2009年12月30日水曜日

日立市での高校生合宿

 起床して、前日の肝いりのアンコウ鍋が効いたのか、すこぶる肌つやがよいことに気付いた。ちびっこチームも「ちびっこ軍団」に変身してきたようでアドバイスした戦術を一つ一つ身につけてゆく。実はここの「ちびっこ軍団」の部長がなかなかの人物である。遠征バスの運転手もやっていただいているが、この部長先生なくして「ちびっこちーむ」が、この合宿で「ちびっこ軍団」に変身することはなかったといってよい。松蔭大学での合宿を初めて2日目に、格下のチームとやるときに、相手に不要な点数を与えた場合、部長先生に罰を科しますよと子供たちと約束していた。そして、その時相手に4点も不要な点数を与えたので1点につき2回の腕立てを部長先生に私が命じた。あなたの指導が良くないから集中力のないこのようなゲームになったのですから、お願いします。その時、部長先生は「はい!」とばかりいやな顔をなさらずに黙々と8回の腕立てを実行し始めた。そうしたら、そこに立っていた部員も「私たちもやります!」と一斉に腕立てをやり始めた。これには、私も驚きました。そして、それ以来何かチームがまとまり始めてきたような気がしましたね。
 29日の対戦相手は日立二高と、隣県福島県から見えたベスト四レベルのチームの計三チームで練習ゲームを行い、今年の練習を打ち上げた。今の「ちびっこ軍団」が1月には「ちびっこピラニア軍団」に更に変身した時が県大会決勝で相手と5分5分の戦いができると確信している。今は、4分6分で相手チームがアドバンテージ(優位性)を持っている。春高バレー県大会決勝で、お互いに県のレベルを上げるような納得のゆく内容で人事を尽くして戦って欲しい。ライバルチームがあってこそ自分も伸びる。相手のチームは敵ではない。相手のチームはこちらのチームを伸ばしてくれるライバルだ。敵は自分たちのチームの中にある。敵は自分たちの慢心の気持ち、油断、甘えにある。敵は我にあり。

船橋市中学女子バレー親善交流大会開催

 船橋市は元々千葉県中学女子バレーが盛んな地である。「三きち」と言われた熱心な指導者がいた。「三きち」とは三人の気違いじみた熱心な指導者という意味である。その内のお一人は、大穴中学校の雨宮先生という指導者で温厚な方であった。県大会で、大穴中学は常にベスト四以上で活躍しており、優勝も数多く達成していた。23年前に、優勝した時の大穴中学の主力メンバーが体育科を創設して3年目の市立船橋高校に入学してきた。セッターは「夫婦善哉」を書いた作家の織田作之助のお孫さんで小さいが機敏なプレーが印象的であった。エースは「つん子」という168cmであったがゴムまりのようにジャンプしては強烈なスパイクを放っていた。その年、ほぼ1年生チームで県大会を優勝したことを思い出した。その時のコーチは私と現在市立船橋男子バレーの監督である石井先生であった。
 思い出話はそのあたりにして、28日に「第19回船橋市中学女子バレー親善交流大会」に戻そう。ベスト16からのゲームに先立って、私が紹介され子供たちを励ます挨拶をさせていただいた。市内からの参加チームは18校、市外からは11校の計29校。市内の6つの中学校を会場に熱戦が繰り広がれた。初めは、今は退職された「三きち」の指導者が中心に八校の指導者が始めた手作りの練習会が脈々と今の若い指導者に受け継がれている。このあたりが、いまだに女子バレーの盛んな船橋市の原点なのかもしれない。
 来年は20回記念練習会ということで、私がオリンピック選手を引き連れてくる約束をさせられてしまった。子供たちでも知っているオリンピック選手・・・それもお金をかけないで・・・これは、楽しい難題ですな。
 午後には、自宅にいったん帰り、妻の指導のもとに家事その他を行い、外泊の許可を頂いたので、高校生たちの合宿に戻ることとなった。今回外部コーチに付いているちびっこチームは、既に千葉市から北に茨城県日立市に移動していたので、追いかけるように車で家を出た。行先は県立日立二高。着いたのは夜の九時前であった。まずは、晩御飯をどうぞと案内されたお店で出されたのは高級魚であるアンコウ鍋であった。今の時期からが旬であるらしい。大変贅沢な晩御飯を頂き、学校内の宿泊所に戻り、そこでまた指導者論や教育現場のお話など深夜まで楽しい話が続いた。

2009年12月29日火曜日

そしてまた高校生の合宿に戻る

 27日は朝から千葉敬愛学園に戻り、高校生合宿に戻った。外部コーチしているそのチームは更に良くなっていた。もともと基本の指導がしっかりとなされているチームであるので、私のアドバイスはどんどん子供たちに吸収されていく。一番高い選手が172cmで平均身長が160cmのちびっこチームであるが、サーブレシーブがなかなか崩れない良く鍛えられているチームである。この中学生のようなちびっこチームが春高バレーに出場したらちょっとした話題になるであろう。明るい話題がそのチームには必要だ、と私は強く考えている。けなげに頑張る子供たちが私は大好きだ。諦めない子供たちが可愛い。頑張れ、ちびっこ達!私もできるだけのことはやる。
 

第3回JVA競技規則委員会開催

 来年度のルールブックの編集委員会が29日、大阪府立体育館の会議室にて開催された。大阪への日帰りは結構きつい。新幹線往復で5時間、合宿の疲れもありほとんど寝ていた。府立体育館では前日から全国中学選抜選手権大会(JOCカップ)から開催されていた。ゲームをあまり見る時間もなく、ルールブックの編集委員会に出席した。今回は第1回の校正が主な会議の内容である。この後、1月末に第2回の校正を行い、3月末には2人制、4人制、6人制、9人制のルールブックが完成する。
 会議の後、近くの喫茶店に同じ委員会のメンバーと入店したら、Vプレミアの監督さんと目が合い、同席してしばらく談話する機会を得た。全日本女子のこと、最近の審判員の技術のことなど有益な情報を得ることができた。やはり、全国大会にくるとバレー界の色々な人と会うことができる。

高校女子バレー部合宿開始

 全国的に24日が終業式。終業式を終えた公立高校の女子バレー部や全国私学を終えた全国からの私学の女子バレー部のチームが神奈川県厚木市にある松蔭大学(関東1部リーグ所属)に集まった。北海道、宮城県、栃木県、千葉県、神奈川県、東京都、山梨県、長崎県の新人戦2位以上の名門チームが来年の1月から始める春高バレーの予選会に向けて練習試合を展開した。例年、私も外部コーチとして特定のチームに付いて主にサーブの指導をしている。
 24日から27日昼まで松蔭大学で合宿を行い、午後から千葉県千葉市にある敬愛学園に関東のあるチームが移動するというので、近く(船橋市)に住んでいる私もそのチームの専用バスに便乗させていただき、そのまま午後からの練習にも加わった。敬愛学園には既に北海道、茨城県、東京都、滋賀県、奈良県、埼玉県、栃木県から有力チームが集まっていた。高校の指導者たちは、本当に熱心だ。指導者たちの家庭は大丈夫かなと心配になるが、ご家族の応援があってこそ指導者たちも指導に専念できているのであろうと考えることもできる。
 28日には千葉市で私がコーチをしているママさんバレーのチームの女性監督が陣中見舞いということでプリンなどを差し入れしていただき、外部コーチをしているチームの子供たちは喜んでいた。やはり、高校生も女。花より団子なんですね。プリンを見た瞬間、その日の午後からのゲームは他県1位の実力チーム全てにほとんどセットを取る寸前までの頑張りを示した。また、他県の2位以下のチームにはことごとく撃破するという豹変振りであった。願わくば、このままの勢いを保って春高バレーの県予選会まで行ってほしいものだ。

全国私学高等学校バレーボール大会

 20日から23日まで町田市の総合体育館にて第14回全国私学高等学校男女バレーボール大会が開催された。参加チームは160チーム。男子の優勝は東京都の東洋が初優勝、女子は宮城県の古川学園が優勝した。3年生がゲームに出なければいけないルールなので、年が明けての春高バレーの成績の参考にはならないが、3年生が出るとやはりレベルが高くなる。
 来年は、春高バレーが1月5日からの開催なので、この私学大会の開催と非常に近接することになり、春高バレーに代表になったチームが私学大会にも出場することは、コンディション調整や経費の絡みで非常に難しくなるのではないかと危惧した次第である。
 我が国のスポーツ界を牽引している私立学校のバレーボール部がこの全国私学大会に来年度からどのように対応していくのか気になるところである。

2009年12月15日火曜日

5ヶ月ぶりの大学院訪問

 5ヶ月ぶりに丸ノ内線の茗荷谷から歩いて2分の大学院に残してきた資料や文献を取りに行った。夕方訪れたので院生もほとんどおらず静かな校舎であった。5月に仕事のやりくりをしながら何とか論文提出をやっていた時期が懐かしく思い出された。院生室には誰もおらず、ふと教官室をみると私の指導教官であった菊先生の部屋の明かりがついていた。ノックすると「どうぞ」といういつもの声が聞こえてきた。しばらく先生と雑談をして部屋を出た。先生のお話では、今年も1月には論文提出が間に合わない院生が数名いるようだ。
 仕事を持ちながら論文を書き上げるのは確かに難しい。しかし、それを承知で入学してきた仲間たち。誰一人として弱音は吐かないが、普段論文形式の文章作成の習慣のない社会人にはきつい作業ではある。私の初めての論文も指導教官に徹底的にこきおろされた。私の初めての論文は「渡邉さん、本でも出版されるのですか?論文の形式にまったくなってないですよ」と、言われたものである。4年生大学の卒論だったら分厚いレポートのようなものでも論文として受理される大学が多いと聞く。さすがに大学院の修士論文はそれではだめだということだ。他のスポーツ系の私学の大学院では結構甘いということも耳に入っていた。しかし、ここはいやしくも国立の大学院の誇りを持っている。審査は厳しかったが、今となっては自分のために良かったと思っている。
 大学院を修了したメリットは何ですか?とよく問われる。私には今のところメリットは感じられないが、修士論文を仕上げた自信に誇りを持っている。放り投げだそうと思ったことも数度あったが、これ以上だめだという限界を繰り返していると、ある日突然パッと明かりがさしこみ急に理解が進む時がある。
あきらめなければできる、ということをこの時ほど感じたことはない。
 もう駄目だと思ってもすぐに放り投げださず、もう少し、もう少しと努力を継続することしか成功への道はない。あきらめなければきっとできる。

2009年12月14日月曜日

三郷市中学生女子バレーボール教室

 12月12日(土)は埼玉県三郷市の三郷総合体育館に行った。昨年の12月から依頼されていた教室である。対象は市内13校のうち9校の中学女子バレー部。昨年の講師は、元全日本男子監督も務めた斎藤勝先生。依頼主は三郷市を中心にママさんバレーの指導を精力的に行っているモントリオールオリンピック金メダリストである神白(旧姓飯田)高子さん。飯田さんからの依頼とあれば断る理由はない。お声をかけて頂いたことが名誉なことである。
 開講式は三郷市教育長の挨拶から始まった。中学生たちは、ほとんどが中学校に入学してからバレーを始めたという初心者であった。初心者には、リードアップゲームとしてのミニゲームをたくさんやってバレーボールのラリーを楽しんでいただこうと、まずはアップとしての基本のステッピングからスタートした。ところがこのステッピングがうまくいかない子が多すぎたので少し時間がかかってしまった。基礎的な体力が不足していることは明らかであった。ボール投げもたくさん行った。投げる動作がスパイクやサーブの動作につながるので有効なアップである。子供たちが自分たちでできる基本練習も紹介した。
 教室終了後に、珍しく飯田さんから夕食のお誘いがあった。ママさんバレーのお弟子さん3人も同席し楽しく会話が弾んだ。飯田さんが中学生バレーに危機を抱いたのも本日の教室で少しわかったような気がする。三郷市は外部コーチを認めていないということだ。教員も公務多忙。日本体育協会の指導者資格を有している地域の人材を活用すれば、教員先生方も子供たちも助かるのではないか。そんなことやらたわいのない会話まで9年ぶりかで飯田さんと夕食を共にした。金メダリストでここまで地域に密着して貢献している人はいない。いつまでもお元気でママさんと中学生を指導して欲しいものである。

2009年12月8日火曜日

今日は日米開戦の日

 悲惨な戦争は、68年前の今日、ハワイにある真珠湾攻撃で始まった。日本が先に奇襲攻撃を仕掛けたとか、奇襲攻撃を意図的に掛けさせられたとか歴史家は諸説述べているが、戦後残ったのは日米双方の多くの痛ましい犠牲者ではなかったか。開戦時は帝国主義の時代。強国がエネルギーの獲得とともに国力の拡張、敵国への防御に軍事力で対峙していた時代である。思えば、黒船の時代から日本はアメリカや欧州列強の脅威にさらされていた。
 2年前にソフトバレーの指導の関係で初めて小笠原の父島に行ったとき、ペリーの黒船が食料補給で立ち寄った記録を読んだ。激戦地の硫黄島も30キロ先に浮かんでいた。
 朝日新聞の天声人語で、そんな日米開戦に関する記事を読んでいたら、批評家の小林秀雄さん(故人)が能について述べた一節が書かれてあった。〈美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない〉。ソフトバレーについて、小林氏のくだりを借りて言うならば「『楽しいソフトバレー』がある。『ソフトバレーの楽しさ』という様なものはない」となろうか。抽象的な「楽しいソフトバレー」でおしまいにせず、ひとりひとりの「ソフトバレーの楽しさ」を追求することが愛好者を増やすことになるのではないか、と考えた次第である。
 ソフトバレーが発明されて20年が経った。そして、日本的な「部活スポーツ」を経験してきた役員が主催するからであろうか、地域の交流大会は、競技スポーツの色彩が強くなってきた。このままでは一部の上手で強い愛好者たちだけが残り、プレーそのものを楽しんでいる大部分の普通の愛好者は同じコートから去っていってしまうのではないか、という危惧感がある。ソフトバレーは競技的にも楽しめるレクリエーション・スポーツであって、競技スポーツではない、という原点に立ち返る必要がある、と私は考えている。

2009年12月6日日曜日

第15回船橋市近隣親善ソフトバレーボール交流大会開催


 本日は、3年ぶりに地元の交流大会に我がクラブの仲間と参加した。参加チームは全部で45チーム、その内、市外チームは24チームで県外は3チーム。実はこの交流大会は我が船橋大穴クラブが2回まで開催し、その後、市協会に移管したものだ。いつも県外のチームに招待されていたので、年に1回は自分たちでご招待しようということで、最初は県外のチームが半分もいた。ほとんどのチームが全国大会に行ったことのあるチームでレベル的にも結構高かった招待試合であった。県外からのチームは、前日から集合し酒宴で盛り上がり、翌日は二日酔いもなんのそのという活躍ぶりであった。あの当時、皆40歳代50歳代の働き盛りで、ソフトバレーの未来を夢を持って語りあっていた。今思えば、楽しいひと時であった。
 時とともに当時のソフトバレーの理念が薄らいでいっていると感じているのは私だけであろうか。ソフトバレーボールは競技的にも楽しめるレクリエーションである。しかし、競技的のところが、最近拡大され過ぎているのではないだろうか。初心者が定着しない、高齢者が減ってきた、という声を全国的に聞く。活動をやっていないわけではない。練習はやっているのであるが、試合には出てこない。試合に出てもすぐに負けてしまうから、つまらない。だから大会には出ない。
 ソフトバレーボールはもともと誰のためにできたのか。初心者や高齢者、そして子供たちを中心に誰でもできるというキャッチフレーズで日本協会が発明したスポーツ種目である。「誰でも、試合に出て普段の練習の成果を出して、他のチームと交流して仲間意識を醸成していくのもソフトバレーの目的の一つである」。試合のやり方を少し工夫すれば初心者でも1勝1敗のそこそこのゲームができる。全敗で、一方的なゲームでは、確かにつまらない。これからは、障害者の人も一緒にチーム入って対戦するようになってくる。対戦の組み方、表彰の工夫などまだまだ考えられることはたくさんある。
(画像は、会場の船橋市運動公園体育館での開会式での風景。準備運動に軽音楽をかけて全員で行うという伝統はまだ継続されていた。今回から、市内のスポーツ店に売店を出していただき参加者に喜んでいただけるように特価品を販売していただいた。随分売れたということをスポーツ店の店長から報告を聞いて、これも参加者満足の一つ、と私も一安心した次第である。)

2009年12月5日土曜日

埼玉県坂戸市ソフトバレーボール連盟主催研修会

 本日は、以前から講師を依頼されていた埼玉県坂戸市でのソフトバレーボール研修会に出かけた。会場は坂戸市を代表する総合体育館である。内容は「ミニリーダー研修会」というようなもので、朝9時から午後4時半までのスケジュールでルールの理解を中心にウオーミングアップ、基本練習法を学ぼうというものだ。
 地域でのこのような研修会は、通常は講師を引き受けないのであるが、会長さんのお名前が私の故郷の山形と同じ姓であったという単純な理由でお引き受けすることにした。但し、私からの条件としては、埼玉県連盟を通じて再度ご依頼くださいとお願いした。
 車で出かけたが、高速道路を平均時速100kmで2時間かかった。坂戸市連盟の特徴は女性役員が多く、明るいという印象であった。ソフトバレーボールの愛好者は6割以上が女性なのだから、役員も半分以上は女性がいたほうが女性の立場がよく理解でき運営も上手くいくに違いないというのが、単純であるが私の論理である。
 受講者は約40名。「ゲームライクな練習」というテーマで、試合が近い場合の練習のやり方というものをご紹介した。1週間前の青森県での指導者研修会との関連もあり、内容的には濃いものであった。
Warming-Up、Cooling-Downも少し詳細に説明させていただいた。
地域で愛好者のために頑張る役員さんたちには、本当に頭が下がる。会長の山形さんのような地域のリーダーが県連盟の役員にもっと増えてくれば埼玉県連盟もさらに発展するであろう。県連盟というものは地域で頑張るリーダーたちを支援することが任務の一つである。第2第3の山形さんのようなリーダーを発掘し育てていけば日本のソフトバレーはもっともっと発展する。本日はそんな希望を頂いて会場を後にした。
 明日は3年ぶりに私の地元での近隣招待試合に出場する。

2009年12月2日水曜日

青森市での指導者研修会


11月27日夜から28日、29日と先週末は、青森市民体育館で約40名の県内トップレベルの受講者と県ベスト8の男子は青森工業、女子は青森中央高校バレー部員をモデルに東北ブロック指導者研修会の講師で行ってきた。外は気温11度でしたが、体育館内は熱気で温度が上がり、研修を終了。今回は自分で出したテーマの「ディフェンス・システムの理解~ブロックとのスパイクレシーブの連携~」であったが、指導ノートを作るうえで結構苦労した。しかし、そのお蔭で私の知識はまた増えた。教えるということは学ぶということ。それにしても、夜のご招待と日中の緊迫した研修会は疲れた。
 30日の早朝に日本体育大学バレーボール部の前部長である進藤教授が心不全で亡くなられた。享年69歳であった。12月3日の本日、東京都体育館をメインに開催されている全日本大学バレーボール選手権大会に行った。丁度、日体大男子の試合であった。進藤先生は秋田県でNo.1の進学校である県立秋田高校出身である。私が山形県人だということで、同じ東北人として随分可愛がっていただいた。 ご自宅にも何度か招待され、日体大出身の当時の日本リーグ在籍の全日本選手たちと仲良くお酒を飲ませていただいたことを思い出した。豪快で繊細でお茶目な進藤先生は旅立った。ご家族も寂しくなることであろう。
合掌。 
(画像は受講者とモデルチームの青森中央高校女子バレー部そして青森工業高校男子バレー部の全員での集合写真。2日目の研修会の時に子供たちがだらけてきたので、活を入れた。「君たちは男優であり女優なのだ。演技は大袈裟に強調してやらなければ画面で映えない。もっとパフォーマンスしなさい」。そうしたら、男優や女優という言葉が効いたのか、子どもたちは最後の力を振り絞り頑張りだした)