2011年5月29日日曜日

5/28(土) 三郷ママさん主催「神白杯ママさん交流大会」




 昨日に続いて、埼玉県三郷市にやってきた。昨日と会場は違い、本日は4コート取れる三郷市総合体育館である。特別ゲストに井上譲がやってきた。彼とは、順天堂大学で活躍していたときから知り合いである。彼は、その後日本鋼管でも活躍し全日本選手として1988年のソウルオリンピックに出場した。同期には熊田、川合がおり、甘いフェイスで女性ファンに大変人気があった。その甘いフェイスとしなやかな191cmの身長は変わっていなかった。今は日立の会社に勤務して田無市に住んでいるとのことだ。




 ママさんの交流試合が初まり、三郷ママさんチームや初めて紹介されたチームのベンチに臨時監督で座りアドバイスを送った。ママさんチームの指導者的立場にいる方に多少不足している知識が、戦術面だ。個々のスキル指導においては、そこらへんの中学校の指導者よりも知識もあり、教え方も上手だ。但し、戦術面を学ぶ機会が少ないのであろう、ママさん指導者の今後の課題である。




 この日も、セッターに指示したのは、自分が上げたいところに上げるのではなく、上げなければならないところに上げる意思を持つことを強調した。まずは、相手にマークされていても、自チームのエースに連続10回はトスを上げるべきである。ブロックでシャットされても、そこからエースが学んでいくので、何度エースがミスしてもエースにトスを上げ続けるべきである。セッターの仕事の一つは、自チームのエース初めスパイカーを育てることである。もし、セッターが新人であるならば、エースが連続してトスを呼ぶべきである。そしてなんとか決めて上げて、セッターを褒めながら注文をつけてセッターに自信を与えセッターを育成していく。




 そのほかに、指示したのはサーブのコース。まずは相手バックセンターのいるエンドラインの上を目指して、更にはエンドライン後方ボール2個分アウトになるくらいのスピードサーブを第1サーブとして打つことを強調した。9人制のサーブは2回打てる。1回目のサーブはダブってもかまわないから低空飛行サーブを打って相手レシーブを乱すべきである。能力があるのに、1回目のサーブから2回目のサーブ(安全サーブ)を実行しているママさんには、結構きつく注意する。この日も、作戦タイム中に「私は厳しいことを注文していますか?きつい口調で言っていますか?」と確認すると「いいえ!」と女子高校生のような反応をママさん達が示す。返事と行動には若干相違があるところが、ママさんらしいところであるが、返事に元気が出てくると、ママさん達の表情が引き締まってくる。動きにも機敏性が出てくる。そして、ゲーム終了時には良い結果も出てくる。ママさん達が全日本選手よりも優れている点は、この集中力のパワー。さすが、子供を産み育て、亭主を働かせ?家族を牽引し、地域にどっしりと根付いて日本を元気にしているママさん達である。昨日のママさんバレーライフといい、今日の神がかかりの集中力といい、教えられることが多い・・・。




(画像は、プログラム。表紙の絵は個展も開く腕前の神白さんの作品。優しい性格が絵から感じられる。交流会は、今回で21回目である。年3回ほど隣市のチームを招待して開催しているので、かれこれ今年で7年目になるのであろう。午後から私が、東京の東洋高校に移動する用事があり、体育館を出た。体育館の玄関先に立った神白さんが、いつもよりも長い間、姿が見えなくなるまで見送リ続けてくれたのが印象に残った)




 

5/27(金) 「三郷ママ」訪問

 明日も訪問するのであるが、明日は午後から東洋高校に移動するので、本日じっくりと三郷ママさんチームの練習お手伝い、そして代表者である神白高子さんとお話をするために朝から出かけた。

 三郷ママさんは、埼玉県三郷市内のママさんチームでも練習しているママさん達が30名ほど週1回集まって、神白さんから指導を受けている選抜チームである。神白(かじろ)さんとは、旧姓飯田さん。モントリオールオリンピック金メダリストにして主将として活躍したその人である。今年63歳になったのであろうか、今年初めには体調を崩され、そのことも心配であったので訪問した次第である。

 明日は、「神白杯」があり、三郷ママからも2チーム出し、計24チームが三郷市に集まってくる。前日ということでゲーム練習を中心に行い、私もアドバイスで参加した。

 練習後、ファミレスにて食事会。ママさんたちの食事会は、実に長い。2時間ほど午後のファミレスにいて、帰ろうかと腰を上げると、ちょいとマッサージに行きませんかとお誘いが来た。チームのキャプテン、神白さんと3人で、結局行きつけの若い整体師のいる整骨院にて1時間ほどマッサージタイムを過ごすこととなった。午前中はバレーボール、昼は食事会、それもデザートでは特大のフルーツパフェをほとんどのママさん達が注文して情報交換会(要は、おしゃべり会)。とどめは、若い男性達からのマッサージで1週間の疲れを吹き飛ばす・・・。これが、三郷ママさん式のママさんバレーライフということらしい。

2011年5月27日金曜日

5/26(木) ママさんバレー合同練習

 一般のママさんチームの練習時の人数は、多くとも12~13名である。個人練習をやって、さてゲーム練習をやろうという時に9人制のバレーボールは困ってしまう。ママさんバレーは9人制だ。ところが、自クラブ内でゲーム練習をやろうとしても人数が18名以上揃うというクラブは日本国中探しても非常に稀だ。従って、9対4とかのゲーム練習になって、あまりゲーム練習にならない。公式試合でのレベルも上がらない訳である。

 そこで、私は提案している。同じ地域の同じ練習曜日のチームに声をかけて合同練習をやりませんかと呼びかけよう、と提案している。本日は我がママさんチームの練習日ではなかったが、明日の定期練習日に体育館が使えなくなったので、急遽、懇意にしている歩いて数歩の中学校体育館で練習しているママさんチームとの合同練習となった。基本の再確認ということで、両チームに私がコーチングしてからゲーム練習に入った。人数は私を入れて16名。8対8のゲームを行った。私もプレーしながらのコーチで、いつもより息が切れる。

 ゲーム練習では、個人練習にはできないフォーメーションの確認ができる。人と人の間のボールの処理の判断が早くなる。生きたボールのレシーブができる。そして、何といってもゲーム練習は楽しい。そこでの失敗が成功のもとになる。昨日の『失敗学』の畑中先生の言葉を借りると「失敗は成功の母」ということになる。但し、失敗しっぱなしではだめで、失敗の原因を追求し、成功のためにあれこれ試してみることである。そのためにコーチが有益なヒントや励ましが必要になる。

5/25(水) 「失敗学のすすめ」の畑中先生



 「しかし、他の人の成功事例をマネすることが、必ずしも自分の成功を約束するのものではなくなったのが、今の時代です。昨日までの成功は、今日の成功を意味しません。そのような時代に大切なのは、やはり創造力です。そして創造力とは新しいものをつくりだす力を意味している以上、失敗を避けて培えるものではありません。


 創造力を身につける上でまず第一に必要なのは、決められた課題に解を出すことではなく、自分で課題を設定する能力です。与えられた課題の答えのみを最短の道のりで出していく、いまの日本人が慣れ親しんでいる学習法では、少なくともいまの時代に求められている真の創造力を身につけることはできません」(『失敗学のすすめ』畑中洋太郎著、講談社文庫、プロローグより)。

 10年ほど前に「失敗学」学会が設立されるとの記事が新聞に小さく載った。面白そうだなと、畑中先生の著書を読んで、合点した。人は、成功からだけでなく失敗からも多くのことを学べる。否、成功よりも失敗からの方がより多くのことを学べるのではなかろうか。しかし、人は失敗をなるべく避けようとして成功事例から効率的に学ぼうとする。



 政府が、福島第一原発の事故調査・検証委員会を作る。委員長が東京大学名誉教授の畑中洋太郎先生だ。畑中先生が提唱する「失敗学」では、失敗の経緯を明らかにすることで大事故を防ごうという立場を取る。最近になって、「原子力村」が隠蔽していた事実が次々と明るみに出てきた。全ての事実を明るみに出して、次の世代に大事故を起こさせない防止策を立てていただきたい。



 「・・・失敗は誰にとっても嫌なものだが、人間の活動につきもので人が生きている限り避けて通れない。そうであるなら大切なのは失敗しないことではなく、失敗に正しく向き合って次に生かすことである。これが失敗学の基本的な考え方である」(『失敗学のすすめ』同上、文庫版あとがきより)。



(画像は、文庫版のカバー。2005年に出版されて5年間で17刷のロングセラーになっている。一読をお勧めする) 



5/24(火) 日常の奇跡

 今月に入って、ソフトバレークラブの練習も毎週火曜日にできるようになり、活動できることに感謝の気持ちが出てくる。夜のTVの爆笑問題がインタビューする、癌の末期を迎えた人たちを訪問する番組があった。そこに出てきた医師が言った。「患者の皆さん、最後に何をしたい?と尋ねると、いつも歩いていた道をまた歩いてみたい、とか日常的なことに戻りたいと返事が帰ってくる」。その医師は、そのことを『日常の奇跡』と表現していた。ありふれた日常は当たり前でない、という意味か。

 当たり前のように活動できるソフトバレーやママさんバレーや部活が、地域によってまだまだ再開できていない。体育館の補修費が議会で承認されないので、8月まで練習できない、大会が開催できないという地域がまだまだある。そんな環境下で、我がソフトバレークラブや我がママさんバレーチームは練習ができる。ありがたい、という気持ちを震災復興後も持ち続けなくてはいけない。

2011年5月22日日曜日

5/22(日) 千葉県ソフトバレー・スポレク祭予選会に出場

 予選会には県内から19チームが参加して船橋市運動公園体育館にて開催された。同時に年齢フリーの部も開催され、館内の12コートはフル活動であった。

 1試合目はフルセットの接戦であったが、原因は私のコンタクトの左目がずれていたから。コンタクトのズレを直し、次のゲームでようやくもジュースまで行ったが、今一つ冷静さがなかった。グループ戦で4位になり、午後からは3,4位グループに回った。昼食をとったせいか、体が軽くなり、動くがスムーズになってきた。女性陣の動きも良くなってきた。結果は、この部で優勝であった。

 我がソフトアレークラブでは、1セット目に出ていないベンチの人間は、必ず次のセットに出る決まりを設けている。やはり、ゲームに出ないと流れがわからない。このような状況ではこうなる、と先を読んでプレーしなくてはならない。

 自宅に帰って、シャワーを浴びる前に、毎日行っている「腕立て」を行った。本日は、80回できた。来週からは100回できるであろうか。腕立てを行うようになって、オーバーハンド・パス力が向上した。何か一つでも、毎日、数は少なくとも自体重を活用した筋トレを続けたい。

2011年5月21日土曜日

5/21(土) 千葉県バレー協会の指導強化普及委員会を開催

 午後3時半から、千葉市の海浜幕張に向かった。町内会が主催で、高層住宅街のメインストリートをホコ天祭りにして、フリーマーケットが展開されている。実は、昨夜の我がママさんチームの練習で、我がチームも開店するとの話を聞いていたので、覗きに行った次第である。

 各人の家々から持ち寄った衣類、本、バッグなどの日用品を格安で販売していた。店員さん達のウエアはバレーのユニフォームである。携帯カメラのバッテリーがあいにく切れてしまってここに紹介できないのが残念。意外と小学生のお客さんが多く、子供達には新メンバー募集のチラシを持たせていたのには感心した。部員募集のノボリも作っていた。アラフォーのパワフルなママさんが一人でも入部してくると、このチームも面白くなるのだが・・・。8月末にはアルコールと食べ物でホコ天にて開店するそうだ。その時には、私もマスターで活躍できるかもしれない。それとも、店の商品の試飲や試食で役に立たないかもしれない。いずれにしろ、その時の収益で、来年度に新ユニフォームを作る資金にするということだ。

 フリマも30分ほどで退出して、電車を1時間乗り継いで、県立柏井高校に向かった。きょうは第1回の千葉県バレー協会の指導強化普及委員会の開催日。昨年、千葉国体も終了し、委員も半分近く減らした。国体開催までは、強化一辺倒の委員会で、指導普及の話など関心なしのような委員会活動に嫌気をさして、一度は辞任しようとした。きょうは、新委員が指導普及の話にも耳を傾けてくれて、新委員長も小学生、中学生のジュニア層の人口拡大に意欲を示してくれた。

 また、忙しくなりそうな予感・・・。

5/20(金) 公)日本バレー協会の新会長が決まる

 公益財団法人日本バレーボール協会(JVA)は、17日に協会新人事を発表した。公益財団法人に移行したため組織作りに多少時間がかかったようだ。新会長は、副会長の中野泰三郎氏(64歳、日本コカコーラ社取締役副会長執行役員)が、昇格した。前会長で4期8年間務めた前会長の立木氏は定年で退任する。役員も大幅に入れ替わった。今後は理事が中心になり執行していく。

 新会長は記者会見で、強い全日本が不可欠、強い全日本が人口拡大にもつながる、必要ならば補正予算も組む、と力強く発表した。東日本大震災に長期的な支援を行うことも併せて発表した。経歴を見てて、驚いたのは、この方の誕生日が1922年3月11日で、大震災が発生した日と重なっていることだ。新会長は。挨拶の冒頭で「東日本大震災が本会(JVA)にとってもターニングポイントになった」という発言は、JVA組織が一般財団法人から公益財団法人に組織替えしたこと、誕生日の日と大震災発生が重なったこと、そしてこの時期に新会長に就任したことで「ターニングポイント」という言葉が出てきたものであろう。使命感を持った発言と、私は捉えた。

 常時の時にトップに就く人、有事の時にトップに就く人。どうも、有事の時は有事を切り開く人物に歴史はスポットライトを当てるものなのであろうか。政治の世界では、原発の収束どころか、一国のリーダーが自滅的に、そして同じ党内からも叩かれ終息に向かっている。我がバレーボールの世界は、どうであろうか。政治の世界は国民目線はどこへやら、政策どころか政局に活発化している有様である。我がバレーボール界は、新会長がこれからどのような旗を振って行くのであろうか。現場を把握した具体的かつ実行型で推進していただきたい。

 さて、そんな偉そうに評論家ようなことを言っている私も、明日には千葉県バレーボール協会の第1回指導・強化・普及委員会がある。副委員長に再任され、指導普及の責任者である私は、今年度から小学生と中学生の効果的な連携を県レベルで推進していく必要があると考えている。千葉国体も終わり、委員も半分が退任された。委員長も東京学館船橋高校の中山和之先生が新任となった。新委員長の委員会活動に対する考え方、そして委員の考え方をじっくり聞くことから始めたい。 

2011年5月20日金曜日

5/19(木) 栃木県鹿沼市バレーボール協会へ行く

 鹿沼市バレーボール協会から、講師の要請が入った。初めての土地である。鹿沼市のバレーボールといえば、小学生バレーが盛んだと聞いている。栃木県女子バレーを代表する国学院大学栃木高校女子バレー部にも鹿沼市出身が大勢いる。卒業生で大学でも日本一になり大活躍し、現在Vリーグで活躍中の福田舞さんも鹿沼市の出身だ。



 お茶の水の駅から新宿を経由して湘南快速に乗り2時間半で鹿沼市に着いた。打ち合わせに見えた協会の吉村さんにお話を伺うと、対象は女性だという。ママさんバレーではなく9人制を行う一般女性で51チームあるという。名称は「女性部」という。ママさんバレーは?と聞くと。11チームという。何故、ママさんバレーより一般女性9人制の方がチーム数が多いのですか?と更に聞いていった。「高齢でもコート上でプレーしたいんですよ。ママさんバレーだと、高齢者はプレーする機会が減るから女性部でチームを作って楽しむようになったんです」。ママさんバレーの世界でも、20数年前から50歳以上の「全国いそじ大会」、60歳以上の「全国ことぶき大会」が始まっている。鹿沼市はそれ以前の28年前から女性部ができて独自に発展してきたようだ。



 打ち合わせで、午前中には女性部の愛好者の個人参加者100名を対象に開催し、午後からは小学生チームの練習ゲームにアドバイスで立ち会うことになった。会場は、VリーグやBJリーグの試合も行われるフォレスト体育館。開催日は6月26日(日)。



(画像は、帰りがけに、吉村さんから頂いた地元産のトマト。自宅に帰り、さっそくそのトマトを夕食に頂いた。なんと甘いことか・・・。これは野菜ではなく、フルーツだ。ブランド名が私の次女の名前と同じで、これも気に入った。「福来茜」と書いて「ふくあかね」と読む)




2011年5月18日水曜日

5/18(水) 宮城県岩沼市から支援品の御礼が届いた

 岩沼市には、今まで10回以上訪問している。今年2月に急逝した宮城県ソフトバレーボール連盟理事長の三浦さんは、その岩沼市役所にて防災課長も歴任したベテラン行政マンであった。

 3.11の震災では、岩沼市は太平洋に近い地理でもあり、津波の被害に遭った。市の総面積の48%にあたる約29平方㎞が浸水した。180人が死亡。田畑1240㌶が塩水に浸かった。地震で家屋も倒壊した。隣接している海沿いの市町村の被害は更に大きく、岩沼市は自らも被災を受けたが、多くの避難者の居住地となった。数多くのソフトバレー交流大会を開催し、私も15年前から毎年のように講習会講師として訪れた市総合体育館は、現在、遺体安置所になり、身元の分からない方達の魂が行き場を失っている。

 岩沼市を私以上によく訪れるソフトバレー関係者に佐藤三幸さんがいる。ソフトバレーの世界では、山形県ソフト連盟副会長として、全国的に名前が知れ渡っている人であるが、正式な名前を呼ばれたことはほとんどない。「サンコーさん」と呼ぶと、佐藤さんは「さんこうまでに言いますと・・・」などとボケを返してくる。

 そのサンコーさんから、先月、岩沼市に支援物資を送りたいので協力願いたい、との緊急のメールが入った。さっそく私は、押し入れにある、なるべく未使用品を中心に衣類を送った。そして、本日、会社のメールに礼状が送られてきた。添付の画像を開けると、サンコーさんと岩沼市在住の宮城県ソフト連盟役員であるエミコさん達が支援品集積所の前に立っている。その脇に私が送った段ボールがある。段ボールの表面には「渡辺さんありがとう」と書かれている。別の画像には、集積所で並べられている衣類とそれらを選んでいる避難者の方も見える。

 私は、他の地域にも衣類などを僅かではあるが、送らせていただいたが、具体的に、このように、この地で役に立っているという情報を頂いたのは初めてである。そして、あの衣類たちが、お役に立っているんだなと素直に嬉しかった。

5/17(火) 我がソフトバレーの練習日

 先々週の船橋市春季大会で久々に40歳以上の部で優勝したせいか、メンバーが意欲的に出席してきた。たまには勝つことも必要ではある。

 本日のテーマ練習は、セッター練習を行った。女性陣のセッターが一人3回連続トス。連続トスの3回目は、ネットから離れたレシーブをトスするようにコーチ役の私は投げ続ける。これに、男性陣のスパイカーを付け、更にブロッカーを2枚つける。スパイカーは、ブロッカー2枚を避けて抜いて打とうとしても、ソフトバレーのコートは小さいので、アウトになってしまう確率が高い。 そこで、ブロックが2枚付いたら、ブロックアウトを取りに行く、つまり相手ブロッカーを利用する打ち方を覚えたほうが良い、と私は考えて実践して、ことごとく成功している。理由として、ソフトバレーはオーバーネットが反則であるということ、そしてボールが柔らかいので、ブロッカー側としてはブロックアウトを防ぐのが難しいということがあげられる。

 ブロックアウトを取る基本は、硬いボールを扱うときでも同じこと。ストレート側のブロッカーの手の平半分に当てることである。トスが短いときは、手首を捻って(回外運動、回内運動)、ボール内側から触れて、ボールをコート外側に弾きだすように打つ。

 本日、60歳以上の方が2名、練習体験に見えた。我がクラブは、ますます平均年齢が上がっていく。現在、千葉県内で№1は間違いないであろう。喜ぶべきこと・・・である。そして、できれば、アラフォー世代も入って欲しいな・・・。

2011年5月16日月曜日

5/15(日) 関東高校バレー予選会in神奈川県



 本日で関東ブロックの代表校が全て決定した。本日は、埼玉県、東京都、神奈川県の決勝が重なっていて、どこに行くか迷ったのであるが、神奈川県に行くことにした。
 
 いつも、ここから本来書こうとしたものと別の方向に行ってしまうのであるが、今日は結果を中心に淡々と述べていきたい。

 神奈川県の会場は、東海道本線の平塚駅からバスで10分のところにある広大な平塚公園の中にある総合体育館であった。隣接しているプールでは小学生のスイミングクラブ対抗戦も行われていて、多くの人出があった。女子の決勝は、ここ8年間定番になっている川崎市立橘と県立大和南。コート後方にある役員席の端の椅子に、たまたまであるが、橘の前監督である羽田野先生と大和南の前監督である飯塚先生に囲まれて観戦することとなった。

 結果は、フルセットで橘の勝利。新チームでは、春高バレー直後の新人戦に次いで2連勝である。レベルは全国16くらいであった。勝敗を分けたのは、エースの差である。橘のエースのパンチ力は小柄ながら、なかなかのもので大和南のブロックを打ち抜き、時にはインナーに鋭く打っていた。

 男子の決勝は、ここ2年同じ顔触れで、川崎市立橘と全国大会では上位に入っている県立弥栄の戦いになり、フルセットでこちらも橘の勝利で幕を閉じた。

 閉会式が終わり、大和南の前監督であった飯塚先生とコーチの和美ちゃんと一緒に夕食に向かった。飯塚先生は、来年で大和南高校を退職する。その後は、どこか大学女子バレー部で指導したいと言われていたが、先月から相模女子大学の監督に就任したとのことである。部員は12名で、関東学連7部からのスタートである。

 夕食を取っている間に、埼玉、東京から結果の連絡が入ってきた。東京都男子では、今年の春高バレーで優勝した東亜学園にはメンバーも残っているし、東洋は勝てないだろうなと思っていたのだが、何と優勝との連絡がコーチから次に監督から入ってきた。フルセット、全てジュースの大接戦であったとのこと。これで、関東男子大会は東洋が2年連続第1シード権獲得。関東3連覇も夢でなくなってきた。昨日、埼玉県の春日部共栄高校男子バレーの斉藤監督に聞いたところによると、東洋のセッターである関田君は、プレーもさることながら態度も素晴らしい、とお褒めの言葉があった。そんなキャプテンがいる東洋はまだまだ伸びていく、と確信をもった。来週の練習に顔を出して私も彼を褒めてあげよう。

 高校生も頑張っている。私もがんばらにゃ。


(画像は、女子の決勝。高校バレーの3本柱は、エースアタッカー、セッター、そしてリベロ。エースはブロッカーを破壊しながら打つパワーと度胸が、セッターはどんなレシーブでもアタッカーの打ちやすいトスに変換する思いやりが、リベロは全体の半分のレシーブを上げる気迫があれば、チームは安定する。今はどのチームも新チームなので、柱が育っていないか、1本柱しかいない。関東大会を経て、インターハイ、春高に向けて多くのチームが柱を育てて高レベルでのゲームを展開してくれることを期待している)

5/14(土) 関東高校バレー予選会in埼玉県

 埼玉県の予選会に顔を出すのは8年ぶりであろうか。会場の羽生市体育館まで、電車で2時間かかった。羽生駅からのバスは一日6本しかなく、タクシーで会場に向かった。

 埼玉県高体連バレー専門部のプログラムは、なかなか見事なもので、各チームのメンバー表には出身中学が記され、巻末には県内各ブロックの予選記録も載っている。その中に、過去の関東大会出場校と成績が載っていた。

 12年前には、もう時効だから、昔話であるが、S高校の女子バレー部を手伝っていた。当時、S高校は過去県大会最高の成績がベスト8で、4年毎に監督が交代しても、レベルの高い埼玉県ではその当時、ベスト16のレベルで低迷していた。

 私の後輩がそのS高校に新監督で就任して、私も手伝うようになった。週に2日は通い、土日曜日は練習試合に付き添った。遠征での練習試合は、遠くは長野県1位の松商学園さんによくお世話になった。当時のサービス権での15点ゲーム方式では、初年度3点取るのが精一杯であった。現在のラリーポイント制であれば、7~9点というレベルの差があった。当時の監督の堀之内先生には随分とお世話になった。練習試合後の夕食でのお話が今でも思い出される。

 ある日、先生は言われた。「指導は、畑仕事と同じで、一気に育てようとしてもひ弱になるだけで、毎日毎日気長に育つのを待つしかない。育つのは生徒自身であって、指導者は環境作りだね」。

 堀之内先生は、2年目も嫌なお顔もされず、弱いチームを迎えてくれた。セットは取れないものの、11点までは取れるようになってきていた。そしてその年には、ベスト8に定着した。隣県のベスト4のチームと練習ゲームをやっても、セットを落とすことがなくなってきた。3年目には、初めてベスト4に入り、川越商業、春日部共栄、細田学園と肩を並べるようになった。この年の関東大会予選では、3位に入り、翌年の全国出場は視野に入ってきた。

 その直後に、私はS高校から手を引いた。私は、生徒にも、父兄にも何も言わず去った。この理由は、また10年後にでもお話ししようと思う。それから、1ヶ月後に監督が学校から去って行った。学校のバレー部部長さんからは、私に迷惑をおかけしたとの連絡があった。今はもう、その当時の理事長もお亡くなりになり、部長先生も学校を辞められている。今年の地区予選会のS高校の成績を見たら、地区の1回戦敗退であった。

 おっと、話を戻すとしよう。会場に入って役員の顔触れが一変していることに驚いた。30年近く、付き合っている春日部共栄高校の男女の監督、コーチとお話ができたのは良かった。

5/13(金) 我がママさんバレーチームの公式試合

 今年度の全国ママさんバレーボール大会は震災の関係で中止と既に決まっている。しかし、各都道府県での予選会はできるところは行ってよろしいとなった。我がママさんチームの属している千葉県家庭婦人バレーボール連盟では、予選会をやりますよ、ということで、本日、千葉市支部予選会が開催された。参加チームは約40チーム。4チームでのトーナメント戦を行い2勝したところが県大会に進出する。

 結果は、1回戦を2-0で勝利、2回戦は0-2で敗退した。1回戦の2セット目は接戦の上の辛勝であった。どうも、我がチームは、20対15や20対16という、あと1点でのセットポイントを「勝利した」と勘違いする先走り感があるようだ。今回対戦したチームとは、実は昨年末の千葉市ランク別大会でも対戦し、6点連続失点で逆転負けを味わっている。くしくも、今回の2セット目が同じような展開となった。相手チームは20対16でマッチポイントをかけられて意気消沈としている。しかるに、我がチームはそこから4点連続失点で、20-20のジュースとなった。最終、23-21で辛勝であったが、相手スパイカーのミスに助けられての薄氷の勝利であった。

 私は、結果オーライであれば良し、とはしない。こちらがミスが多くとも、相手がそれ以上にミスを出しての勝利を手放しでは喜べない。意思を持って、意図したように、計画的に積み重ねた結果であれば、たとえ負けても、進歩している最中のことなので、「良し」と評価する。

 一方で、私の中には「たかがママさんバレーなんだから勝とうが負けようが楽しく一日が過ごせればいいんじゃないの」と、評価するもう一人の私がいる。「たかが」と「されど」の間で揺れながら、ありきたりの言葉であるが「努力を継続する」ということは譲れない。何となく体を動かしているということを見過ごすことは、私にはできない。しかし、何となく動かすことも日常には必要なもの。常に何かの目的のためにやるのは窮屈だ。

ママさんバレーは、否、私という生きものは、難しいものである。

2011年5月11日水曜日

5/11(水) マイ指導テキストの作成

 7年ほど前からであろうか、自分用に自分でオリジナルの指導テキストを作ることが大事と思い立ち、コツコツとパソコンを使って作成している。市販の教科書やテキスト類には、肝心のことがさほど書かれていない。1冊読んで、数ヵ所役に立つぐらいである。著者も現役の指導者は少ない。それはそうであろう。現役の指導者が自分の指導の秘密を公開するはずはない。一般的に、功なり名をあげてから、出版社の編集者の協力を得て、それなりの本を出版する。

 3ヶ月に1回ほど、自分のテキストに追記したり、表現を変更したりのいわゆる編集作業を行っているのであるが、2年前と比べて劇的に変わったのが、バイオメカニクス(解剖学、生理学、力学)も入っているのだが)の学習の成果で指導書を書き直していることだ。今まで、仕事の関係で名指導者たちと一緒に教室やクリニックに参加させていただいた。その時に名指導者たちがやっていた指導法をバイオメカニクスで根拠づけると良く理解できた。

 最近は、解剖学の中でも「肩甲骨」に凝っている。夜寝る前に、布団の中で寝そべって学習しているので、肩甲骨というよりも肩が凝ってくるので、困っているのではあるが・・・。

5/10(火) 我がソフトバレークラブ練習再開なる

 日常生活、毎週リズムのある生活というものは偉大なる平凡というか、誠にありがたいものである。

 本日から、3・11の震災以来、夜間使用禁止になっていた中学校の体育館の開放が再開となった。週1回の練習であるが、59歳の私が楽しく、真剣に自分のプレーと向き合える時間と空間である。

 高校生のトップチームやママさんバレーに新たな指導法を導入する場合、まず自分でそのスキルをやってみることが指導者に必要と私は考えている。ソフトバレーの練習時間は、そんな私にとっては指導法導入の試しの時間でもある。そして、6,9人制での硬いボールを使用しても、師範(モデル)をある程度以上はできるようにすることが指導のスキルとして必要と考えている。それが、私の指導スタイルの特徴の一つでもある。

 ソフトバレーの基本練習は、初心者指導を除いて、中級者以上にはほとんど行わないのが私のやり方でもある。ソフトバレーはボールが軽くて軟らかいので、オーバーハンドで行えば、ボールコントロールはさほど難しくない。従って、ソフトバレーでは応用練習とゲーム練習を多く行う。

 昨夜は、まず応用練習で、サーブレシーブからスパイクを一人で行う練習を行った。上級者はレシーブからクイックに入る。ゲーム練習ではサーブ2本制で行い、1本目のサーブをエンドラインめがけてのスピードサーブを要求した。いわゆるチャレンジサーブの実行である。ダブっても2本目があるので、1本目は練習としてスピードサーブやきわどいコースに打てる。そしてその感触や経験を自分のものとして蓄積していく。但し、2本目をダブったならば、罰として腕立て3回を課す。多少のストレスを与えて、ストレスにも対処できるように工夫している。先週の市民大会での優勝も強気のサーブで相手を崩して2段トスの状態にさせ、ブロックで仕留めたのが勝因の一つであった。

 試合形式の練習では、近づく県大会での試合に合わせたメンバーでチームを構成し、役割分担を明確にする。私は、主審を行いながら、審判台上からコミュニケーションとしての声を出すように要求する。特に、ボールに触れる前の「ハイ!」「ヨシ!」「いいよ」「まかせ」という意思の声を短く大きく出すことを、20年間も飽きずにメンバーに要求している。そして、構えとしての腕の位置を胸の前に上げておくこともしつこく言っている。飽きずにしつこく言うことが指導と考えている。

 60歳以上の人ほど両手がダラリと腰の下に下がったまま構えている。これでは、ソフトバレーの基本の構えであるオーバー・パスやオーバーでのレシーブが上手くコントロールできない。専門用語で言うと、「セットが遅くなる」ということである。腰の下に両手があると、レシーブが片手になってしまう。片手では、大きなソフトバレーのボールをコントロールすることは難しい。大きく柔らかいソフトバレーボールをコントロールするためには、両手を使って受け手の表面積を大きくして10本の指を最大限使ったり、平手で更に表面積を拡大して強打にも対応できるようにする。これで、60歳以上になっても自分の子供のような30歳代の若者と一緒のコートでゲームが十分できる。

 しかし、我が総勢25名の大穴クラブにも40歳代が少ない。今年も募集を頑張るか・・・。

2011年5月9日月曜日

5/9(月) 5月の連休も終えて・・・

 日本のバレーボール界をリードしてきた日本体育大学が大きな試練にさらされている。 

 知り合いの方から今週号の「週刊新潮」177ページを読みましたか?とメールが来た。普段、週刊誌など買いもしない、見もしない、もっぱら電車の吊り広告のタイトルを読んで、十分満足しているのだが、今朝380円を出して買った。記事は、日体大の理事会での内部抗争に関しての記事であった。

 日本体育大学といえば、我が国でオリンピック選手・指導者を数多く輩出してきた大学である。男子バレーOBだけでも古くは東京オリンピック(1964年)男子バレーチームの監督であった坂上先生(卒業の後、中京女子大教授)始め、一人時間差を生み出したMrバレーボールこと森田淳悟先生(現、日体大教授)、天才の三橋栄三郎、最近では全日本現役の小さなエース米山とキラ星のごとく輩出している。体操で北京金メダリストの内村選手(東洋高校出身、今春大学を卒業)のような現役学生のオリンピック選手が少なくなってきたものの、全国で現場のトップ指導者として活躍している卒業生の数は、日本一である。その日本体育大学で、ここのところ、お家騒動が起きている。

 記事では、真相は、細かに述べられていない。何が起きているのか良く知らないが、迷惑するのは学生たちだ。8日の毎日新聞には、元野球部総監督で前理事長が裏口入学斡旋で金銭の授受があったのではとの嫌疑がかけられているとの記事が載った。誰かのリークであろうが、理事会、教授会、同窓会でさらに解決の糸が絡まってきて、授業に差し支えるようにでもなったら、忍耐強い日体生たちも黙っていないであろう。お家騒動で損をするのは学生たち。では、得をするのは誰であろうか。

 根拠がなく無責任な言い方であるが、得をするのは大学関係者ではないような気がする。日体大関係者の皆さん、早期解決を望みたい。週刊誌の3面記事なんかで名を売ってほしくない。

2011年5月8日日曜日

5/8(日) 震災と金子みすゞの詩




 連休最後の日、本屋でNHK語学教室のテキストを購入に行った。5月号の『入門ビジネス英語』と『TV実践しゃべらナイト』の2冊をレジに持っていくと、レジ前に金子みすゞの詩集が積み重ねてあった。



 私がみすゞの詩と出合ったのは、今から15年前のTV番組での特集であった。買い求めた詩集のなかに「大漁」という詩があった。たかがイワシの漁のことなんだが、イワシへの眼差しは、みすゞ自身がイワシになっていることに新鮮な感動を覚えた。



 3・11大震災以後にTVでの公共広告で同じ画像が繰り返されて多少うんざりとしていたときに、みすゞの童謡詩がシンプルな画像とともに繰り返し流された。繰り返し見ても、聞いても嫌にならない。その詩のタイトルは、「こだまでしょうか」。こだまのような言葉の繰り返しの中に、小さき者たちへの柔らかな視線を感じる。



 みすゞの優しさや思いやりは、人だけでなく、自然にも注がれる。雪にも、路傍の石ころにも、葉っぱにも。今から75年前に26歳の若さで自死したみすゞ。彼女の詩には、冴えた透明感がある。そして静謐な死の予感がする。子供の目線で語られるその詩は、第1次世界大戦中にアフリカの空で飛行中に亡くなった『星の王子様』を書いたサン・テグジュペリを思い出させる。



青いお空のそこふかく、


海の小石のそのように、


夜がくるまでしずんでる、


昼のお星はめにみえぬ。


見えぬけれども


あるんだよ、


見えぬものでも


あるんだよ


・・・金子みすゞ「星とたんぽぽ」より




 私たちは、大人になるにしたがって、自分のこども時代の感性を亡くしていく。それが、ある意味、大人になっていくということでもある。しかし、こどもの感性を大人がまったく感じられなくなったとき、大人は人間であることをやめたときなのかもしれない。金子みすゞは、こどものままの感性で自分の命を絶った。彼女にとって、死は生きることの完成形ではなかったのか。




(画像は15年前に購入した詩集。家族のだれかが、私の本箱から抜き出して、今でもテーブルの上に置きっぱなしになっている。時には詩の世界に静かに沈むのも良い・・・)

2011年5月7日土曜日

5/6(金) 松任谷由美さんの「春よ来い」

 連休も後半に入り、来週から会社通勤の日が始まる。今年の連休は、今までの一か所での高校合宿への参加というのでなく、いろんなところにお邪魔した。そして、この週末は自宅でのんびりと過ごすことにした。

 録画で撮りためていた、TV番組を見た。NHKの夜の番組に『SONGS』という歌番組がある。4月27日放映の歌手は、私と同年代の松任谷由美さん。作詞作曲もする彼女であるが、見かけは普通のそこら辺にいるおばさんであるのがいい。彼女の歌は、彼女の人生と重ねて創作されている。青春時代の『卒業写真』は、私もギター片手に良く歌ったものだ。

 今回、彼女が歌ったのは、新バージョンで『(みんなの)春よ、来い』。1994年から1995年にかけてNHK朝のTVドラマ「春よ来い」の主題歌として歌われたものだ。春は毎年やってくる。春はどんな人にも桜の花とともにやってくる。また桜を見よう。そんな気持ちが歌われている。番組が始まって間もなくの1995年の1月に阪神淡路震災が発生した。被災者の心が空っぽになった状態のところに、この歌が流れてきた。春はやってくる。次の春までに元気になっていよう。歌の力ですね。

  

5/5(木) ママさんバレーin千代田区

 本日の午前中は、千代田区立麹町小学校の体育館にてママさんバレーの練習。先週練習試合に立ち会った都心に住むセレブ・ママさんたちのチームである千代田クラブさんを訪問した。麹町というところは、地名からして食べ物に関係しているかな、と聞いてみた。確かに、江戸城の台所です、という返事であった。当時は各藩の上屋敷、下屋敷が並んでいたという地には、現在マンションが建ち並んでいる。

 練習後に、食事会ということで、鮨屋さんに9人ほどで向かった。私が、季節の旬のものとお酒があれば言うことなしと言ったのがいけなかった。ビールで乾杯の後、冷酒にタケノコの煮物だけで、かれこれ3時間もその店で雑談を繰り広げた。

 どうも飲みすぎたようで、自宅と反対方向の八王子方面の電車に乗ったらしい。国分寺辺りで乗り換えて、自宅に着いたときは、とっぷりと日も落ちていた。恐るべしは、セレブママさんのお酒のつぎ上手。ボールを受けるのはやや苦手でも、ひとに与えるのは上手なりけり。

2011年5月4日水曜日

5/4(水) 高校女子合宿in船橋市



 茨城県立結城第一高校の合宿所で5時に起きた。結城市を含めた県西部地区ソフトバレーボール連盟会長の望月さんが、合宿所前に自家用車で迎えに来てくれた。新幹線の停車する栃木県小山駅まで送っていただいた。望月さん、ありがとうございました。

 さて、この日は、私の住む船橋市に戻って、東葉高等学校に向かった。私の関係している東京都の東洋高校ではない。読み方は同じでも、東葉は元は被服科のあった女子専門学校で、10年ほど前は、学校名が「船橋学園」であった。東葉高速鉄道が敷かれて、学校名も変えたのであろう。東葉は「東京と千葉」をつなぐ鉄道なので、頭文字と末尾の文字をとってつなげた名称である。

 この学校には西沢先生という熱心な指導者がいる。昨年来から、学校にお邪魔しますと約束したいたのが実現した次第である。もう1チーム印旛郡にある東京学館高校に来ていただき、ゲーム中心にコーチングを始めた。ゲームの中で個々のプレーを指導していった。先生方の普段の指導がよく、礼儀の良いチームであった。こういうチームを、1年後に県大会ベスト8まで行けるように指導するのが私の楽しみなんです。

 午後になったら、市内の他の高校の監督さんが2名見学に見えた。最後の練習は、大きな声を出せるように、4つのチームを作って、歌合戦で締めた。大きな声を出せることは、度胸を付けることにもつながる。勇気も出てくる。ステージに上がってもらって、大きな口をあけて腹から声を出してもらった。何年ぶりかの普通の高校生たちとの楽しい合宿であった。

 明日は、またまた千代田区のセレブ・ママさんチームの千代田クラブの指導である。先週の練習試合で確認した課題の練習をしなさい、というママさんたちからの命令?である。2日続けて高校女子の指導から、平均年齢五十ウン歳のママさんの指導に移る。・・・気持ちを入れ替えなければ・・・ならない。

5/3(火) 高校女子合宿in結城市

 今年の5月の連休の過ごし方は、関東各地でのバレーチーム訪問になった。この日は、朝早く、電車で2時間かけて茨城県結城市の県立結城第一高校に出かけた。結城市は結城紬で全国的に有名である。結城駅から徒歩で20分ほどというので、学校のHPに載っていた地図をプリントアウトして片手で見ながら歩いて行った。地図の中には、「迷いやすいので注意してください」と注意書きがあった。15分ほど歩いて行ったが、地図に載っている目印の神社やお店がない。30分ほど歩いて、何かおかしいと思って、道端で掃除しているおばあさんに聞いた。

「一高はどこでしょうか?」
「あんた、それは反対に来ているよ。どんどん離れていくよ。今の道を戻って行った方がいいよ」
「ええ~っ!」

 ≪迷いやすいので、気をつけてください≫確かにそうだ。何なんだ、この地図と違って曲がりくねった道は!?1時間かけて、やっと学校に着いた・・・。結城第一高校の柴田先生曰く、「ここは城下町なんで、敵がわざと迷いやすいように道を作っているんだ」とニヤニヤしている。先生、今は江戸時代じゃないんだから、判り易い地図を作ってくださいな・・・。ああ・・・良く歩いた・・・。

 学校に着くと、すでに練習試合が始っていた。神奈川県、東京都、埼玉県、地元茨城県から計7チームが参加していた。レベルは、関東大会常連が2チームで、他は県大会出場というレベル。夜になって
日帰りの3チームを除いたチームの監督さんと合宿所の中で夕食となった。全国に出場したことがなくとも、指導者の情熱は全国区と同じかそれ以上。楽しい会話が11時まで続いた。 

2011年5月2日月曜日

5/2(月) DVD『24』最終シリーズを見終えて

 この連休を利用して、ビデオ屋さんから借りていたDVD『24』の最終シリーズを見終えた。飽きさせず、見る人の予想を裏切るようなストーリーの展開、緊迫した展開の中での悪人にも親子の絆・愛情を描いている。24時間の中で、場面を分割しながらも同時進行させるカメラワークも当初は斬新であった。何よりも特筆されるのは、展開にハラハラドキドキのスピード感がある。DVD1枚の時間が1時間45分なのであるが、あっという間に過ぎてしまう。

 ラストは、人間の愚さとその愚かさに気付き認める人間の高潔さに救われた。現実は「正義」が必ずしも通るわけではない。残念ながら、現実の世の中には、自分たちの利益にしがみつく矮小な人間が多い。今回の震災で、いろんな人間のいろんなところが前よりも鮮明に見えてきた。

 明日は、早朝に茨城県の結城市にある県立結城第一高校に1泊で行く。女子バレー部の合宿に合流する。

 
 

5/1(日) ソフトバレー市民大会に出場して



 私が住んでいる船橋市のソフトバレーボール春季交流大会に出場した。会場の船橋市運動公園体育館の天井にはネットが張り巡らされ、落下物が床まで落ちないように補修がされていた。

 ミックスの部は40歳以上とフリーの部に分けられている。6年ほど前に40歳以上の部は創設された。それまではフリーの部が14年間も続いていた。スタートはフリーの部であっても、年齢を重ねていくと若い人たちと対等にプレーできなくなり、面白さも無くなってくる。10年ほど前には私と同じような50歳代も結構な人数もいたが、8年ほど前から50歳代は私を入れて少なくなっていった。そこで、同じようなレベルでゲームを楽しめるように、運営役員に提案して、6年ほど前に40歳以上の部が実現した次第である。

 さて、我がクラブからは2チーム出場して、午後4時にゲームを終えた。結果は久しぶりの優勝であったが、他のチームより平均年齢が15歳ほど高めであったので、5試合は少し疲れた。勝因は、集中力と戦術だ。年齢が高い分、集中力がある。戦術は、60歳代後半の女性でも実行できるサーブのコース(バックセンター)に限定して、少し強めのスピードサーブで攻めた。そして、サーブのミスは1セット4本までOKにして緊張感を減らした。集中するということと緊張するということは違う。強気のスピードサーブで相手のサーブレシーブが乱れ、2段トスからのスパイクを、我がチームの男性陣は結構ブロックできた。我がチームの攻撃は、両サイドからのストレート打ちを重点的に行い、40歳代前半の他のチームの高いブロックを利用してブロックアウトを誘い出す戦術を継続した。

 ゲームは、単に勝った負けただけではつまらない。相手のチームに対応した戦術を工夫して成果が出るところが面白い。相手のチームが絶対的に強い場合は、目標獲得点数を達成するようにすることで満足できる。

 ゲームを終えて、最近気になっていることがある。ゲーム開始時と終了時には、握手して挨拶するのであるが、互いに相手の眼を見ずに眼を合わせないようにして挨拶している人が多い。ゲームは、相手チームがいなければできない。従って、ゲームの結果が勝とうが負けようが、相手に感謝してにこやかに握手して欲しい。相互に相手に対して「リスペクト(尊敬)」を持ってプレーすることが、良き人間関係を築く基になる。これも、スポーツの力だ。

(画像は、我が大穴クラブAのメンバー。特徴は、高齢者が多く、県ソフトバレー連盟の総務副委員長、審判長、総務委員と役員が3名いることである。公認リーダー取得者も8名いる。今後の課題は、若い世代のメンバー募集。もしくは、思い切って特徴である高齢を更に拡大して日本一の高齢者クラブを目指すか?否否、やはり多世代が同じクラブにいた方が楽しい)