのように我々の生活に欠かせない文化として定着させる努力を継続させていかなければ、企業スポーツはますます衰退していくであろう。

2012年1月25日水曜日

1/25(水) 定年後のVolleyball活動 その1



 スポーツメーカーのミズノに入社して33年が経った。途中入社で、同期がいないので、始めの数年は話し相手もおらず、がむしゃらに仕事をこなした。仕事は高校バレーボールのトップチームにミズノ品を売り込むことであった。当時は夜行列車で行き、夜行列車で帰ってくる出張を繰り返した。3年目あたりで、東北6県のバレーボール協会の主要役員、トップチームの監督さん達から声をかけていただけるようになり、ミズノ品も使っていただけるようになってきた。

 おっと、しんみりと昔話をして、あと1ヶ月と1週間後に迫った定年退職の日を待っている余裕はない。バレーボールの指導には、定年はない。今までは、スポーツメーカーで、バレーボール・マーケティングの世界で働いてきた。次は、バレーボール強化のための指導、普及のための指導者の養成・育成にプロフェッショナルとして働いて行く。

 本日、パートタイムであるが、東京アメリカンクラブ(TAC)のヘッドコーチの契約について話し合ってきた。東京アメリカンクラブは、アメリカ人と日本人のための会員制社交クラブとして昭和3年に港区麻布台に設立された。外務省認可の特例社団法人として運営されている。2年前にクラブハウスが規模も大きく建てなおされた。

 このたび、会員のアメリカ人の親御さん達からTACに子女である中・高校女子生徒対象にバレーボールを指導して欲しいと要望が出され、私の友人がその情報を私に伝えてきたというわけである。私も丁度、英語をブラッシュアップして国際バレーボール連盟公認コーチ、更にはインストラクターとして活動を希望していたところなので、グッドタイミングであった。

 契約書の内容を確認して、サインをして、早速、2月中旬から指導スタートになる。取りあえずは、金曜日と日曜日の夕方から2時間だ。指導は全て英語。きょうの話し合いの相手は、香港生まれの女性のアシスタント・ディレクターで、私に配慮して、日本語交じりの英語で話してくれたが、子供達に対しては100%Englishで指導しなければならない。得意のおやじギャグはアメリカンスクールの子供たちに受けるであろうか?こうなったら、青年海外協力隊スピリッツをもって、フランス語なまりの英語で頑張るっきゃあない!

(画像は、前回の撮影では暗くてよく分からなかったが、TACを出るとビルの谷間から見える東京タワーの優美な姿)

1/24(火) 先週は週3日ソフトバレー三昧



定期練習日は毎火曜日。先週の金曜日は、プラスして墨田区で活動しているクラブのジールさんを訪問して、ソフトバレーの本の出版のためにモデルチームを依頼。日曜日には、車で往復6時間かけて茨城県結城市に55歳以上の交流試合に参加。そして、今夜は、定期練習と一日おきぐらいにソフトバレーを楽しんでいる。
 12月初旬から右肩に鈍い痛みが生じ、腕をフルスイングできずにいたのであったが、今夜になって、痛みが嘘のように引いている。ウオームアップ不足で肩の障害を生じたが、練習の中で障害を 治癒したようだ。
 練習ゲームでは、普段から主審とラインジャッジを置いて、審判活動も指導している。結城市での招待試合ではどこのチームも副審の任務が良く理解されていなかった。そこで、我がクラブでの練習ゲームでは、副審の練習も同時にやろうと、メンバーチェンジを1セットに必ず1回入れることにした。副審の吹笛、競技者交代時のポジショニングに普段の練習ゲームで慣れておけば本番でも動揺することはない。
 主審や副審、ラインジャッジを付けずに練習ゲームを楽しんでいるクラブは多い。しかし、ソフトバレーボールは相互審判制度を敷いているので、プレーだけでなく審判活動もしっかりとやった方が良い。審判がしっかりやっていればゲームも生き生きとしてくる。審判活動も含めてゲームに参加しているという認識を持っていただきたい。
 従って、閉会式の時に、プレーで優秀な成績を収めたチームを表彰するだけでなく、審判活動にもしっかりと取り組んでいたチームも評価してあげるべきと私は以前から考えている。10年ほど前から、優秀な審判活動を実践しているチームを対象にレフェリー賞を差し上げたいるのだが、あまり定着していないようだ。審判活動の意義をこれからも訴え続けていきたい。

(画像は、今朝の御茶ノ水界隈の残雪。東京では初雪であった。凍った歩道は油断すると転倒して大きな怪我につながることがある。会社に急ぐ人達は腰をかがめ足元を見つめながらつるつるした歩道を歩いて行く。私は雪国生まれなので、滑るように歩いて行く。口の悪い友人は、渡邉さんは6頭身の安定した体型だから滑らないんじゃないの、と言う。8時に会社近くの病院に入ってサラリーマン最後の健康診断を受けた。健康であれば何でもできる。やることは定年後も沢山ある。健康でありますように・・・)

2012年1月23日月曜日

1/22(日) 結城市ソフトバレー交流大会に参加

茨城県結城(ゆうき)市は、日本が世界に誇る絹織物である「結城紬」で有名だ。その結城市に望月さんというソフトバレーボールが大好きな茨城県バレーボール協会の役員がいる。この方は、東日本各地のソフトバレー交流大会には、必ずと言ってよいほど顔を出している。チームを引き連れ、時には一人でも参加する。その交流大会も、人がなかなか行けないような土地に行く。例えば、伊豆諸島の交流大会や山形県酒田市の飛島の交流大会などで、あの人なっつこい、ひよっこりひょうたん島のような顔でソフトバレーの魅力を周りの人に滔々と語る。
 その望月さんが会長をしている茨城県西南地区ソフトバレーボール連盟が主催する55歳以上の交流大会に本日は行ってきた。私の住む船橋から車で2時間半。途中で我がチームのメンバー6人を拾いながら、我が家のファミリーワンボックスカーで出かけた。年代は私が一番若く59歳で他は平均65歳のお兄さん、お姉さん達だ。気のせいかお姉さん達の座っている側が重く感じられた。
 行きも帰りも、車中で元気なのはお姉さん達だ。近所のお話から週刊誌の話題まで尽きることはない。会話が途切れたときは、寝ている。5分ほどして、またむっくりと起き上がって雀のように元気にさえずり始める。交流大会後の車中は、更にヒートアップして煎餅(せんべい)に、お茶に、甘納豆に、次から次て色々出てくる。車中は多種多様な匂いに包まれて家路に向かって行く。
 夕陽を見て、「あら、今日の夕日はまたなんて赤くてきれいね・・・」とうっとりした表情をしている。
 「いやあ・・・お姉さま方の美しさには負けますよ。試合には負けても皆さんの美貌は夕陽にも負けません」と私が言う。
 「あらあ、渡邉さん・・・良く分かっているじゃない・・・偉い!」
 まあ、そのような会話が延々と続きながら帰りは各人の自宅に送り届け、3時間かかって我が家に辿り着いた。コート上でもお姉さま達の相手ブロッカーだけでなく味方アタッカーをも振ってしまう変幻多様なトスにこき使われ、更には、お姉さま達の両腕でのレシーブは野暮に見えるのかシングルハンドでのアンダーハンドでコート外に大きく弾いたボールを必死で追っかけさせられ、車の運転も1人でやらされ、「さすが総監督よねえ~」と、おだてられ、きょうも一日が暮れていくのでした。
 疲れた!!

1/21(土) ITを活用したコーチング

8年前に知り合った友人に足立さんと言う方がいる。彼が日本バレーボール協会でM&Mという組織にいるときに知りあった。その前はフランスやスイスでFIVB国際バレーボール連盟公認コーチやインストラクターとしてバレーボールのコーチをやっていた。彼の存在を知った松平康隆さんが日本に20年振りに連れ帰った。M&Mを5年ほどで辞めた後、彼は以前のようにコーチとして、アラブや欧州のクラブチームの指導やFIVBインストラクターとして年に数回のコーチコース(講習会)講師の活動に戻った。
 彼のバレー理論には独創性があり、かつ分かりやすい。日本のバレー理論をベースにUSA、欧州の事情にあった指導体系を構築している。その足立さんが昨年からITを活用したコーチングやクリニックを行っている。
 本日の午後は、第5回目の「オンライン(生中継)・クリニック」の場に同席させていただいた。実際のコートは使わないので、プロジェクターや通信設備があれば小さなスペースで開催できる。会場は、新宿駅から歩いて5分のところにある貸会議室。ドアをノックして入室すると、パソコンが5台、ビデオカメラが3台並んであり技術者らしき人が3人、足立さんの助手が2人の6人が小部屋にいた。
 3時から5時まで、途中休憩を入れて、受講者からの3つの質問に答えるためにパワーポイント、既にビデオカメラで撮っておいた練習風景、FIVB主催の世界のトップチームのゲームを再現しながら足立さんのコーチングが始まった。
 今回のオンラインでの受講者は50名ほどらしい。受講者の中には中・高校の指導者だけでなく、Vリーグの監督もいるとのこと。オンラインの仕組みの詳細は時間がなく、聞くことができなかったが、ITを活用すれば、世界のどこからでも質問に答えて動く画像で答えることができる世の中になったんだな、と実感できた。但し、コーチングの知識だけ身に付けても、プレーヤーに伝えるスキルはまた別物だ。しかし、それも足立さんであれば「コーチング・スキル」のタイトルでテクニック論の次に指導してくれるであろう。大手のビデオ出版社からは今週あたりに駿台学園中学男子バレー部をモデルにしたテクニック論が出版されるとのことだ。
 オンラインを終えて、一杯飲みに行くような雰囲気であったが、お互いに次のスケジュールが入っていたので夕方には新宿駅で別れた。

2012年1月21日土曜日

1/20(金) ソフトバレーチームの『ジール』訪問

ソフトバレーボールの本を出版することになったことは、先週お知らせした。今夜は、編集担当者の吉田さんという女性の方に、まずはソフトバレーボールを体験して頂くために、墨田区で活動している『ジール』さんの練習会場に向かった。
 スカイタワーの見えるJR錦糸町の駅で吉田さんと待ち合わせ、その後に出迎えに来て頂いた墨田区バレーボール協会副会長の小林さんと合流した。
 練習会場は区立錦糸中学校体育館。コート2面で、この日は18名が集まり4チームを形成してゲーム形式での練習に入った。普段は30名ほどのメンバーがいるとのことだ。
 吉田さんは、普段ビーチバレーの雑誌を編集されているのでビーチバレーの経験はある。一緒にパスをやってみた。ボールが飛びすぎるので驚いていた。
 「吉田さん・・・、ソフトバレーの大きな特徴は、このボールなんです。ゴム製なので軽くて柔らかい。顔に当たっても痛くない。突き指の心配もほとんどない。恐怖感がない。硬いボールの5号球と比べてやや大きいのでスピードもさほどつかない。つまり、ラリーが続くんです。ラリーが続くと楽しくなり、運動量も増え、心拍数が上がり、血液の流れが良くなり、健康にもなる、というわけです」
 「ソフトバレーは、『誰でも』すぐプレーできる」ということで、吉田さんにもチームに入って頂き、4セットほどゲームを行った。私も日頃の運動不足を補うために5セットプレーした。
 練習体験の後、『ジール』のクラブハウスとも言うべき「小料理屋さん」に夕食を兼ねて、「編集会議」という名目で移動した。メンバーも7人ほど参加して、ビールで乾杯!から「編集会議」が始まった。吉田さんは、初めてのソフトバレー体験を目を輝かせながら話し始め、メンバーとすぐ打ち解けた雰囲気でお話は終電間近まで続いた。

2012年1月20日金曜日

1/18(水) 日小連総務委員長の山下さんと昼食

日小連(日本小学生バレーボール連盟)総務委員長の山下さんとは、4年前の全日本小学生バレーボール連盟主催の全国大会開催時に知り合った。埼玉県小連の理事長も兼ねている。きょうの昼食は、都内でご一緒にさせていただいてバレーの話題を交換した。
 今の時期は、どこの連盟も決算と予算や事業計画の報告と案の資料作成の準備に入っている。山下さんもこの2カ月は多忙な時期だ。
 私の方も、他人ごとではない。ソフトバレーボールの新年度のルールブックの第3次校正作業がある。3月の代議員会への提出書類がある。全国審判長会議と研修会の資料準備がある。

1/17(火) ソフトバレーの練習

先週は、練習始めであったが、仲間の1人がアキレス腱を断裂。応急処置や救急車を呼んだりで練習どころではなかった。従って、今夜が事実上の練習始めのようなものであった。今週末には、茨城県結城市にて55歳以上の部の招待試合があるので、参加する7人を中心にチームを組みゲーム練習を行った。
 この夜、私は来季発売予定の締め付けタイプのアンダータイツを身につけて練習に臨んだ。どうも動きにくい。サイズがワンサイズ小さすぎたようで膝の屈曲がスムーズにいかない。私には、どうも最新の機能性アンダータイツは似合わないし、受け付けないようだ。似合うのは、ゲルマン民族タイプの手足の長いすらっとした体型の若い人だ。おじさんの私が身に付けると、股引(ももひき)のように見えるようだ。
 そういえば、12月の末に新潟中央高校の合宿に行った時、新潟はとても寒かろうと熱発生タイプのアンダータイツを持参したのであった。布団に入る直前に私がタイツに着替えたら、高校の監督が可笑しさをこらえるようにして、口に手を当てて、こう言った。
 「ナベさん、その姿はプロレスのラッシャー木村を彷彿とさせますね」
 「失礼な奴だ。これを食らえ!」と、私は監督に両足とび蹴りをお見舞いした。
 まったく、その場に女子高校生がいたら、眼をパチクリさせていただろうにね。男って子供なんですよ。幾つになってもね。
 ソフトの練習から戻って、自宅に戻ったら、先週アキレス腱を断裂した仲間から経過連絡が入った。怪我をした翌日に手術を行い、きょうはギブスを取って金具の装置を付けて松葉杖で歩いているとのことであった。来週からリハビリに入るとも言っていた。最近の治療法が進んだのか、そこの病院の船橋整形が優秀なのか、私が9年前にアキレス腱を部分断裂した時と比べて2週間治癒力が早い。

2012年1月18日水曜日

1/16(月) トヨタ自動車の張さんのお話を聞く

母校の大学院でゲスト講師の授業を聴講した。私が現役の時も、授業にスポーツに関係する企業の社長や会長がゲスト講師として訪れてきた。今夜は日本を代表する超巨大企業であるトヨタ自動車代表取締役会長(4代目)の張富士夫氏であった。張氏は、また昨年の4月から日本体育協会の会長職に就かれている。
 張氏は、来月の2日に誕生日を迎えられ、75歳になられるという。雑誌などで良く見た八の字眉と吊りあがった細い眼が特徴的である。人生には数度、分かれ道があった・・・と青年時代に剣道の道に入ったことからお話が始まった。
 その後、トヨタ自動車の前身である自動織機を発明した豊田佐吉氏やその子息の喜一郎の業績の話に移って行った。喜一郎氏が、自動社産業は「経済波及効果が高い」故に『産業報国(産業は国に報いる)』ができると唱え、「3年でアメリカのBIG3に追いつけ(生産性を上げろ)」との号令を出した。
当時のアメリカの生産性は日本の10倍であったが、米国人が10人でやることを、トヨタは1人でやろうと考えて実行した。
 1943年に張氏はトヨタの生産方式を大野耐一さんから、更には鈴村さんから指導された。要は、無駄を省いて生産性を上げて行った訳である。 「仕事には付加価値があるが、無駄には付加価値がない」という。
 特に印象に残った言葉は「『なぜ』を5回繰り返せ」ということであった。5W2Hとは、良く聞いた言葉であるが、トヨタにおいては、5wだけであると張氏は言った。つまり、トヨタの5wとは、『why、why、why、why、why?』のことである。そのことで、現象の裏にある原因が分かり、更にその原因の真の原因が分かる、ということだ。
 原発のことにもアメリカと日本の違いのなかで触れた。アメリカにはリスク・マネジメントがあるが、日本にはない。そのことをケビン・メアーの本で知った、とも語った。
 最後には、経営論からスポーツ論に話は移って、2コマ分180分のお話は幕を閉じた。最後に「勉学もスポーツも、価値は同じ」と言われたことが印象に残った。スポーツ部活で日本一になることより勉学で東大に入ることの方が大事と言っていたT高校の教員に聞かせたい言葉であった。

2012年1月17日火曜日

1/15(日) 東洋高校さいかち会 新年会

東洋高校には外郭団体が4つある。同窓会、父母の会、さいかち会、そして3つの団体をまとめている後援会で構成されている。私は、さいかち会と後援会の2つに属している。さいかち会(父母の会OB,OG会)では副会長を、後援会では理事を務めている。
 今夜は、さいかち会の新年会であった。さいかち会は父母の会OB,OGと理事長・校長・教頭・事務長で構成されている。来賓は他の外郭団体の会長である。新年会は、毎年、都内のホテルで開催される。実は、私はホテルでのテーブル席での新年会が苦手だ。新年会は畳敷きの大広間が良い。自由に移動して人の話に割り行って会話ができるからだ。
 ホテルのテーブル席は、私にはどうも気取っているようで苦手である。2時間ほどで会が終わって、会場をいの一番に飛び出し、家路に急いだ。

2012年1月15日日曜日

1/14(土) 大学院の新年会

1年半ぶりに、大塚にある大学院を訪れた。地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅を降りて地上に出ると、懐かしい風景と完成した高層マンションの姿が目の前に広がった。東京では、2年間も経つと景色が一変するものだ。変わらないものと変ったものを見比べながら校門から校舎に入って行った。
 大学院の校舎も、2年前までは東京教育大学時代の建物を放送大学と一緒に使用していて、全面改築の間は、神田の方に移転していた。完成したばかりの新校舎に入ると、どこかのホテルのようにロビーは空間が広く取られてあり、アカデミックの匂いはなかった。講義室はガラス張りで中の授業の様子は、外から丸見えだ。
 この日は、通常の授業が、朝から行われており、講師は大学院修了者が非常勤講師として務めていた。これは、新しい試みということだ。きょうの講師はJOC(日本オリンピック委員会)で職員をされている1期生の方であった。
 教員の先生方にも久しぶりにお会いした。女子柔道界の女三四郎と命名され世界の大舞台で活躍された山口香さんも、母校のこちらで准教授で教壇に立っている。山口先生となつかしさで暫く談笑した。
 夕方から、3年前に創設した同窓会総会に出席した。その後、近くの大衆酒場懇親会となった。参加したのは30名ほど。大学院は、今年の春に10期生を迎える。毎年30数名の社会人(平均年齢40歳)が入学してくる。私は4期生である。この夜、同期は私を含めて2名だけであった。大学の教員や職員、日本体育協会、JOC、競技団体職員、元オリンピック選手、現役ナショナルチームの監督など多士済々だ。
 皆さんとの情報交換の中で、私が最年長のOBであることが改めて判明した。そして、私の定年後には、私には時間がたっぷりとあるであろうということで、どうも私に同窓会の事務局的な活動を期待しているのが分かった。社会の第一線で活躍されているこれだけの人材を、ただ単にネットワークを繋げているだけでなく、有機的に活用できないであろうかという期待・希望が出てきた。今春から専攻科長の任に着くであろう私の指導教官でもある菊幸一先生からも、新たな学会設立のお話も飛び出た。
 定年後の方が多忙になるであろう私ではあるが、世話役は決して嫌いではないので、お引き受けするつもりだ。アカデミックな場所もたまにはいいものだ。1つの事象を、複眼的に研究、検証することはコーチ学のためにも必要なことだ。
 来週の月曜日には、授業にゲスト講師としてトヨタ自動車、前会長の張氏が見えるとのこと。これは聴きに来ないといけない。一番前で聴講しよう。

2012年1月13日金曜日

1/13(金) ソフトバレーボールの本が出版される!




 勤務先のある神田には、書店が並んでいる。町で本を売っているところは「本屋」という。街で本を売っているところを「書店」という。書店の方が本屋より大きい。従って、古書を扱っているところは「古本屋」という。出版社も多い。小さな出版社から大手の出版社まで神田界隈には沢山ある。



 本日は全日本女子元監督の岩本洋先生から呼び出されて新宿まで行った。西口交番の前で会って、そこで紹介されたのが、大手出版社の編集者2人の方達であった。そして、落ち着いて打ち合わせのできるところに移動した。コーヒー好きの先生らしく、入ったお店は本格的な喫茶店であった。1杯で昼食のランチが食べれる金額である。

 打ち合わせは、ソフトバレーボール愛好者のために画像を沢山入れた解りやすい『確実に上手になるソフトバレーボール』(仮題)の出版のお話であった。確かに、今まで出版されている本は、指導者用のテキストの類で、字が多く、写真が少ない。もっと上手になりたいという一般の愛好者のための本がなかった。

 さっそく、打ち合わせが始まり、発行は5月と決まった。写真撮りは2月中旬。行きがかり上、私が中心となって原稿を書くことになった。私からの提案で、まず編集者の方に実際のソフトバレーボールを経験して頂くことにした。墨田区の全国大会にも数度出場した経験のあるチームに連絡したら、20日(金)夜7時の練習に来てください、との承諾を頂いた。

 なにやら、定年前になって、慌ただしくなってきた。編集者が帰った後、岩本先生はニコニコして、チーズ・ケーキセットを注文された。1セットで夕食代のお値段である。この後に、実はバレーの戦術に関する深~いお話があった。先生が小田急チームの監督として、日本リーグ(現在のVリーグ)で久光と戦った時の「落ちるサーブの使い方」に関する成功事例のお話であった。詳細は・・・また明日にしましょうか・・・。

(画像は、久しぶりに読者のKさんから送られてきた大黒天さまの像です。品川の七福神をお正月に回ってきたということです)

1/12(木) 東京アメリカン・クラブって知っていますか?



 午前中は、月に1回訪問する、千代田区のセレブママさんチームの指導。きょうは、明治大学バレー部OBの市川さんという方がお手伝いに見えられていた。この方、御年74歳のはずなのに、スポーツクラブで運動の力テストを受けてみたら、なんとデータは47歳を示していたとのこと。練習最後の40分間は6対6でゲームを行ったところ、この方は昔取った杵柄でチェストパスで楽楽とレシーブしてしまう。表情にはプレーしながら笑みさえ浮かべている。 「ママさん達、君達は、真似したら駄目だよ。これは昔のバレーの技術だからね」と、孫のような40歳代前後のママさん達に言い聞かせている。しかし、あのスキルはマネしようにもできない高等技術だ。

 練習を終えて、千代田区体育館近くの行きつけの中華料理店でメンバーと一緒に昼食を採った。市川さんはアキレス腱を両足断裂している。そこのところが私と共通点。

 「市川さん、運動能力が高い人は、アキレス腱を切るんですよね」

 「君は、良く分かっているね。そうなんだよ。お陰でジャンプ力が30cm落ちてしまった」

 「え~っ、それでも、あんなに動きが敏速なんですか?」

 「君ね、松平なんて慶応にいたけど、あんなもんじゃないよ、僕は」 それから、20分間、往年の名選手の名前が後から後から出てきた・・・。

 午後になって、港区にある東京アメリカン・クラブを訪問した。私は、3月に定年退職を迎えるが、そのアメリカン・クラブで指導者を募集しているということを友人から聞いて応募していて、きょうが一次面接の日であった。地下鉄日比谷線の神谷町駅を下車して10分ほど歩いて行くと、眼の前に警官隊が大勢集まっていた。何事かあったか?と辺りを見回してみたものの、通行人はゆったりと歩いているだけ。更に、辺りの上方を見上げてみると、国旗がなびいている。ロシアの国旗だ。なんとロシア大使館であった。

 警備の警官に聞いてみた。

 「東京アメリカン・クラブはこのあたりでしょうか?」

 「はい、このお隣です」

 なんと、ロシア大使館の隣にアメリカ合衆国関係の5階建ての建物がある?それって何?なんで? そんな疑問を抱きながら、正門まで行くと、大きな警備員室があって大男が立っていた。要件を言うと、入口が2つあるから、手前の方から入ってくださいと丁寧な口調で答えてくれた。警備員室から入り口まで100mあった。プレートの文字は当たり前だが全て英語だ。ここはアメリカだ。

 受付では、日本語で面会の要件を伝えた。出迎えてくれたのは日系らしいチャーミングな女性だ。受付から更にクネクネと廊下を曲がりmeeting roomに入った。そこには、またまた妙齢の女性が待っていた。その後お二人の説明で概要が判った。都内にある数校のアメリカンスクールの中・高校女子生徒にバレーボールを週2回指導して欲しいということであった。曜日は金曜日と日曜日の夕方から2時間。条件は、指導は全て英語でお願いします、ということであった。

 「私の英語は、大丈夫です。まかせなさい!」

 お二人は、それを聞いて安心したようだ。バレーボールは1895年にアメリカ合衆国で発明されたスポーツである。バレーボールの専門用語は英語。大丈夫!ハリーポッターを原書で読んでいる成果をいよいよ発揮する時である。(しかし、私って、ラテン系ですな・・・ハリーだって、まだ1巻しか読んでいないのに・・・) その後、体育館に案内され、5階にあるプールも案内して頂いた。25mプールを覆う透明なドーム屋根からは、直ぐ近くにある東京タワーが見えていた。晴れた日には富士山まで見えるらしい。

 2時間ほど、東京アメリカン・クラブにいて、従業員出口から退出した。次回は、ここからお入り下さい、と言われたものの、次回の二次面接に呼ばれるのかどうか・・・?

(画像は、オレンジ色にライトアップされた東京タワー。この姿はスカイツリーより美しい。お二人の面接官も美しかった。はたして、採用されて、週2日、同じ所でこの東京タワー見ることができるのであろうか・・・?)

1/11(水) 新潟県立高校女子バレー部 合宿 言い忘れ



 高校女子バレー部(県2位)の練習試合を手伝ってきました。

練習試合の合間に、私はおやじギャグばかり言っていないのです。

 例えば・・・
「喜怒哀楽という感情をむき出しにできない人は、ポーカーフェイスでプレーすることはできない。 若い君たちが自分の心を表に出せるようになることが、青春期には必要なんだ。今から、ポーカーフェイスでどうする!?」
 まあ、こんなように毎日が子供たちとの勝負です。世界的に有名な演出家の蜷川さんのように指導しています。「女優になれ!」ってね。
但し、大声で指導しますが、蜷川さんのように物は投げません。
『明るく!、元気に!、美しく!』をスローガンにしました。「明るく、元気な女性は、多少お顔の造りがどうのこうの、体形の曲線がどうのこうのであろうが、美しいのだ!男の子はそんな女の子を好きになるのだ!」
 これを子供たちの前で言ったら、子供たちよりも早く反応したのが、そばで聞いていた父母のお母さんたちでした。
 女性は「美」に弱いんですね・・・・。私は「美ール」に弱い。
(画像は、監督からお土産に頂いた地ビールの詰め合わせセット。持ち帰るのが重かった。感謝の気持ちが重みと共に肩甲関節辺りの筋肉にジワッと湧いてくる。新潟のお土産は酒類に限る、確かに。次回、監督が、千葉県に電車で来たら、お返しに何か重いお土産を気持ちを込めて探しておこう・・・)

2012年1月11日水曜日

1/10 ソフトバレーボール練習始め

今夜は、我がソフトバレークラブの練習始めだった。しかし、会場に着いたものの、ほとんど練習できなかった。仲間の一人がアキレス腱を切ってしまい、応急処置とその後の対応で私自身の練習は中断した。
 大穴クラブは、コート2面で毎週火曜日に活動をしている。1つのコートでは大会出場を目指すグループが、もう1つのコートでは大会には出場しないが、練習だけ行っているグループが存在している。年に数回、1年の練習始めなどのときには、2グループが混じってチームを作ってゲームを楽しんでいる。
 練習始めのこの日も、4チームを作って、主審も付けてゲームを始めた。しばらくして、ラリー中に60歳代の男性が、コート外に出て、しゃがみこんでしまった。チームメイトの女性が「何か、ボンという音がしたわよ」という言葉を聞いて、私は嫌な予感がした。アキレス腱かもしれない。
 悪い予感は当たった。本人に、うつ伏せになってもらって、両足のアキレス腱を触診してみた。左のアキレス腱は、ペコンと陥没して指でつまむことはできなかった。右は硬いアキレス腱が下腿三頭筋から踵骨(しょうこつ)までしっかりと存在していた。間違いない。
 練習会場の大穴中学校体育館に、今晩に限っては、もっと早く着きたかった。私の自宅から会場まで車で40分かかる。いつも、会場に着いたときには、アップは終了している。今晩のような寒い時期のウオーミングアップは念入りにしなければいけない。今晩は、十分走って、軽く汗をかいてからストレッチをやってもらいたい、と思いながらも、いつものように30分遅れで会場に着いた。館内に入っていくと、既にゲーム形式での練習をやっているところであった。笛を吹いて、全員に集合してもらって、新たにチームを作ってゲームを再開したところで怪我が発生した。ちょっと、悔やまれた。
 救急車を呼び、近くの船橋整形外科病院に運び込んで当直の医師に簡単な処置をしていただいた。奥様も病院に着いていた。怪我をした仲間には、明日、同じ病院に来ること、スポーツ保険のこと、職場への連絡などの確認を交わして、私は定時より40分遅れて帰宅した。
 冬場の練習では、十分なウオーミングアップを行ってから練習に入って欲しい。特に練習を長期で休んでいた場合は入念にアップを行い、なおかつ無理をせず運動量を落としてやった方が良い。アキレス腱の損傷は、仕事に大きく支障をきたす。軽い捻挫などはテーピングしておけば2週間ほどで治癒するが、アキレス腱は治癒するまで1カ月から2カ月かかる。松葉杖での生活も1ヶ月間続く。通称、ふくらはぎというが、運動前は、下腿三頭筋は十分すぎるほどストレッチ(伸展)して欲しい。そして、疲労感があるときは無理せず、練習を止めるべきである。アキレス腱を切る(部分断裂と完全断裂がある)ときの原因は複合的だ。疲労、ストレス、加齢などが複合的原因になって切る場合が多い。
 私は、50歳のときにソフトバレーボールの交流大会で部分断裂をやっていた。実は、その半年前の全国大会で優勝した勢いで、ほぼ毎週招待試合に出かけていた。50歳のアキレス腱は加齢で悲鳴を上げていたのであろうが、どこに行っても勝つ喜びに浸っていた未熟な私は、その当時、調子に乗っていた。
 会社は1カ月休むことになり、同僚に迷惑をかけてしまった。松葉杖でJR電車に乗っても、席を譲ってくれずに寝たふりをしている若い人もいた。逆に、私より年長の人が、席を譲ってくれた。出勤のために下車するJR御茶ノ水駅にはエレベーターもエスカレーターもなく、松葉杖での階段の上り下りは苦労した。特に下りでの松葉杖の操作は大変難しかった。JR御茶ノ水駅の周りには、恐らく日本で一番病院数があるにもかかわらず、この駅にはエレベーターもエスカレーターも無いことが、この時初めて解った(未だに設置されていない)。
 怪我をした仲間には、怪我を治療して2ヶ月後にはコートに復帰、そして復活してもらう日を待つしかない。あせらずに治療とリハビリをして欲しい。

1/7(土)~9(月) 新潟県高校女子バレー 練習試合



昨年というか、先週に引き続き、新潟県立中央高等学校に行った。春高バレーは、第3日目で、ベスト8が決まる。会場にいたいのは山々であったが、先週の合宿で、生徒の動機付けが上手く行きつつあったので、熱の冷めやらぬ前に、ということで新潟に行った。新潟市内は、意外と雪は積もっていなかった。しかし、気温は関東と比べて低く、最高気温は3度で最低はー2度。夜は雪になった。
 着いた日の土曜日は、高校の体育館が使用できなく、郊外にある中学校の体育館に練習試合のチームが集まった。この日は、山形、宮城から2チームが集まっていた。監督さん達は私も知っている先生方ばかりで、再会を喜びながら各チーム2セットの練習試合を行った。私は、この日は様子見で、アドバイスはしないで、中央高校のゲームを見るだけにした。ゲームの結果は、全敗であった。
 ゲーム後の練習で、サーブの指導を行った。「サーブはゲーム最初の攻撃」ということを白板に大書して、スピードサーブの打ち方を指導した。まず、白帯上部にボールの底1cmが触れるように、つまりネットインしながら、なおかつエンドラインでボール2個分アウトになるようにコントロールすること。スピードをつけるには、重心移動をしながらヒットすること。
 夜になって、中央高校に戻って夕食を採った。生徒達は宿舎内の大風呂に入った。先週、中央高校の監督と2人一緒に入った時はボイラーの調子が悪く、ぬるま湯に2人の肌が密着するほど接近して入浴した。今週は?ボイラーを修理したとのことで熱々のお湯が出ていたのでhotした(ほっとした:これは超高級おやじギャグ!)。
 2日目の日曜日には、朝一でまず長野県のチームがバスで到着。3時間かかったそうだ。その後、群馬県のチームが到着し、これで全5チームが揃った。全チーム、各県で2番手のチームばかりだ。1セット回しで練習試合が再開された。中央高校には、1セット毎に、戦術を指導していった。サーブで相手のレセプションを崩すためにはどこを狙えば良いのか。ブロックのタイミング、ディグ(スパイクレシーブ)のクイックに対する位置などを指導していった。一番力を入れたのは、メンタルの指導である。「『喜怒哀楽』をもっと出そう。自分の心の動きを仲間に見えるように体の外に出そう」。「得点したら、全員で声を出して、コートの中でぐるっと1周走り回ろう」。「得点したら、コートの近くで応援している仲間の下級生と走り回りながらながらタッチを交わしていこう」。「構える前には、足踏みを素早く5回やってから構えよう」。なんか、小学生バレーのような指導になったが、淡々としてプレーする中央高校の生徒には、このようにして体を動かすことで心が動き、プレーが元気に、明るくなることを体験してもらった。
 心が動けば、体も動く。体が動けば、心も動く。この日のゲームの結果は、群馬のチームにだけはセットを取れなかったが、他の3チームにはセットを勝ち越すことができた。練習試合の目的は、セットを取ることが目的ではない。普段の練習での課題を達成するために行うのが練習試合の目的である。
但し、そのセットを負けない気持ちでやらないといけない。
 この日から、レセプション(サーブレシーブ)のAパス(クイックができるセッターへの返球率)のデータ採取だけでなく、サーバーのボールスピードの計測を始めた。セットを14点~16点で取った時のチームAパス率は70%であった。セットを取られたときは40%前後という低い数値であった。
 最終日は成人の日。午前中だけ練習試合を行った。中央高校へのこの日の指導は、「落とすサーブ」を行った。ある程度のスピード(30数km/h)があって、レシーバーの手前で落ちるフローターサーブをやってもらったのだが、今までやったことがないらしく、なかなか落ちない。コツを伝授したが、直ぐにはできない。
 今週末には、中央高校は神奈川県の全国常連チームの高校で1泊2日にて練習試合を行う。私も顔を出す予定だ。「明るく、元気に、美しく」ができるようになったとき、中央高校がインターハイに行けるときであろう。

(画像は、父母後援会からお土産として頂いた日本酒「越乃寒梅」。お土産によく売れると「完売」となる。・・・おやじギャグはそれぐらいにして・・・。父母の方達も熱心だ。40歳代前半の昔バレーやっていましたというお父さんには、臨時アシスタント・コーチで球出しを手伝ってもらった。ご自分の娘さんにもマッハレシーブという恐怖のレシーブ練習の球出しをやってもらった。一寸、手加減しているようなので、私が交代して、3mの至近距離から強打を放った。お父さんは眼をつぶっていた)

2012年1月6日金曜日

1/6(金) 2012年 春高バレー2日目




 会場である東京都体育館の役員受付を過ぎ、体育館内に入った。最初に出会ったのは、斎藤勝(まさる)先生。東海大学特任教授で前体育学部長、前バレーボール部部長、前男子バレーボール部監督、元全日本男子バレー監督を歴任された。 昨日、ミュンヘンオリンピック金メダリスト監督の松平康隆氏の逝去のお知らせが日本バレーボール協会からあった。実際にお亡くなりになったのは、12月31日であったが、メディアに知らされたのは、昨日5日の春高バレーの開幕日であった。春高バレー創設には松平氏が中心になって奔走して実現した大会であった。世間に対しての訃報は開幕に合わせたのであろう。松平氏のことだから、死期を悟って、その日まで伏せるように遺言したのであろう。開幕の前に湿っぽくなってはいけないと氏の最期の配慮であったのかもしれない。

 さて、斎藤勝先生であるが、ミュンヘン金メダル獲得にはこの先生なしには語ることができない。当時(1972年)の全日本男子の平均身長は191cm。これは、ミュンヘン出場チームの高い順3番目である。当時の日本人男性の平均身長は166cmぐらいであろうか。高校のバレー部でも県大会に行って180cm以上の選手は大きいな、という時代である。それが、191cmである。選手の中には、まだ実績がない選手も数名いた。それらのただ大きい選手たちに170cm台の俊敏な動きを身につけさせてくれ、と松平監督から指示されたのが、トレーナーの斎藤勝先生である。

 俊敏性、動きの柔軟性、リズム感、タイミング、筋トレにもなるトレーニングということで、斎藤先生が編み出したのが「斎藤式トレーニング」。バレーボールに紐をつけ、安全マットの上でそれを回転させて、選手が跳び越える。半年後にはバック宙もできるようになった。そのアクロバック的なトレーニングは、ミュンヘンで金メダルを獲る前から世界のバレー界のみならずスポーツ界に衝撃を与えた。

 「斎藤先生、このトレーニングで一番手がかかった選手は誰だったのですか?」

 「南だね。当時33歳の最年長だったから、逆立ち歩きやバック宙はできるまでに時間がかかったね。先日ね、その時のトレーニング風景のビデオをDVDにダビング編集して東海大学の現役の学生に見せたんだ。ベテランが必死になって単調なダッシュなどを繰り返しやっている姿は若い人たちに感銘を与えたようだね」

 「先生、それ、私にも下さい。講習会で活用させていただきます」

 斎藤先生には、春高バレーの会場では、いつも側に座らせて頂いてゲームの解説をお願いしている。特に、先生の教え子である東海大学卒業生が監督しているチームのゲームになると、その監督の大学生時代のマル秘事項も飛び出して奥深い?解説になる。

 午後のゲームになって、東京第一代表の東洋は秋田県の雄物川に2-1で勝利。最終試合の8ゲーム目の大和南と第3シードの鹿児島女子とのゲームは青森インターハイフルセットの再戦で激戦となると思いきや、あっけなく大和南が2-0で勝利した。鹿児島女子は攻撃力が乏しく、ミスも多く、ちょっと拍子抜けした。試合後、大和南の前監督である飯塚先生、和美コーチ、学校の教員数名と一緒に宿舎のホテルのある両国まで行き、近くのちゃんこ料理店に入り夕食を頂いた。

 明日から3日間は新潟市に行く。新潟中央高校に隣県から数チームが集まり練習試合合宿を行う。今回の私の役割は、「戦術」を指導することである。特に、reception(サーブレシーブ)からの攻撃とfree ball(チャンスボール)からの攻撃、サーブのストレートコース打ちの3点を徹底して指導してくる。しかし、新潟は既に雪化粧で真っ白という。

 寒いだろうな、冷たかろうな、肩が凝るだろうな・・・しかし、お酒の熱燗は美味しいだろうな・・・。

 (画像は、東洋vs雄物川の対戦。実力は雄物川であったが、雄物川のあの高すぎるトスは何ゆえかその意図が判らない。3セット目、東洋のブロックはジャンプのタイミングを遅めにしてキルブロックに切り替えた。雄物川はどのような場合でもフェイントをやらない。正攻法といえばそれまでだが、ブロックの上からスパイクを打てる選手がいれば効果があると思うが、そのような選手は見当たらない。東洋はセッターの関田が相手のブロッカーを微妙に崩しながら速攻や時間差のセットアップをしている。東洋はこれでベスト16.明日はライバルの長崎県立大村工業との対戦だ) 

2012年1月5日木曜日

1/5(木) 2012年 春高バレー開幕



 3月20日開幕から1月5日開幕に移ってから今年で2年目であるが、まだリスムに乗れないのは、私だけであろうか?3月の春高バレーには、桜が咲き始めるイメージがあった。そして、いつも花粉症が付きまとっていた。時には大雪で地上の交通は全く機能せず、地下鉄の電車しか動かない年もあった。サリン事件と開会式が重なった年もあった。2000年の女子優勝の順心学園(現:広尾学園)には思い出がたくさんある。そんな多くの思い出のある春高バレーの会場にバレーボール関係業者として顔を出すのも今年で最後となった。会場の受付のところでは、勤務先名を記して入場した。

 受付で、静岡県男子の代表として何度も春高に出場された県立浜松湖東高校元監督の池田先生と出会って30分程その場で話し込んだ。池田先生は順天堂大学陸上部の出身である。バレーの監督に就任されて、隣県のトップチームに指導法を乞いながら強豪チームを作られた。池田先生との出会いは、かれこれ20年前になるであろうか、私が岐阜県立岐南工業高校男子バレー部の平田監督のところに訪問している時であった。池田先生は定年退職後、スリランカに渡りクラブチームを3年に渡り指導されて、昨年日本に戻ってこられた。現在は静岡産業大学男子バレーボール部監督に就任されている。現代学生気質で苦労されているお話を伺った。

 そこに、こちらも10数年ぶりであったが、岐阜県立岐阜女子商業高校、元監督の渡邉守夫先生と眼が合い、挨拶を交わした。20数年前であるが、お付き合い頂いた翌年に初めての全国代表決定の瞬間に立ち合わせていただいた。渡邉先生は、現在中部学院大学の特任教授、そして女子バレー部監督として就任したばかりという。

 そんなこんなで、ゲームを落ち着いて観るまでに、数十人の大会役員、諸監督と新年のご挨拶を交わした。この春高バレーこそ、国際大会を除いて、国内最大規模の大会である。会場には、小学生の指導者から、中学、高校、大学、Vリーグ、ママさん、ソフトバレーの指導者まで全国から集まっている。

 全国の色々な情報もここで交換される。元オリンピック選手も観戦に来る。きょうは、1967年世界選手権優勝、1968年メキシコオリンピック、1972年ミュンヘン銀メダリストの岩原豊子(当時ヤシカ)さんと役員席に一緒に並んで県立大和南と新潟県立新発田商業のゲームを観戦した。お話を初めて数分後、そこにミュンヘンでセッターの松村勝美(当時ユニチカ)さんが加わり、セッター論議となった。特にセッターの身長の話になり、全日本もセッターが高くならなければ、メダル獲得は難しいわね、との結論になった。お二人とも60歳をとうの昔に越えられているが(失礼!)、松村さんで173cm、岩原さんでも168cmあった。高校の試合を観戦していて「どこのチームも皆、ワンセッターね。ツーセッターのチームもあっていいわね。6年全員セッターっていうのもあっていいわね」などと仰っていた。岩原さんが現在マネージャーをされている貝塚ドリームスで育てた選手に今春高校に進学する白井美沙紀さんがいる。彼女は、神奈川県から全日本の選手になりたいという意思で貝塚ドリームに入った。昨年の全日本中学選手権大会でもエース・キャプテンとしてベスト4に入った。中学選抜の主将にも選出された逸材だ。

 身長は175cm、最高到達点は289cm。岩原さんは彼女にセッターとして全日本に入って欲しいと言っていた。実は、きょう会場で白井選手の父親である白井先生(松蔭大学女子バレー部監督)から呼び止められ、進学先を教えて頂いた。

 「東京か神奈川県の強豪チームに決めかねていたが、決めました。ついては、渡邉さん、本人の足形を見て最適のシューズを選んでくれませんか?」

 やはり親ですね。高校の練習は半端でないので、怪我が心配らしい。

 オリンピアンとそんな話をしているところに群馬県バレーボール協会役員ご一行が会場に着いた。懐かしい顔が見えた。関東バレーボール連盟(一都七県のバレー協会の集合体の呼称)で長年、審判委員長の要職を務められていた秋山先生であった。そして、田村恵弘さんのお顔もあった。田村さんは、東京三洋電気女子バレー部コーチ、東北パイオニア女子バレー部監督として活躍され、現在は豊富な指導体験を生かして、整体師として全国各地に出張治療に飛びまわっている。良い機会なので、田村さんに1ヶ月前から鈍痛のある私の黄金の右腕(失礼!)のことを相談した。鈍痛の原因はインピンジメント(使い過ぎ症候群)か、加齢による50肩なのか明確ではないのであるが、田村さんにお話すると、「ちょいと痛いが、びっくりするほど痛みがなくなるから。ちょいと手を出して」と治療を始めた。

 どうも指圧の一種らしい。「痛た、た、た・・・!」と思わず叫んだが、会場内の応援団の大歓声で私の悲鳴などかき消された。そして、あら不思議!肩をぐるぐるまわしてみても鈍痛はさほど感じない。料金は請求されなかったので、この時は、田村さんのお顔が仏様に見えた。

(画像は、仏様の田村さんのお写真であります。ありがたや・・・。正月のお参り時におみくじを引いたが「大吉」であった。1年の「大吉」の運もこれで全て使いきっちゃたかな?) 

1/3(火) My Volleyball Note



 6年前から、自分用のバレーボールテキストを作成している。始めは1ページからであったが、6年も経つと30ページほどになっている。見聞きしたことで参考になる練習法や出版物からの引用、新聞や雑誌などから出典を明らかにしてマイテキストに書き足したり、修正したり、削除したり、整理して自分なりのテキストを作成している。

 実家には、船橋の自宅の本棚に入りきれない本を木製の本棚4つに入れて蔵書としている。大した本はない。手塚治の漫画もあるし、司馬遼太郎の書籍やケンフォレットの小説、フランス語学習本など雑多に置いている。昭和50年代からのバレーボールの指導書も揃っている。どちらかというと、積んどくが多い。

 その中で、改めて手にとって新鮮な驚きを覚えた本があった。『中国バレーボール 理論と実践』(李安格 著、1990年ベースボールマガジン社)。748ページもある分厚い指導書である。価格は4,800円と結構高価である。1970年代はモントリオールオリンピック、世界選手権、ワールドカップの3冠を日本女子バレーが獲得した年代であった。次の1980年代は中国女子が名指導者の袁偉民の元、ロスオリンピックとワールドカップ2冠、世界選手権2冠の計5冠を獲得した。その直後に、この本は出版された。

 私はなぜこの本を購入したのであろうか?それは、監修者が杤掘申二先生(筑波大学名誉教授)だったからである。杤掘先生から「中国バレーのトレーニングの方針は『三従一大』」と聞いたことがあった。この本もその考え方で統一されている。そのときは、購入しただけで積んどくしていた。本の中には写真もなく、トレーニングの章で手書きらしい絵図があるだけで、やたら漢字の多い文章だけでページをめくっただけで、そのまま本棚に置かれていた。

 きょう、何気なく手にとって、今私が欲しているレセプションからの「カウンターアタック:反撃」の内容が事細かく書かれていたことに驚いた。カウンターアタックは、FIVB(国際バレーボール連盟)のテキストでは「トランジッション」と呼ばれている。レセプション(サーブレシーブ)からの攻撃、ディグ(スパイクレシーブ)からの攻撃、ブロックフォローからの攻撃に関しての考えと練習法がシンプルな図と共に1600通り載っている。

 積んどくも悪くない・・・。

(画像は、日本では珍しい中国バレー指導書の翻訳本。表紙、裏表紙とも中国とキューバの対戦の写真を採用している。この当時。両チームとも私が勤務している会社と契約していた。ウエア、シューズとも私も多少関わっていたので懐かしい。キューバの監督のウエルへさんとは言葉を交わしたことがあったが、中国の袁さんとはほとんどなかった。袁さんは監督引退の数年後には政治の世界に入り、日本語で言えばスポーツ大臣にまで昇進されて、中国のスポーツ界に多大な貢献をされた)

2012年1月4日水曜日

1/2(月) 平成24年の謹賀新年



 新年が明けました。本年も宜しくお願い致します。


 12月30日の夕方に新潟市の高校合宿から帰った私は、船橋市の自宅でより遅くまで大掃除。その後、パート帰りの家内と一緒に車で家内の実家のある千葉県旭市に向かった。1時間半かかって実家に着いたときは深夜の2時半を少し過ぎていた。そのまま、布団に入り寝入った。

 翌31日の朝は、実家の窓ガラス拭きで、2階から1階までピカピカに磨き上げた。昼からは、こたつに入って、これで1年の終わりとばかり大きな伸びをして、こたつの掛け布団に体半分まで入り込み少し寝入った。夜からは、恒例の「紅白」を観たが、選ばれた歌手の選考基準が良く分からないまま歌を聞き流した。除夜の鐘の音を聞きながら、居間で年越し蕎麦を家族6人で食べた。娘二人は、好みの歌手の主演しているTVを観る!という無言の視線を私に送ってきたので、私はそそくさと居間を立ち去り、2階の寝室に行った。

 60回目の正月を迎えた。年男だ。十二支の中で、辰つまり竜というのは唯一想像上の生き物である。西洋には竜に似たドラゴンという想像上の生き物がいる。「飛竜(ひりゅう)雲に乗る」という言葉がある。意味は、英雄がその才能を発揮する時を得る、というのであるが、飛竜にあやかって雲に乗りたいものだ。努力を怠れば、海中でユラユラと漂う「竜の落とし子」状態になろであろう。

 2日の本日午前中は、実家から歩いて2キロのところにあるJR旭駅まで歩いて、駅近くの新聞販売所で新聞3紙を購入して、駅前のモスバーガー店に入る。ここ10年、正月3が日恒例の行動である。この店で朝食のハンバーガーセットを頂き、3紙を読み比べる。2時間ほど店内にいて、昼ごろお客さんが多くなる前に店を出て実家にまた歩いて戻る。

(画像は、実家からJR朝日駅に行く途中横切って歩いて行く冬の田んぼの農道。車も少ないので、考え事をしながら、ボーっとして歩いている)