2011年5月16日月曜日

5/14(土) 関東高校バレー予選会in埼玉県

 埼玉県の予選会に顔を出すのは8年ぶりであろうか。会場の羽生市体育館まで、電車で2時間かかった。羽生駅からのバスは一日6本しかなく、タクシーで会場に向かった。

 埼玉県高体連バレー専門部のプログラムは、なかなか見事なもので、各チームのメンバー表には出身中学が記され、巻末には県内各ブロックの予選記録も載っている。その中に、過去の関東大会出場校と成績が載っていた。

 12年前には、もう時効だから、昔話であるが、S高校の女子バレー部を手伝っていた。当時、S高校は過去県大会最高の成績がベスト8で、4年毎に監督が交代しても、レベルの高い埼玉県ではその当時、ベスト16のレベルで低迷していた。

 私の後輩がそのS高校に新監督で就任して、私も手伝うようになった。週に2日は通い、土日曜日は練習試合に付き添った。遠征での練習試合は、遠くは長野県1位の松商学園さんによくお世話になった。当時のサービス権での15点ゲーム方式では、初年度3点取るのが精一杯であった。現在のラリーポイント制であれば、7~9点というレベルの差があった。当時の監督の堀之内先生には随分とお世話になった。練習試合後の夕食でのお話が今でも思い出される。

 ある日、先生は言われた。「指導は、畑仕事と同じで、一気に育てようとしてもひ弱になるだけで、毎日毎日気長に育つのを待つしかない。育つのは生徒自身であって、指導者は環境作りだね」。

 堀之内先生は、2年目も嫌なお顔もされず、弱いチームを迎えてくれた。セットは取れないものの、11点までは取れるようになってきていた。そしてその年には、ベスト8に定着した。隣県のベスト4のチームと練習ゲームをやっても、セットを落とすことがなくなってきた。3年目には、初めてベスト4に入り、川越商業、春日部共栄、細田学園と肩を並べるようになった。この年の関東大会予選では、3位に入り、翌年の全国出場は視野に入ってきた。

 その直後に、私はS高校から手を引いた。私は、生徒にも、父兄にも何も言わず去った。この理由は、また10年後にでもお話ししようと思う。それから、1ヶ月後に監督が学校から去って行った。学校のバレー部部長さんからは、私に迷惑をおかけしたとの連絡があった。今はもう、その当時の理事長もお亡くなりになり、部長先生も学校を辞められている。今年の地区予選会のS高校の成績を見たら、地区の1回戦敗退であった。

 おっと、話を戻すとしよう。会場に入って役員の顔触れが一変していることに驚いた。30年近く、付き合っている春日部共栄高校の男女の監督、コーチとお話ができたのは良かった。

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